18° 秋風索莫。炎夏の秋眠
4月中旬。曇り。
東部の広範囲においてみられる特有の気象現象で、5月から7月にかけて毎年巡って来る、梅雨時期のとある日。
――島谷真夏。
普段は、着こなしが悪く、制服の乱れはおろか、私服姿も乱れているらしい。身だしなみが悪いという性質は、ただ単に制服が窮屈で緩めているだけなのかもしれないが、島谷真夏の場合、これはある素質を意思表示している。
他人への誇示。自分は強いのだという演出。
ネクタイを取り去り、ワイシャツの袖を折ったり、シャツの上部の釦を留めず、胸辺りまで開けたり、スカートの丈を指定外に改造したりなどと、様々な服装の乱れが見られる。一度だけ、ピアスを身に付けて登校してきたときは、そのピアスを教師に没収されたこともある。
いわゆる、下等生徒である。女子では珍しいタイプだ。
そんな島谷真夏に賛同している取り巻きが2人いる。3人とも意地が悪く、ラグを主な標的にしていたことがある、悪質な女子たちである。女という立場であるせいか、男子に対しては負けず嫌いだが、意外と押しに弱く、桃源姫子に憧れたり、美少年が好きなどと、乙女として当然の情感も持ち合わせている。
ある時、島谷真夏は、ラグの机にあらゆる罵詈雑言を書き表した。その時のラグの意外な一面に、切羽詰ったことがある。
それだけではない。
まるで、ラグを庇護したかのように、自分に向かって暴言した黒摩魔王の表現が、今でも忘れられないくらい、あの時は慄いた。当時はその発言が、どこまで本気だったのか分からなかった為、登校を拒否した時期があった。
島谷真夏が再びこの学園に帰って来たのは、その日から3週間が経った後のこと。黒摩の脅威にトラウマを抱き、その日から、きっちりと制服を着こなしている。もちろん今も、折っていた袖もきちんと手首まで伸ばし、ネクタイも装着。改造されてしまったスカートを元に戻すことはできないが、シャツの釦もきちんと全て留まっている。
――そんなことがあり、現在。
彼女は今、恋をしている。晃月夜闇に。
恋をしている、というよりは、単なるプラトニックな恋愛感情に過ぎない。
その晃月夜闇が、大嫌いなラグ=バケットと、仲が良さそうである。
「気に食わない」。
ただ、それだけが根拠だった。
ラグを中庭に連れ去ったのは。
「あんた、最近色気付いてんじゃないの? 調子に乗ってんじゃないわよ」
顎を上げて、じろりと見下すと、ラグが身を竦めて縮む。
雨が降った痕跡を残した中庭は、少し寒い。
「わ……私は、別に……」
「“あの”サディストを手懐けておいて、よくそんなこと言えるわね」
普段は人気のある中庭。華学の名物とも言える大きな木の下に、ラグは身を押し付けられている。島谷は校舎を背にして、ラグと向かい合わせになっている。雲海が太陽を隠伏している日、島谷の顔に影が増す。
「どんな手を使ったの? あの男がアンタみたいなもんに気を許すわけないじゃない」
「…………」
特別なことはしていない。ただ彼とは、色んなことを披瀝し合った仲だ。だがそれを、サディストの個人的な事情を、彼女に露呈するわけにもいかない。
腕を組みながら島谷に上から睥睨されても、ラグはただただ、だんまりを貫き通した。
「おまけに田代とも、なんか仲良さげ? 挙句には“転校生とも”さっそく仲良くしてるそうじゃない?」
転校生とは、言わずもがな、先日2人のクラスにやってきた晃月夜闇のことだ。
ラグは席が隣ゆえに、彼と言葉を交わすことはある。だが当の本人は、基本的に一人で行動している。授業中も、休み時間も、お昼休みも。時たま、自分たちの輪に入ってはくるが、あくまでリマやカナメと談笑している。
果たしてこれを、“親しげに”と言うのだろうか。
「何か言ったらどうなのよ」
パチンッと、デコピンされた。
道理に悖る島谷の専横な態度はいつものことだが、やってきたばかりの転校生と親しくするか否かなんて、一義に及ぶほどの事態ではない。よっぽど自分は、この人に嫌われているのだと悟った。
困ったことに、この場をどう切り抜ければいいのか判らない。
どう答えて欲しいのかも分からず、息苦しさが募り始めた、その時――。
「し~ま~た~にぃ~~!!」
脱兎の勢いで北の方角から、ラグと同じ毛色の少年が、鬼の形相で駆けて来た。
「げ……腐男子が来た」
島谷は青い顔を浮かべ、ラグにびしっと指を向ける。
「覚えてなさい! まだ話は終わってないんだからね!」
リマに追いつかれる前に、電光石火のごとく、瞬時にその場を去った。
「ちっ! 逃げ足だけは達者だな、あいつ!」
見えなくなった背中に、盛大なため息を吐いてから、ラグに向き直った。
「もう、ちょっと目を離した隙に! なんでのこのことついて行くんだよ!? 無いことばっか言われるの分かってんだろ!?」
両手を腰に当てながら、珍しくぷんぷんと怒りを散らすリマ。
それでも声のトーンは控えめで、怒り顔というよりは困り顔だった。
「ご、ごめん……断っても、どうせ連れて行かれるし……」
相手にしないこともある。が、それはそれで島谷の癇癪を起こし、逆上した彼女に無理やり服や手首などを掴まれては引きずられていく。つまり彼女が、自身の鬱憤をラグに打ち付けなければ、気持ちは収まらないということだ。
なんて不条理な。
「じゃあ、これからはトイレも一緒に行くから! もう二度とあの女に誘拐されないように!」
「そ、それは、ちょっと……!」
つい最近まで一緒にお風呂に入っていた仲だ。お手洗いくらい問題ない――と思っているのは弟のほうだけのようだ。いくら双子の弟とはいえ、姉のほうはそういった事を気にし始めている。
「いや! そうでもしないと俺の気が気じゃないから!」と、リマが強引に話をまとめている一方で。
校舎の曲がり角を死角にし、リマから逃げ切った島谷は満悦していた。身を壁にへばり付けながら、ちらりと周囲の様子を伺っていた。安全を確保すると、体育館を通り過ぎ、西校舎の裏口へ向かう。
その途上、あろうことか、接触を避けている人物と出くわしてしまった。目の先には、壁に背中を預け、煙草をふかしていた黒摩魔王が居る。
「よお」
「……っ」
まさか声を掛けられるとは。
息が詰まる。目を合わせられたら、気が動転してしまいそうになる。
サディストは目線を下に向けたまま、こちらに目も顔も泳がせずに、切り出した。
「お前、身だしなみがよくなったな。前のほうが、下等っぽくてよかったのに」
きっちりしている自分なんて、らしくはない。言われなくても、そんなことは自分が一番わかっている。自分がこんな風になったのは、彼自身の発言に畏怖の念を感じたからだ。
今のセリフも、ただの天然なのか、それとも皮肉なのか。見極めることはできないだろう。
「弟とやり合えねーんだったら、姉貴にちょっかい出すのはもうやめろ。見てて不愉快だ」
島谷の鼓動が、次第に早くなる。
何故、知っているのか。いつから、見ていたのか。
そんなことよりも、彼の口から発せられた言葉の意味を理解できなかった。一体全体、どういう理屈で、そんなことを言ったのか。自分の行動が気に食わないのか。去年はそんなことを気にするような人ではなかったのに。
その上、「ちょっかいを出すのはもうやめろ」?
なんだか癪に触って、つい、自分のプライドに従い、口を滑らせてしまった。
「なによ、本当にあの子の肩を持ってるわけ? あんな弱虫で泣虫の? 嫌な趣味してるのね」
するとサディストは、何故か口角を吊り上げて、
「お誉め頂き光栄だ」
ようやく視線をこちらに向けた。そして、ポケットに手を入れた姿勢で、ゆっくりと近づいてくる。
途端に、島谷の背筋に戦慄が走り、身動きが取れなくなった。
島谷を壁に追いやるようにして、サディストは口から吐き出した煙を彼女の顔面に吹き当てると、島谷は手を口にあてて咳き込んだ。
「つまり、だ。次、あいつに手ぇ出したら、どうなるか分かるな?」
氷のような冷たい眼差しに、呼吸が停止した。「っ……」
そっと隔てを置かれると、島谷は間髪入れずに逃亡。再び中庭へ飛び出ると、すでにバケット姉弟の姿はそこにはなかった。その勢力のまま、東校舎の入り口へと、足を滑らせながら走っていくと――突如、扉を内側から開けた男子とぶつかってしまった。
素直に後ろの方向へと落ちていく。てっきり尻もちを付くかと思いきや、幸いにもその男子に手首を掴まれたことによって足元のバランスを組み立てることができ、痛みは免れた。
が。
「げっ……! 真夏!」
相手が島谷真夏だと把握すると、男子は即刻その手を離した。
島谷が顔を上げると、そこにいたのは田代祐二。
実は、幼稚園の頃から家が隣で、幼馴染というよりは腐れ縁という切っても切れない仲。当然、嬉しくはない。幼稚園も小学校も同じだったが、特に仲良くした覚えはない。むしろ、島谷は子供の頃から意地が悪く、田代のことをよく泣かせていたくらいのじゃじゃ馬だった。まさか同じ中学校にも通うことになってしまった田代は、そのことを今でも根に持っている。
「下の名前で呼ばないでって、いつも言ってるでしょ」
「んなこと言われたって、昔からそう呼んでたんだし……」
「アンタみたいなドスケベ星人と幼馴染だなんて知られたら、あたしの名誉が汚れるわ」
「そこまで言う!?」
昔は、家が隣同士でも、常に苛めていた相手なので、自分の地位を自慢げに周囲に振りまいていたが、中等生になってからは彼の性欲が爆発的に解放されたことによって、接近することに嫌気が指した。
小6から中1に昇格しただけで、人の性格はこれほど変化するのだろうか。
「じゃあ、さらに遡って……“まなっちゃん”はどう?」
「口が裂けても言うな!」
おまけに、自分をいじる勇気も付与されている。
昔は弱かった奴なのに。むしゃくしゃする。イラッとして田代の頬を思い切り引っ張ってやると、当の本人は涙目で訴えてくる。「いててて! やめ! やめ!」
何が起こっても、何を言われても、強気な態度だけは保ちたい。だが皮肉にも、長い間を共にしてきた間柄だ。迂闊にも、彼に表情を読み取られてしまった。
「……ん? なんだよ、お前。元気ないな?」
赤くなった頬を摩る田代に痛いところを突かれ、咄嗟に「べ、別に……!」と否定する。
いつもどおりの顔で、いつもどおりに振舞っていたつもりなのだが。何よりこの男に見抜かれてしまうことが、いけ好かない。
「あ、もしかして嫌なことでもあった?」
ニヤリとかんに障る笑顔で茶々を入れられる。事実なので、反論することができず、顔が熱くなった。
田代は顎を抱えながら、ニヤニヤと自分より背の低い島谷を見下した。
「お前にもとうとう天罰が下ったか~。ようやくか~。お前にそこまでしたモノには感謝しなきゃな~」
「むかつく言い方するわね! あんたいつからそんな打たれ強くなったわけ? 昔は女の子にイジメられてピーピー泣いてた弱虫だったくせに!」
「あのね……俺だってお前と同じ中学生。いつまでもピーピー泣いてられないって。背だって俺のほうが高いし?」
ふふんと、したり顔で言ってやったが、あっけなく造反された。
「こないだ、あんたの昼食を奪ってやったときは大泣きしてたくせに」
すると、先までの得意げな態度が打って変わった。
「だって俺の財産を奪ったじゃんか! 泣くよ! 腹減って死ぬかと思ったんだからな!」
「あたしのものはあたしのもの。あんたのものはあたしのもの」
「ジャ○アンかお前は!」
「うるさい!」
最後にありったけの力で田代を思い切り突き飛ばして、校舎へと駆けて行った。
「いてて……あの女……」
胸板を平手で打ちつけられた。その痛みを和らげるように、すりすりとその部分を摩りながら中庭を渡ろうとすると、裏庭の方向から黒摩が現れた。
「あ、黒摩さん。今、裏庭に向かおうと思ってたんスよ」
「もう戻る」
「さっき島谷と会ったんスけど、言いたい放題言われて殴られました」
さきほどのことを簡単に説明すると、黒摩は表情を変えずに答える。
「さっき心臓をえぐってやったからな。機嫌を損ねたんだろ」
「え!? 黒摩さんもとうとう女子にセクシュアルハレンチメントを!? 島谷の胸を鷲掴みに!?」
「それを言うならセクシュアルハラスメントだろ。別に触ってねぇし」
訂正しても田代の耳には届いていない。
あの性根が腐っている島谷の胸を鷲づかみしたことが、果たして羨ましいのか、それとも嫌悪なのか、田代の脳内は葛藤していた。女子の胸は触りたいが、忌み嫌ってきた島谷の胸は触りたいと思わない。
そんな苦慮している田代を無視して、黒摩が教室へ戻ろうとしたとき。
「おや、黒摩くんと田代くん」
ふいに発せられた声に、黒摩も田代も瞬時に振り返った。
「うわっ、晃月! お前、神出鬼没かよ……」
クラスの美を誇る、転校生の晃月夜闇。
さっきまでは、自分たちの背後に人の影はおろか、気配すら無かったのに。いつの間に後ろに立っていたのだろう。その手には何かを抱えている。
「可愛いよね、アジサイ」
「はい?」
神出鬼没であると指示されたことには一切触れず、夜闇は中庭の花壇に咲いているアジサイたちを愛でるように見下ろした。その表情は恍惚となっている。
小さな花がひとつの束のように纏まった淡い藍。群れれば群れる美しく、雨に濡れながらも可憐に咲き誇っている。水滴に飾られた花びらを眺め、夜闇が瞼を閉じながら語り出す。
「雨がとてもよく似合う。水に濡れれば、さらにその美しさは増す」
黒摩にだけ目線を泳がせ、
「……ラグちゃんみたいだね?」
「 ! 」
その瞳は、どこか妖しかった。
要点しか言わない、飄々とした態度。
……気に食わない。
「あーわかる。ラグちゃんとアジサイって似合う」
田代はそんな夜闇の言動を、特に不審に思わなかった。
アジサイは秋に咲き、ここではちょうど4月頃に開花する。小さくて可愛らしいアジサイの花言葉は、「冷淡」。その他にも、移り気、高慢、辛抱強い愛情、無情、変節などなど。アジサイは主に淡い藍色だが、時には緑色、赤色に染まることがあるらしい。そのことから「七変化」とも呼ばれ、このことから「変節」という花言葉が含まれているのではないかと考えられている。
そして、もう一つ。
「知ってる? 毒性もあるんだよ」
「え、アジサイに?」
「うん。アジサイの蕾と葉と根に毒があるんだって。死ぬほどじゃないみたいだけど」
「へーえー。夜闇って、詳しいのな」
「花は好きだから。でも、ラグちゃんに毒はないよね」
「確かに」
何が、言いたいのだろう。
黒摩の中で、胡乱なものが渦巻いていく。
「ところで、夜闇が持ってるその花はなんなの? あと、なんか臭くない?」
夜闇が抱えているもの。それは3輪の花だった。「これ? 僕が育てて、昨日咲いたんだ」
「部室に飾ろうと思ったんだけど、臭いがきついからって部長に却下されたよ」
「え、この臭いってこの花から来てんの? ゆり……っぽいけど、黒いね。不気味だ……」
百合の形をしている。だけど、黒い。キレイだけど不気味、不気味だけどキレイな、異臭を漂わせる花だった。
クラスで一番の美を誇る晃月夜闇なら、こんな黒い花よりも、白い百合のほうが断然、絵になるというのに。何故よりにもよって、この花を栽培していたのか。
「うん。そのままだよ。黒百合って言うんだ」
このとき、黒摩の中の渦が弾けた。
「ちょうど、この次期に咲く花でね」
夜闇と視線が絡む。
「百合は本来、白くて綺麗な花だけど」
妖艶な笑みを浮かべて、黒百合に口付けるようにしながら。
「まるで、毒に冒されたみたいな、小気味悪くて、不吉な香りを漂わせる……それでも美しい」
しっかりと、こちらを見つめて言った。
冷や汗が、たらりとこめかみを伝う。
「それじゃ、僕は行くね」
夜闇がけろっと表情を変え、どこかへ向かって歩き出した。
黒摩と田代から遠ざかろうとしたとき、一度だけ、立ち止まった。「ああ、それと――」
「黒摩くん」
優しい声音が、どこか胡散臭い。
「黒百合の“呪い”に盛られないように……ね」
意味深なことを零して、夜闇は今度こそどこかへと去って行った。
(あいつ……!)
黒摩の脳内に浮かんだのは、2つの人影。
夜闇は知って、いるのだろうか。「あの男」のことを。
まさか、とうとうやってきたのだろうか――「あの女」が。
***
カツン、と、静寂の廊下に響き渡る靴音。
バサリ、と、学生蘭服の上から羽織られたマント。
フワリ、と、揺らめく至極色の毛並み。
ピタリ、と、止まった足踏み。
消灯時間が過ぎた学園内の通路は、電気が通らず、薄暗い。
少年は天井を仰ぎ、大きな窓から差し込む日差しが通路を明るく照らした。雲の海から、わずかな間だけ、夕日が顔を出したと思ったら、それはすぐにまた隠れてしまった。
「どちらへ向かわれるのですか?」
同じ学ランを着ていた男子が背後から出現した。光のあたらない場所で、学生帽の影に隠された顔は明らかではない。至極色の男子は、その質問に対し、口端を吊り上げ、不適な笑みを刻んでから。
「ちょっと腹ごしらえに」
行き場所を付け加えると。
「え……? そんな遠くまで行かれるのですか?」
「ああ。だから少しの間、学園を留守にするよ」
そう言い残して、背を向けた。
再び太陽が顔を出すと、胸元に飾られている金色のバッジが、キラリと輝いた。
そこに象られているのは――百合の紋章。
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「不義の兆候。忍び寄る慮外者」
2018/04/08
Produced by KIYUMI TERANAKA
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