言ノ葉神社の 蛇とハト

宮本 ニゲル

序章 風光る

神社は雨上がりが一番美しい。

と、私は信じて疑わない。


出来れば早起きして行くのがいい。静謐せいひつな境内に白い日が差して、石畳や砂利は仄かに煌めく。見上げれば、もやのかかった山肌を背にして、御社殿が彼方の空を眺めるようにして重くたたずんでいる。

濡れてしまって構わないのなら、雨の日にもうでるのも悪くない。

恋しき日本の景色である。


神様に愛されたもりの只中にあって、心は澄み渡った独りの中を漂う。

降りしきる雨のしずく一粒一粒にはきっと、神様の力が宿っていて、物言わぬ狛犬は一粒一粒ごとに、石の中へと命が染みわたっている。





子供の頃、そう信じて疑わなかった。

そして、実は今でも信じている。





「小説家になるのが夢だったんです。けれどもなれなかった」


溜息が白くくゆれて雨音の中に消えていく。


「頭の中はいつでも物語で一杯なのに、書こうと思えばたちまち消えていくのです。書けたら面白いと思うんだよなぁ。きっと世の中が驚くような作品が出来上がる」

「そうですか。偉大な作家になるのだろうな。世間の称賛。富豪のような暮らし」

「お金はまぁまぁ有ればいい。それよりも褒められたい」


若い男が、仄暗い社殿の奥を見つめながら他愛のない話をしている。

恨み節ということもない。男は明らかに自嘲していた。


「褒められたい…」


天空めがけた杉の木立が揺れている。なんて暗いのだろう。


「とりあえず、中へお入んなさい」


白い小袖こそで姿の神主が自らの黄色い和傘を差し出した。

若い男は頭からずぶぬれになって、今朝より鳥居の横に突っ立っていたのだった。


「いえ、大丈夫です。やぁ、急に恥ずかしくなりました。自分語りなどね。昔から頭が悪いもんでね。どうもありがとうございました」


若い男は目を伏せて去ろうとした。しかし。


帰路を振り返って、狛犬と目が合った。

狛犬はもといた台座をからにして、参道の上から灰色の目でこっちを見ている。


「そう言うな。ゆっくりしていけ」


口をきいた。


嗚呼、俺はとうとう壊れたらしい。と、男は思った。そして不思議と、清々しい風が心に吹いた気がした。

そしてもう一度、神主の方を振り返り、呆けた声で


「僕は死ねるのですか」


とだけ呟いた。

神主はさすがに驚いた顔をし、やがて鼻を鳴らして笑った。


「死んだりするものかよ。話を聞こうと言っているんだ」

「そのあと狛犬に喰われたりはしないのですか」

「神社をなんだと思っているんだ。無事に帰れるから安心しなさい」

「…帰るとこ無いんです」

「無いはず在るものかよ」


しかして、確かにないのであった。

男は逃げてきたのだから。人生のあらゆるものから。

それに神主の方は、どこか分かって言っているような気配があった。急にこそこそとし出した男に向かって優しく尋ねる。


調だな。治りかけだろうが」

「そうです。それと生まれつきの。よくわかりましたね」

「目を見て話せばだいたいわかる」


そう言ってまた笑った。

この蛇面へびづらの神主には、男が一息に心を開いたのが分かった。


「さ、そろそろ中へ行こう。寒い」


気付けば雨は上がり始めていた。催花雨さいかうは過ぎ、風はどこか梅の香を含んでいる。

神主は白地に白の紋のはかまを濡らさないようにして社務所しゃむしょへと歩いていく。男の方はつられて歩き出した。振り返れば、先ほどの狛犬が台座に乗り直せなくてまごまごしていた。

先を歩く神主が名乗る。


「俺は神崎しんざきという。お前は」


応えようとしたが、固唾かたづが舌を凍らせて言葉にならなかった。



5年ほど前。

ヘビとハトが最初に出会った時の話である。

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言ノ葉神社の 蛇とハト 宮本 ニゲル @hajimeno02

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