魔物

@pori__tank

魔物

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 甲子園決勝戦。場面は9回裏ツーアウト。ランナーなし。点差は三点。我が佐賀陸高校が劣勢、いや、素人から見ればこの展開は100%俺たちが負け、相手の山岡高校がここでアウトをひとつとってゲームセット。選手たちはその瞬間、レギュラー陣もベンチ人も関係なしにマウンドに向かって走り出し、天に向かって人差し指を突き立てて「俺たちがナンバーワンだ!」とアピールする。誰にかって?決まってる。今まで応援してくれた家族、友人、恋人。一緒に戦ってくれた監督、コーチ、マネージャー、そして仲間たち。その瞬間こそ、頂点をもぎ取った者たちだけに許される一つの「きまり」のようなものだ。

 そのマウンドに立っているのはかつて俺がとある練習試合で利き腕である右の肘をピッチャーライナーで粉砕した木村が、左手にボールを持って立っている。奴はここまでノーヒット、いや、ランナーすらだしていない。いわゆる完全試合。この化物のような男を前にしてだったーボックスに立つのは、この俺、藤岡宏だった。


佐賀陸高校エースで四番の藤岡宏は一年生、二年生と公式試合に出ることはなく、ただただひたすらピッチング練習に明け暮れる日々だった。練習試合ではもちろんのこと、公式試合でさえ「肩をあたためる」という名目の監督命令で一回表から試合終了までひたすら投げ続けた。最初の頃は球数こそカウントしていたものの途中で無意味だということに気づく。監督の意思が全く読めないからだ。果たして俺に期待して毎日やらせているのか。はたまた俺のことが嫌いで、ベンチに一緒にいるだけで不快だから視界に入らないブルペンで投げさせているのか。全く分からず、俺は一年の入学直後から公式試合には一切出ず、ひたすらブルペンで投げ続けた。

 しかし二年生の秋の終盤。いよいよ冬に近づき、練習試合が組める日程はこれが最後だという日だった。俺はいつもどおりブルペンキャッチャーを従えていつもの場所に向かってとぼとぼと歩いていた。この時の俺の精神状態は最悪だった。高校二年生の秋にもなって公式試合の経験はゼロ。自分がどれくらいの能力で、どのくらい投げれるのかわからない。しかもこの練習試合は今年最後の練習試合。これが終われば、公式試合は春と夏しかない。

 無意味だ―。

 そんな考えが頭をよぎった。夏が終わってしまえば俺はもう何者でもない。あとは大学受験なのか、就職なのかの二択を迫られ、受験なら勉強、就活なら面接練習と頭をかかえて過ごすのは明確だった。

 だったらこの試合を最後に辞めればいいのでは―?

 そういう考えに行き付く。当然の帰結というやつだ。しかし、「辞める」という問題を前にして必ず入る「好きだからやりたい」という感情。しかし今回に関してはその感情が横槍を入れてくることはなかった。逆に芽生えた感情は「もういいんじゃないか?ここが終点さ、終わろう」という妥協と挫折の感情だった。俺は決心し、この試合が終わったら監督に言いに行こう。もう野球は辞める。やめさせてくださいと言いに行こうと。

 そんなことを考えていると後方からスパイクで地面を走るザクザクという音が聞こえてきた。振り返ると同時に肩をポンと叩かれた。

「藤岡、メンバー交代だ。監督がやっぱりお前に投げさせろってさ」

 仲間にそう告げられ、監督の方を見ると、彼は顎を使って指示した。

 監督のその指示に嬉しさ半分、怒り半分を抱えながら、ボールを受け取りマウンドに向かって走り出した。

 結果は―。まあ、俺が甲子園決勝でレギュラーに選ばれている時点でわかるだろう。

 そこから俺は隠されていた実力の花を開花させ、この最後の大会にはエースで四番という名誉あるポジションを勝ち取ることができ、大舞台の決勝まで進出することができた。もちろん、俺ひとりの実力ではないことは確かだが、何より大好きな野球をここ甲子園できていることに喜びを感じずにはいられなかった。

 しかし、来たからには勝ちたい。誰もが思うことだ。


 決勝のマウンドには。木村が立ちはだかった。


 俺が木村の肘を粉砕した瞬間はよく覚えている。最後の練習試合、先発交代を言い渡されて七回まで完全無失点だった俺は特に口には出さなかったが内心浮かれていた。七回裏、我が佐賀陸高校の攻撃。ワンアウトランナー二塁。この日二打数一安打だった俺はここからさらなる波に乗ろうと打席に立った。マウンドには山岡高校二年の木村がいた。今日はあまり調子が良くないのか少し青ざめた顔をしていた。成績もあまりよくない。この時すでにウチは5点をあげていた。フォアボールもちょくちょく出していた。しかし、それで勝ちを譲るほど勝負の世界は甘くない。

(この機会、利用させてもらうぜ)

 そう思った瞬間。体の内側から力が溢れだした。しかも木村がセットに入った瞬間、球種とコースが見えた気がした。

 外角低めのストレート―。

 木村の指から球が放たれた瞬間。俺はバットを思いっきり後方へ引き、叩きつけるように振り下ろした。

 キンッ。

 派手な音ではないが、確かに芯で捉えた感触があった。

 よし!

  そのまま球は無防備な木村の右肘に吸い込まれるようにして飛んでいった。


 ズドンと大きな音で我に返ると外角いっぱいに構えたキャッチャーミットに球が収まっていた。

「ストライク!」

 主審のコールと共に球場が歓声に包まれる。

「あと二球だー!」

「決めろ決めろー!」

「頑張ってー!」

 周囲の声援は完全に山岡高校一色だった。それに負けじと佐賀陸高校の応援陣も声を張り上げて応援しているが、ベンチにいる仲間の中にはすでに諦めて項垂れている者がいた。

「タイム!」

 一度打席を外し、ゆっくりと深呼吸をする。昔の記憶に囚われていて一球目がどんな球だったか覚えていない。いや、しかしそんな必要はなかった。左腕で再起した木村は一回の表から平均157キロの急速を維持し、最終回のマウンドにも平然と立っている。しかもこの灼熱のグラウンドの中でだ。

 化物だ・・・。

 半分恐怖心に支配されそうになった俺はブンブンと首を振って打席に戻り、木村に視線を向けた時、それを見た。

 木村の背後に何かがいる。それは実体がなく、マウンドから湧き上がっている黒い煙のようなものだった。そしてそれは木村の右腕に集中して包んでいるようだった。

 なんだあれは。

「プレイ!」

 主審の掛け声とともにハッとする。瞬きをした瞬間、それは影も形もなくなっていた―と思いたかった。それは相変わらず木村を包むようにしてうごめいている。なぜ誰も言わない?誰もあれが見えていないのか?

 木村はセットには入ると大きく足を上げ、真っ直ぐキャッチャーに踏み出して思い切り腕を振った。

 ズドン。

 爆発音にも似た轟音は一球目より大きな気がした。観客のどよめきも先ほどより大きい。ふとスピードメーターに目をやった。球速は160キロを記録していた。

「ストライクツー!」

 最早並の高校生が放る球ではない。プロですらこんな球速、キレ、ノビをもった投手はいないだろう。それをただの一高校球児が打つなんて。

 もう周りの声も音も聞こえない。顔を上げ、木村をまっすぐ据えた。相変わらずそれは木村の背後にいた。

 なんだそいつは。それが何かしているのか。そいつに力を借りているのか。それともそいつは幻覚で、この球はお前の実力なのか。

 木村はもう何度目かわからないセットに入った。足を大きく上げ、まっすぐ踏み込んだ。

 来る!

 このタイミングで俺はもうバットを振り始めていた。振らなきゃ当たらない。とりあえずバットに当てるんだ!

 木村の指から球が放たれる。瞬間、俺は木村が笑うのを見た。しかしその笑みは試合の勝利に対する笑みではないことは確かだった。

 ズドン。

 バットは空を切った。同時に最も大きな歓声で包まれる甲子園球場。山岡高校側からは喜び、喜び、喜びの声。佐賀陸高校側からは、悲しみ、後悔、敗北の空気。バッターボックスで俺はその両方を感じなが動けずにいた。なにも考えられなかった。

「どうだった」

 突然声をかけられた。マウンドから降りた木村が目の前にいた。俺は答えられなかった。というより声がでなかった。なぜなら木村の圧倒的威圧感と、何より絶対に幻覚だと思っていた木村の背後にいる黒いそれがまだ見えていたからだ。俺木村本人にただただガンを飛ばすことしかできなかった。

 少しにらみ合ったあと木村は整列しようとくるりと背を向けた。その背には黒いそれが―なんと俺を見ていた。俺は凍りつき、黒いそれを凝視した。すると黒いそれが言った。



 「甲子園の魔物ってさあ、凄いんだな」



 黒いそれは、あの時見せた木村と同じような笑みを見せた。

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