第11話 夜の公園

 次の土曜日の夜。

 私は、高校二年生の加代子ちゃんに勉強を教えている。

「ええっと、これが過去完了で……」

とつぶやきながら、私の指示通りにドリルを進めている。

 毎週土曜日の夜のこの時間は、この子に勉強を教えるためにひばりヶ丘に来ている。


 トントンとドアをノックする音がして、「そろそろお茶でもいかがですか?」といいながら、加代子ママがお盆を手に入ってきた。

 とたんに加代子ちゃんの顔が輝いて、「やった」とうれしそうだ。

 私も微笑みながら、

「いつもありがとうございます」

とお礼をいうと、加代子ママは「いいえ。こっちこそお世話になって」と言いながら、シュークリームと珈琲の入ったカップを置いていく。

「じゃあ、またよろしくお願いしますね」と出て行く加代子ママに、もう一度お礼を言った。


 ドリルの途中だけど、せっかくだから休憩にすることにしよう。

「ねえねえ。大学って卒業するのに論文書くんでしょ?」

 ふふふ。いつもこの休憩時間には、加代子ちゃんから大学のことを色々と尋ねられているのだ。弟しかいない私にとって、妹みたいでかわいい。

「ああ、卒業論文はね。学部によっても違うんだよ。加代子ちゃんの志望するような文系学部は、書くところが多いと思うな」

 加代子ちゃんが嫌そうな顔をしながら、

「私ってば、文章書くの苦手なんだよね。……ちなみに先生は何をするのかな?」

 苦笑しながらも、

「まだ絞り切れていないんだけど、『上杉本 洛中洛外図屏風』ってのをやっているよ」

と言いつつ、『上杉本』と今調べていることを少し説明する。


 加代子ちゃんは「ふうん」と聞いていたけど、

「やっぱり先生って凄いよね。私には全然わかんないや」

と言う。まだ高校二年生だもんね。でも、これで大学の勉強が少しでもわかればいいと思う。

 そう思いながら、

「今は残る3ヶ寺が描いてある理由を調べているんだよね」

と説明した。


 ――そう。残りは三つ。頂妙寺、妙覚寺、本満寺だ。

 残念ながら、いまだに接点になりそうなものは何も見つけられていない。



――――。

 家庭教師が終わり、見送られながら、加代子ちゃんの家を出た。

 街灯があるとはいえ、もう暗くなっている。


 加代子ちゃんの家のある集合住宅を出て、ちょっとでもショートカットしようと公園を通り抜けることにした。もちろん、一人なら絶対に通らないけど、まだ会社帰りのサラリーマンがたくさん歩いているから大丈夫。


 夜の公園って、独特の静けさと、どこか不気味な雰囲気があるわよね。ちょっと怖くなってきて自然と足が速くなる。


 そのとき、不意に誰かに手を引っ張られた。

「きゃっ!」

 小さく叫び声を上げて見てみると、見知らぬおじさんが私の手をつかんでいた。

 どこに焦点が合っているのかわからない濁った眼。得体の知れない雰囲気。

 ぞおっと怖くなってきて足が震えだした。


「な、なにか……」

御用ですかと言おうとした時、後ろから、

「わりい! 待たせたな」という声とともに、誰かが私とおじさんとの間に割り込んできた。

 ――啓一くんだ!


 私が驚きながらも安心で腰が抜けそうになるのを、啓一くんはさっと支えてくれた。

 そして、今ごろ気がついたというように、

「うん? おっさん何かようか?」

と声をかける。

 おじさんは黙ってきびすを返して、ゆっくりと去って行く。


 急に私の体がガタガタと震えだした。

 やだっ、ど、どうして震えが止まらないの?

 そんな私の体を啓一くんがぎゅっと抱きしめてくれる。

 啓一くんの汗のにおいに包まれたけれど、それがなんだか妙に安心する。

「お前さ。なんで一人で夜の公園を行こうとしてんだよ。……知らないのか? 3日前に不審者が出たって騒ぎになってたんだぞ?」

 啓一くんはそう言いながらも、私を落ちつかせるように背中をポンポンと叩いた。


 知らないうちに私は涙を流していた。

「こ、怖かった……」

 そうつぶやくと、啓一くんが私の頬を指でぬぐった。

「もう大丈夫」という声に体の震えが収まっていく。

 私は啓一くんに抱きしめられたままで、「ありがとう」とつぶやいた。啓一くんは困ったように、

「もう大丈夫なら、少し離れてくれよ」

というが、私は首を横に振って、ぎゅっと啓一くんの服にしがみついた。

「もうちょっとこのまま……。お願い」

「……しょうがないなぁ」


 ぶっきらぼうに言う啓一くんの言葉を聞いていると、私の心臓がドキドキと激しくなりだした。

 私、啓一くんの胸の中にいる。でも、それが守られているようで心地いい。


 ――キッコ。私ね。やっぱり啓一くんに恋しちゃったみたい。


――――。

 ようやく離れた私を見て、啓一くんは「送ってやるから、家はどこだ?」と言う。

 ちょっと迷ったけど、

「中村橋のアパートよ」

と言うと、啓一くんは「じゃあ行くぞ」と私の手を引っ張っていく。


 幸いにして、電車の中では二人で並んで座ることができた。

「なあ、そろそろ。手、いいんじゃないか?」という啓一くんに、名残惜しいけどそっと手を離す。

 けれども、次の瞬間、今度は啓一くんの方から私の右手をぎゅっと握ってきた。


 えっ? と思いながら顔を上げると、啓一くんは苦笑いしている。

「やっぱりもう少し繋いでてやるよ。……そんな顔されたらさ、ちょっとな」

 啓一くんの手が私の心も温めてくれる。意識し始めたら、自分の顔が赤くなっているような気がしてちょっと気恥ずかしい。

 ちらっと隣を見ると、啓一くんが不思議なものを見るような目で私を見ていた。


 私と目が合った啓一くんが、あわてて話をそらすように、

「お前の家庭教師って毎週土曜日なのか?」

「うん。そうなんだけどね……」

 自分の膝を見下ろしながら、次からどうしよう? 胸の内でそうつぶやく。

「しょうがないからさ。帰りは俺が送ってやるよ」

 思わずがばっと啓一くんの顔を見ると、啓一くんは照れたようにそっぽを向く。

「俺の住んでるところはあそこの近くなんだ。土曜日は予定があいてるし。今日みたいなことがあったら俺も嫌だから……」

 私は左手を、啓一くんの手の上に重ねた。「――ありがとう」


 心持ち啓一くんに体を寄せながら、私の降りる駅がもっともっと先だったらいいのに。そう思う。


 電車から降りて、本当に私のアパートまで来てくれた啓一くんに、思わず、

「ね、ちょっとだけ上がっていかない?」

と誘ってしまった。

 言ってしまってから、急に恥ずかしくなって胸がドキドキし始めた。男の子を部屋に誘うなんて!

 そ、そういうことじゃないんだけど。今日はちょっと一人でいるのが怖い、から。


 自分で自分で言いわけしながらも、啓一くんの顔を見ると、

「お、おう。でもよ。上がるだけだからな! 何もしないからな!」

と言う。緊張しながらもスリッパを出して、

「ど、どうぞ」と勧める。

「おう。お邪魔します」


――――。

 部屋の中のソファに座っている啓一くんは、少し赤らんだ顔で私の部屋を落ち着きなくじろじろと見回している。

「へぇ。なんていうか……」

「あんまりお洒落じゃないわよ」


「いやいや。思ったより家庭的でいいな。お前の部屋」

 啓一くんの言葉に、ますます胸の鼓動が高まる。ちらっと飾ってある鏡を見ると、そこには真っ赤になった私の顔が映っていた。……やっぱり。


 啓一くんは紅茶を一口飲みながら、

「なんか落ち着くよ。居心地が良いっていうか。……おっ。手芸とかやるのか?」

とカラーボックスの本を見始めた。

「へえ。料理もやるんだ」とつぶやく啓一くんに、

「私ってば、長女だからよくお手伝いしてたんだ。よく弟のボタンとかも付け直しているうちにってところ」

と言うと、感心したように、

「いいお姉ちゃんしてるじゃん。俺は一人っ子だったからな……」

 うん。いかにも一人っ子っぽいもんね。


 そう思いながら、せっかくだから作り置きのクッキーを出した。

「おっ。これって手作り?」「もちろん」

 啓一くんはおそるおそるクッキーをかじると、

「うまいじゃん。やるなぁ」

と褒めてくれた。


 ふふふと笑いながらお礼を言うが、時計を見た啓一くんがあわてだした。

「やばっ。もうこんな時間だから、俺、帰るよ。……一人で大丈夫だよな?」

と立ち上がった啓一くんに、なんだか12時を迎えようとするシンデレラのような気持ちになりながら、

「うん。大丈夫よ」。――本当は一緒にいてほしいけど。

 そう思いながらも我慢するしかない。


 すぐに残りのクッキーを包んで、啓一くんに渡して玄関までお見送り。

「悪いな。お土産までもらって」

「ううん。いいの。今日は本当にありがとう」とお礼を言うと、

 啓一くんは片手をあげて「じゃあな」と言って駅の方へ歩いて行った。


 その背中を見ながら、無性に寂しくなる。「行かないで」と言いたくなるのをこらえながら、そっとため息をついた。

 せめて、すぐにでもメールをしよう。

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