第12話 史料の解釈をめぐって

 「N大学史学会本年度第2回例会のお知らせ


 時:11月2日 13:30

 場所:文学部A305講堂


 発表者:北野京子「『上杉本洛中洛外図屏風』に描かれた法華宗寺院について」(本校史学科学部生)


     丸岡秀夫「――――」(本校文学研究所)


 司会:吉見信男(本校文学部教授)

 ――――」


 とうとう、例会の案内メールが届き、身も心も引きしまる。

 11月2日まで、あと10日間。

 一週間前には配布レジュメを用意して吉見先生に見てもらうつもりで、今はそのプロトタイプ原稿ができたところ。

 自宅のプリンターから、できたてホヤホヤのレジュメが排出されるのを見て、ようやくここまで来たなぁって思う。


 さてと、私の研究の進展をお話ししよう。

 あれから啓一くんと本を読み直したところ、次の記述を見つけたの。


「現実に隆盛し力を誇示し合う代表的門流各寺院を絵の中にとり込み、内裏、公方を頂点とする秩序の中で適当なバランスを保たせる配慮が見えることであり、それは義輝の平和構想の中に収まるものでもあった」[瀬田勝哉『増補洛中洛外の群像』(平凡社)2009]p161


 私たちが見つけられたのは、本国寺、本能寺、妙顕寺の3ヶ寺が「諸寺代」であることのみで、ついに残りの頂妙寺、妙覚寺、本満寺が描かれている理由はわからなかった。

 しかし、この瀬田氏の記述から「代表的門流」の寺院と見なすのがよいだろうと考える。瀬田氏がこのように考えた根拠は、同書に述べられていなかったけれど、おそらくは二点あると思う。

 一つは私たちも見つけた『本能寺史料』の「諸寺代」の記述。

 そして、もう一つは、河内さんの本に出ていた「永禄の規約」。

 ちょうど『上杉本』が完成した前年に、京都にあった法華宗各派が連合する規約を締結したのであり、この二点から「代表的門流各寺院」と評価したのだと思う。


 とここまで来て、最大の問題にぶつかった。

 それは――、このままでは「新知見」でなくなってしまうということ。結局が瀬田氏の言うとおりですという結論では、発表にならない。


 今日これから啓一くんと『南風堂』で落ち合う予定。この問題について検討するためだ。


――――。

 カランカランという音とともに『南風堂』に入ると、出迎えてくれたのは彼女さんスタッフだった。

「あ、いらっしゃい。今日はお一人ですか?」

「後から一人来ますので」

「わかりました。……では、いつものお席がいいですね」

と言いながら、奥のスペースへ。

 啓一くんには悪いけど、先に注文させてもらう。気分を落ち着かせるために、今日はミルクティーをお願いした。

 ……ここだけの話。一日に三杯以上のコーヒーを飲むと胸が小さくなると聞いて動揺したのも理由の一つ。

 それはともあれ、鞄からレジュメを2部とりだして、啓一くんが来るのを待った。


 たいてい、このお店に来るのは平日の昼間ばかりで、さすがにこの時間はお客さんも少ない。今日もご多分の漏れず、たまに見かけるおじいさんが一人と、通りすがりのサラリーマンが2人で打ち合わせに利用しているみたいだ。

 窓の外には、商店街ということもあってそれなりの人々が行き来をしている。やはり大学が近いせいか、若い人も多いようだ。

 桜の葉もほとんど散ってしまい、知らないうちにどんどんと秋の景色に変わっていく。肌寒い日も増えてきて、カーディガンが手放せなくなりつつある。

 今年も、あと二ヶ月ほどか……。


 カランカランと音が鳴り、反射的に入り口を見ると啓一くんが入ってきたところだった。

 彼女さんスタッフに一声かけて、まっすぐに私のところへやってくる。


「悪い。待たせたな」

と言いながら向かい側に座る啓一くんに、

「ううん。私の方こそ、ありがとうね」

とお礼を言ったところで、ちょうどよく彼女さんスタッフが私のミルクティーを運んできた。

 啓一くんは私のミルクティーを見て、何を注文するか少し悩んでいたようだけど、結局、カプチーノをお願いしていた。

 ここは紅茶もおいしいから、冷めないうちにミルクティーをいただく。啓一くんを前に飲むミルクティーは、いつもより優しい甘さがしていると思う。

 啓一くんはその間に、私の作ったレジュメを手にとって、

「んで、こいつがレジュメか。ちょっと読ませてもらうよ」

と真剣な表情になって読みはじめた。


 最初は、無表情だと思っていたこの顔。正面から見ると、仕事をしている男の顔だと思う。そのピンと張り詰めた表情に、私は魅せられたように見入ってしまう。

 じいっと無言で読み続ける啓一くんにカプチーノが来たけれど、啓一くんは軽く頭を下げただけでレジュメに没頭している。

 しばらくして啓一くんは、一通り読み終わったところで長く息を吐てレジュメをテーブルに置き、無言で考え事をしながらカプチーノに口をつけた。

 なんだか、告白の返事を聞くみたいにドキドキしてきた。私の努力の結晶であるこのレジュメ。啓一くんの目にはどう映っただろう。


 味わうようにカプチーノをゆっくり飲み干した啓一くんは、カップを置いて、一言、

「このままだとマズいな」

といった。

 ビクンっと反応する私に、ちょっとどうしようかなというような表情で、

「よく調べられているけど、結論が瀬田さんのを再確認しましたって内容になってる。だから、別の見解を持ってこないと例会では厳しいかもしれないよ」

と鋭く指摘した。

 やっぱり思っていた通りの問題を指摘された。

 

 私はうなづいて、

「うん。自分でもそう思っていたの。それで意見がほしいなって思って」

というと、啓一くんはほっとした表情をしたのも束の間、腕を組んで考え出した。

「――そうだな。まずはこの瀬田さんの見解を批判するところから始めたらどう?」


 え? いきなりとんでもないことを……。


 そう思って目を丸くしていると、啓一くんはニヤリと笑って、

「大丈夫だって。いくら大先生の説だからってびびる必要はないよ。……ただ学術批判ってのは、相手に敬意を払ってするもので、喧嘩でも悪口でもないからな。まあ、京子は心配ないと思うけど、ちゃんと根拠を示すんだぞ」

と教えてくれた。


 なぜか私の胸がときめく。だって。だってさ、初めて「京子」って呼んでくれたんだよ。

 それだけで私の頬が緩んでニコニコしてしまう。それを見て、啓一くんは不思議そうに、

「なんだ? 急にニコニコして……。俺、なんか変なことを言ったか?」

というが、私は無視をして「そっか。ふふふ」と微笑む。


「まあ、いいか」と啓一くんは続ける。

「思ったんだけどさ。『代表的門流各寺院』ってようは『諸寺代』を言ってるんだろ? これを将軍義輝の視点で考えてみたらどうなる?」

「義輝の? ああ、依頼主だから……」

「そうそう」

「もともと、この屏風は義輝が上杉謙信の上洛を促すためのものとの説の立場で見ると。――そうね。やはり京の宗教界の状況を示す「諸寺代」の3ヶ寺は、やっぱり描く必然性があると思う」

「ああ。この3ヶ寺はそうだろうな」

「残りは――、なぜ?」

「結局はそこに戻るわけだな。河内さんのには何か書いてなかったか?」


 啓一くんにきかれて、私は鞄から借りている河内さんの本を取り出した。

「ええっと」といいながら、ページをパラパラとめくっていく。法華一揆、六角氏との外交、十六本山会合の成立……。あ、あれ?

 とあるページで私の手が止まる。それをじっと見ていた啓一くんが、

「で、なんて書いてある?」という。

 私はゆっくりと見つけた文章を読み上げた。


「制作者の狩野永徳自身が妙覚寺の有力檀徒であったということもさることながら、京都還住後の日蓮宗が、天文法華の乱以前と同様、あるいはそれ以上に繁昌のようすをみせつつあったこともあらわしているのだろう」[河内将芳『日蓮宗と戦国京都』淡交社、2013]p185


 それを聞いた啓一くんは、

「狩野永徳と妙覚寺のつながりか……」とつぶやく。

 私は、

「もしかして、この屏風を描いた狩野永徳のことも伝える意図があったのかな?」

「その可能性はなくもないな。当時の評価はわからないけど、俺が見たってこの屏風はすごく美しいと思うぜ」

「ほら、そういえば『熊野勧進十界曼荼羅』とか『地獄絵図』とかって絵解きをしてたんでしょ? もしかして、この屏風もそういう意味があったのかな?」

「かもな。ちょっと推測にすぎるかもしれないけど。でもこれだけ様々な要素が含まれている絵図だから、絵解きの視点で見るのはいいかもしれない。……それに、河内さんがそう書いているのは、やはり妙覚寺が描かれていることが気にかかったんだろうなぁ」

「そうね。……あれ?」

 ページを繰っていた私の指が再び止まる。そこには、


「妙覚寺や妙顕寺には堀が描きこまれており(中略)寄宿先にえらばれる理由となったのであろう。それを裏づけるように、じつは、義昭の兄義輝もまた、最期の地となる「武家御所」へ移るまえに、「二条法花堂本覚寺」に寄宿していたことが知られている。この「本覚寺」とは、その立地から考えて妙覚寺のこと」(同書p210)


「あ、そうだ! そういえば――」


 そうそう。今、思い出したけれど、確か――。そう思いつつ、河内さんの本の後ろの年表を探す。……あった!

 私は開いたページを見せながら、

「今、思い出したんだけど、これってどう?」


 指でさし示した日付は天正2年(1582)6月2日。かの有名な本能寺の変の記事だ。

 そこには――、


「明智光秀、織田信長を本能寺で攻めほろぼし(本能寺の変)、ついで妙覚寺の織田信忠を二条御所で攻めほろぼす(妙覚寺の変)」[河内将芳『日蓮宗と戦国京都』淡交社、2013]巻末年表、根拠は『言継卿記』。


とある。

 そう。前にも書いたけれど、明智光秀が襲撃したのは本能寺だけでなく、妙覚寺もだ。

 啓一くんは、その記事を見て、

「これは両方とも織田信長の軍勢が宿所に使っていたっていうことだろう」

「でも、まだ時期的に早いかな?」

「そうだな。……う~ん。もうちょっと何かヒントがないかなぁ」

 啓一くんはそう言って考え始めた。

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