第10話 恋

 寝間着姿になったグレナはふと窓を振り返った。高い所に月が見える。満月をとうに過ぎた月はもうずいぶんと痩せていた。


 嫌な月。そんな想いが胸によぎり、グレナは顔をしかめた。少し感情が不安定なことを、自覚はしていた。それは舞踏会のあった夜、甘い花茶を飲んだ夜から続いている。


 頭を振って気を散らし、鏡台の前に座る。簡素と言うには粗末すぎる鏡台。けれどグレナにとってはそのみすぼらしい鏡台が日常だった。「グレナドーラ姫」であるアルティも使っている物はほとんど変わらない。


 荒っぽい手つきで髪をとかす。早くアルティと顔を合わせたかった。一人でいると不安だった。いや、不安では、ないのかもしれない。名状しがたい心のさざ波。


 立ち上がって剣をつかみ足早に寝室へ向かった。扉を開けると、アルティはいつもと同じように花茶を淹れながら待っていた。茶炉の火も明るい。


 その光景になぜだかひどく安心して、それでグレナの口から言葉が漏れた。


「あーあ、早く帰ってくれないかしら、マルタレクス殿下」


 アルティが顔を上げる。


「どうして? あの方のことが嫌い?」

「嫌いってわけじゃないけど……」


 従妹の隣に腰を下ろしながら、グレナは言葉を濁した。差し出される茶器を受け取っても、まだ何と言えばいいのか分からない。


 黙ったまま一口花茶を飲んだ。やさしい香り。やっとグレナは言えることを一つ思いつく。


「マルタレクス殿下の行く先行く先、セリアルーデか王妃かさもなきゃサイルード大臣が出てきて、大騒ぎなんだもの。気が休まらないったら、ないの」

「……ええ、本当に、力強いルーデの方々は必死になってるわよね……」


 アルティも頷いて、花茶に口をつけた。


 二人寄り添って花茶を飲む。いつもと同じ夜。同じ儀式。


「力強い方々は……成功するのかしら?」


 突然アルティが言った。


「え?」

「いえね、あの方々があんな振る舞いを続けていたら、ノルフィージャの方々も……あの方々を避けてしまいたいと思うのじゃないかしら」


 従妹の言葉にグレナは少し考えてみる。花茶をもう一口飲んだ。


「そうね……今回の、ノルフィージャがカルメナミドから妃を迎えるって話そのものが、無くなるかもね」


 暗い中、小さな茶炉の火が揺れた。アルティの淹れた花茶はいつもと同じ、とてもおいしいはず。なのにどうしてか、あまりおいしいと感じなかった。自分はどうしたのだろうとグレナはまた不安になる。


「ねえ、これは聞いた?」


 茶器を置きながら、アルティがさらに言った。


「マルタレクス王子殿下が、第三騎士団の訓練をご覧になっていたそうよ」


 グレナの手の茶器がカチャンと音を立てた。


「そうなの?」


 アルティはしっかりと頷く。笑顔ではなく、真剣な表情だった。


「コルンヘルム殿下とご一緒だったのだそうよ。それでこうも聞いたの……マルタレクス王子殿下は、とても熱心に、『女騎士アルティグレナ』が訓練をする様子を、ご覧になっていたって」


 グレナは茶器に目を落とした。花茶が細かく波を立てていた。それを止めようとして、でも止められない。震えているのは自分の手、そして――。


「全然気づかなかった」


 声さえ震えている気がした。


「ずいぶん長い間ご覧になっていたそうよ」


 もう持っていられなくなって、グレナも茶器を置いた。強いてそっけなく言ってみる。


「珍しい女騎士なんてものに、興味を惹かれただけじゃない?」

「でもグレナ」


 アルティが身を乗り出すようにしてくる。逆にグレナは、身を縮めた。


「マルタレクス王子殿下は武国ノルフィージャのお方よ。そして私は、『アルティグレナ』がどんなに優れた騎士か、よく知っているわ」


 二人の間に沈黙が流れた。燃え尽きる寸前、茶炉の火が激しく揺れている。グレナの心も、揺れる。


 期待をするのはとうに諦めた。諦めた、はず、だけど――


 どうしても心に浮かぶのは、あの金の髪の王子。


 耐えきれなくなり、グレナは顔を背けてうつむいた。


「……ねえアルティ、私もう疲れちゃった……早く寝ましょう……?」


 わずかな時間があってから、アルティは身を引いた。


「そうね、今日はもう、休みましょう」


 アルティが炉の火を吹き消して立つのを追って、グレナも立ち上がる。そしてベッドへ向かううち衝動に駆られて、グレナは従妹の左腕に自分の右腕を絡めた。


「グレナ?」


 アルティが振り向くのに、グレナはさらに身をすり寄せた。彼女の左手には剣、右手には誰よりも大事な従妹。


 それなのに、なぜこんなに心が波立つのか。あんな、余所よそから来た、王子のために――。


「私……大好きよ、アルティ」


 口走る。アルティは微笑んだ。


「私も大好きよ、グレナ」


 二人並んでベッドに入る。グレナは剣を枕の下に置く。横たわり、同じ毛布を体にかける。


「おやすみなさい」


 アルティが囁く。


「おやすみなさい」


 グレナは消えそうな声で返して、アルティの手を握った。



 マルタレクスはカルメナミド王宮内の居室で何もせずに座っていた。窓から爽やかな風が入ってくる。南向きの部屋には陽光がたっぷりと降り注ぎ、室内の金色のタイルを輝かせていた。それを、彼は見るともなしに見ていた。


 軽く扉が叩かれた音がして、誰かをよく確認もしないで入室を許した。入ってきたのはリーアヴィンだった。


「マルス、いたんですね。一つ二つ分かったことがあって、あなたの耳に入れようと思った、んですが……聞いてますか、マルス?」

「ああ、聞いてる」


 あまりよく聞いていないままマルタレクスは答えた。


「ぼんやりしないで下さいよ。ほら、何の情報だと思います?」

「何のって……もしかしてアルティグレナ殿のことかっ?」


 突然そんな気がして、マルタレクスは勢いよくリーアヴィンへ振り向いた。が、そこには呆れ顔があった。


「どうしてここでアルティグレナ殿が出てくるんですか。彼女のことを調べてどうするんです」

「……そうか」


 なんだ、と呟いて、マルタレクスはまた室内に目を戻した。木の葉をすり抜けて届いた日光が石造りの床の上で踊っている。身のこなしの軽やかな、ダンスだった。


「……あのですねえ……」


 ため息混じりのリーアヴィンの声が聞こえた。


「ええはい、あなたの状況はおおよそ分かりました。で……これ以上、事態をややこしくしないでいただきたいんですが」

「私の何が分かったって言うんだ」


 いささかむっとしてマルタレクスは返す。するとリーアヴィンは言った。


「正確には、思い出したんですよ。あなたの女性の好みに、アルティグレナ殿はちょうど当てはまるな、と」


 ぐっと息が詰まった。思わず立ち上がりリーアヴィンに詰め寄る。


「ななな何を言ってるんだ、リーン! わ、私が、あああアルティグレナ殿のことを、す、すすす、す……」


 どもりまくってまともに喋れないマルタレクスはぐいっと肩を押され、無理やり椅子に戻された。


「はいはい、あなたと私は長い付き合いですからね、あなたがどういう女性を好ましく思うかはだいたい分かっています。

 快活でハキハキしていること。身のこなしが軽いならなお良し。それから従順や貞淑よりも、自分の考えをはっきり言うような気の強い性格。まあ武の国ノルフィージャの王妃となるにはふさわしい女性像と言えますが」


 マルタレクスは言い返す言葉もなく、ただ口を開け閉めしていた。


「……で、もう一度言いますが。これ以上事態をややこしくしないでいただきたいんですが」


 リーアヴィンは頭痛を覚えたかのように額を押さえた。


「ななな何がややこしくなるって言うんだ!」


 やけっぱちでマルタレクスが怒鳴ると、友はまたため息を吐いた。


「はたから見るとですね……王女の中から妃をめとるはずの王子が、王女に仕える女性に恋をしてしまった、なんて、いったい何の戯曲ですか」


 風が木々の葉を揺らす音が、室内を流れた。マルタレクスは押し黙っていた。


「だいたい、ここに来る前はあれだけ『若葉の姫』と騒いでいたのに、ずいぶんな心変わりですよね」


 これにもマルタレクスは答えない。自分でさえそう思うから。


 リーアヴィンの言うことは、まったく正しい。この友は、将来の腹心の臣下は、いつもマルタレクスに的確なことを言う。


 それでも、どんなに自己嫌悪しようと、自分を律しようと試みようと、心がどうしようもなく惹きつけられるのだ、あの緑炎の女騎士に――。


「……とりあえず、その話は脇へ置いておきましょう。今どうこう言ってどうにかなる事ではないようですし」


 そう言ってリーアヴィンは懐から紙片を取り出した。


「話を最初に戻して、分かったことの報告をしますよ」


 マルタレクスの反応を待たず勝手に話し始める。


「セリアルーデ姫がまだ結婚していないのはおかしいという件ですが。あなたから聞いた、筆頭大臣と王妃が断ったという縁談は確認できました。アシュヴィス王国の第一王子とのもので、七年前に先方から打診されていました。ただカルメナミド側が断るのとほぼ同時に、アシュヴィスからも打診取り消しの通知が来ていたようです」


 ただ黙ってマルタレクスは聞いていた。


「察するに、アシュヴィスは比較的力のある国ですが、それでもカルメナミドに比べると小国ですから。もしセリアルーデ姫が嫁いでいたら、サイルード大臣やソニアルーデ王妃は我が物顔でアシュヴィスの国政へ干渉しようとしたでしょう。それに気付いたアシュヴィスが、理由をこじつけてでも慌てて断ったのではないかと。

 それでそれ以降、似たような縁談話が持ち上がっては似たように潰れるというのを四回ほどくり返した後、セリアルーデ姫への縁談はばったり途絶えたようですね」


「……で? ノルフィージャとしても、今回の話を断るべきだと?」


 半ば期待を込めて言ってみると、リーアヴィンはうーんと首をひねった。


「我が国とカルメナミドの関係の深さを考えると、そう簡単には断れません。というか縁談をまとめなかったとしても、あの大臣と王妃は今後カルメナミドを不安定に追い込みかねず、ノルフィージャの国益にとってかなりの問題です。コルンヘルム王子殿下が王となれば彼らはさらに図に乗ってくるでしょうし」


 つまりそれはマルタレクスの代になった時のことでもある。


「だからと言って……カルメナミドの内政に、私たちが口を出すわけにもいかない」

「そこがつらいところです」


 手詰まり感があった。あちらにもこちらにも。


「いずれにせよ、我々の滞在期間はまだありますしもう少し調査を続けます」


 リーアヴィンは再び紙片を懐にしまった。


「それでは私はこれで。……あなたらしくもなく部屋に籠もっていると、気持ちが変な方向へ進みますよ。それこそ、コルンヘルム王子殿下と剣の手合わせでもしてきたらどうですか」


 そう言い置いて友は出ていく。マルタレクスは一人取り残された。そのまま動けず、床に踊る木漏れ日にまた目をやる。


 剣の試合でもしていたほうが本当は自分らしい。それは分かっていた。けれどいま剣を取って訓練場に立つと、よけいに、あの緑炎の輝きを思い出してしまいそうだった。

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