13° 毒雨の兆候。因縁の赤い糸

013 





なんとも、不思議な一時だった。

鞄から青い折り畳み傘を取り出し、黒摩は学園の出入り口の扉付近にセッティングしてある傘立てに差し込まれている、わずかな数から黒いアンブレラを手に取った。今日の天気予報では雨は降らないと予言していていたが、ラグは常に傘を鞄の中に携帯している。黒摩の場合は、置き忘れていたものかもしれない。

互いに傘を広げ、校舎を後にする。校門までの短い時間。校庭をゆったりとした足取りで渡る二人。黒摩の怪我を気に掛けてか、ラグは彼の歩行ペースに合わせる。どちらとも視線を絡めることもなく、一定のディスタンスを保っていた。

あっという間に辿り着いた校門で、二人は背中を向け合った。

家路に着く合間も、ラグは言い様のない妙な感覚に駆られていた。

――帰宅後。

絆創膏で隠された首の傷が気になるため、鍵を取り出す前に、ハンカチをスカーフ代わりに巻き付けた。今度こそ鍵を手に取り、扉を開ける。雨垂れる傘をスタンドに差し込むと、正面からパタパタと、髪を下ろした状態で女の子の服を着ているリマが駆け寄って来た。

通学のときは髪の毛を立てているが、元々はストレートなので、オフのときは常にこのヘアスタイル。何度も女子に間違われたことが切っ掛けで、リマに女装癖がついてしまったのである。


「ラグ、おかえり~!」


出迎えに応えて、ラグは靴を脱ぐ。

リマには、体調が優れないから早退するという連絡を事前に入れてあった。体を気遣ってがくれたが、自力で帰って来れたからか、あまり頓着せずに、どこかご機嫌な様子で擦り寄ってくる。


「一人だと詰まんなくてさ。えへへ、寂しかった」


複雑な思いだ。つい先ほどまで、彼の加害者と一緒にいたから。

そのことも言えないまま、ラグの消沈顔に、困惑の色が混じった。


「ん? なに、喉どうかしたの? ハンカチなんか巻いて」


ラグから離れたリマが目にしたのは、その首元に巻かれているハンカチ。

予測していた指摘に、ラグが語呂を悪くする。「あ……うん……」


「ちょっと風邪気味かも……」

「ここんとこ肌寒いもんね。雨続きだし、秋も真っ只中だから。あ、叔母さん、もう来てるところだって」

「そう……」


例のものを彼に見られない為の、咄嗟の誤魔化しだった。

リマは特に懐疑することなく、変わらない調子で話しかけてくれる。

幾つもの隠し立てに良心の呵責を感じ、ラグはリビングへと先走るリマの後を追いかけるように、とぼとぼと歩き出した。自分のそんな面持ちに嗅ぎ付ける気配もなく、冷える雨の中から帰ったラグのために、リマはお茶を淹れようとキッチンへ入り込んだ。


「明日は学校行くつもりだから」

「え……明日も休みなよ」

「ラグも叔母さんも過保護だなー」


タンスから茶葉の入った缶を取り出し、片手で器用に蓋を開けた。


「どうせしばらくはこのままの状態なんだから、明日行ったって明後日行ったって一緒だよ」

「でも……」


肩はいずれ完治するので、さほど気に掛けてはいない。

一番恐れているのは、黒摩とリマの顔合わせだ。

そしてリマの肩に対して周りがどんな反応をするのか。リマはおそらく周囲がどう思おうが、歯牙にもかけないだろうが、その原因が黒摩魔王であることを知ったとき、皆はさらに怖気を震うだろう。それでは彼に抱く恐怖心が払拭されない。それは、今の自分にとっては不満なところである。


「ラグがいないと詰まんないよ。俺が学校に行くか、ラグが休むかのどっちかにして」

「それはちょっと……」


茶漉しに茶葉をさらさらと流し込みながら、リマが唇を尖らせて不服を唱えた。

勉強を疎かにはしたくはないが、黒摩魔王といい桃源姫子といい、今日だけで色々なことがあって、少々疲れが出ている。あえて学校を休むというのも、アイデアとしては悪くない。

唇に手を当てながら悩んでいると、再び玄関の扉が開かれた。

それも、けたたましく。


「やっほー二人ともー!」


買い物袋を掲げてやってきたのは、


「いらっしゃい、叔母さん」

「いやー! 突然の雨でびしょびしょだわー。ニュースでは降らないって言ってたのに~」


今朝の天気予報士に対して愚痴を零す叔母の佐藤由。

リマの女装に対しては、今では快く受け入れている。

袋の中身を覗いてみれば、キャベツと挽肉、そして缶ビールが3本も入っていた。今晩はどうやらロールキャベツを作るらしい。

ラグは張り切る由を手伝おうと、まずは着替えを済ませるため自室へ上がる。

いつものように手すりに手を当て――ることなく、足の力だけで階段を登った。リマと共同の寝室である扉の前で止まり、ドアノブに手をかけた瞬間、ふと、階段の方角を向く。


「…………」


そこへ、携帯の着信音が鳴る。

階段から気を逸らし、ディスプレイを見てみると、『カナメ』と表示されていた。

通話ボタンを押した途端――。


『もー、ラグっちゃんったら、保健室にいると思ったら帰っちゃうなんて!!!』


いきなり、カナメの怒号が飛んできた。

前髪が乱れるほどの威勢に、ラグはきょとんと携帯を見つめ、おそるおそる耳に当てる。


『キヨ姉に聞いたよ! 倒れたんだって!? もう平気なの!?』

「あ……え、ええ……」


何故それを、風紀委員長が知っているのだろう。

そういえば自分は、あそこで意識不明になってから記憶が喪失している。

ここでひとつの疑義が生じる。一体誰が、自分を保健室まで運んでくれたのだろうか。

保健室にいたのは田代と黒摩だけ。黒摩が足を挫いた為、もしかすると田代が、あるいは怪我を負ったままの黒摩が。しかし、それは有り得るのだろうか。今までの彼を振り返ると、わざわざ自分を持ち運んでくれるような人ではない。はたまた、その場を通りかかった全くの別人か。それが、風紀委員長かもしれない。

真相は何にせよ、兎にも角にも、カナメに心配を掛けてしまったことに変わりはなかった。


「すみません、連絡も入れずに……」

『もういいけどさ。なかなか繋がらないから、リマに電話を入れようかと思ってたところだよ。いつもの発作? だけど倒れるなんて今までなかったよね……大丈夫?』

「はい、だいぶ落ち着いてますので……」

『ならいいんだけど、一応、病院には行っておいたほうがいいね』

「そうします……」


通常、自分の身に、発作以外の異変が起こるとすぐさま病院へ行くのだが、今回は何となく、直接帰って来てしまった。リマと叔母には、あくまで「体調下等」と弁解しているので、失神したことは知られていない。

カナメに言われて初めて、病院に行くべきだったと悟った。

すると急に、カナメは『あのさ、ラグっちゃん。ちょっと大事な話があるんだけど』と、改まってくる。


「なんでしょうか」

『リマはそこにいる?』

「いえ、いません。呼びましょうか?」

『あ、ううん。ラグっちゃんに話があるから』

「え、珍しいですね……」

『……うん……』


珍しく歯切れの悪いカナメを、ラグは不審に思う。


『桃源姫子さんっているじゃん?』


今は、あまり聞きたくない名前だ。

悄然として頷くと、予想だにしなかったことを言われた。


『二人とも姫子さんと仲良さそうだけど……あの人にはあまり気を許さないほうがいい』


ラグの内心で衝撃が走った。

まさか、そんなことを言われるなんて。

まるで、桃源姫子のことを知っているような口振りだ。

さらに、こんなことまで言われる。


『それから……サディストにも、できるだけ関わらないほうがいい。まあでも、最近は割りと大人しいし、たぶんこれ以上は何もしてこないかも……』


今日の今日で桃源姫子に対する勧告は只事とは思えないし、この流れでサディストの名前を持ち出したのも、単なる偶然とも思えない。


「カナメさん、お二人のことを知ってるんですか……?」

『……まあね』


驚いた。

カナメが二人のことを知っている。今までそんな素振りなど微塵も見せなかったのに。

黒摩魔王と桃源姫子と夕季カナメ。言い換えれば、鬼畜と魔女と腐女子。

異様な組み合わせに、だんだん頭が混乱してきた。

だけど、二人のことを知っているのなら――。


「カナメさん……私……」


カナメは、明らかにラグの声が震えていることを察知した。今にも泣きそうなトーンだ。

ざあざあと降る雨下、教師や風紀に見つからないよう、人気のない裏庭の木の陰に身を潜めて、片手で持っていた携帯をさらに握り締めるように、もう片方の手で重ねた。

ラグの次の言葉が気になり、緊張が募る。


『私、姫子さんに……“彼女を裏切ったら、許さない”と言われました……』


カナメの顔が、サッと青ざめる。


「……あいつのことで?」

『……はい……』


すでに、手遅れだったのだと、手で顔を覆う。

姫子がそのような台詞を口にした意味を、カナメはすぐに理解した。

となると。


「……何もされてない?」

『え……えっと……』


ラグの誤魔化しきれない動揺。

案の定、何かされたようだ。


「……特に首」

『ど、どうしてそれを……』


やはり。ラグは姫子に“印”をつけられた。

失望するように手を顔から放し、困ったように笑いながら打ち明ける。


「いや、うん……あたしも実は、ね……」

『え……!?』


そのことを思い出すように、カナメは自分の首筋あたりを、さらりと指で撫でる。

それを聞いたラグの表情からも、血の気が引いた。


(カナメさんも……って、どういうこと……?)


話についていけない。

つまり、カナメも自分と同じ目に遭ったと。そう言いたいのだろうか。

聞きたいことはたくさんあるのに、緊迫と混乱でうまく言葉にできない。

とはいえ、電話で話すこともでない。ましてや、下の階にはリマと叔母がいる。話を聞かれるわけにもいかないし、今の表情を読み取られるわけにもいかない。


『まあ……そういうわけだから。姫子さんには気をつけて。言うことさえ聞いてれば、特に何もされないから』


さっさと切り上げるように、話を言いくるめられる。黒摩と同じことを言われて、そこで通話は終了した。

力なく携帯を耳から遠ざけ、ディスプレイを見下ろす。なんとなく着信履歴を開いてみると、そこにはカナメの番号でずっしり埋まっていた。よほど心配をかけたに違いない。

失神したことに関しても、桃源姫子のことに関しても。


「…………」


頭がぐるぐるする。先ほどの会話が、頭の中で整理しきれない。

つまりカナメは、黒摩魔王と知り合いであって、桃源姫子が彼を慕っていることも知っていて。自分と同じように“忠告”をされた、ということなのだろうか。自分のように、あの綺麗な鋏で首に傷を入れられたことがあると、婉曲的ではあったが、そう言っていたことに相違ない。

だからこそ「距離を置け」と忠言してきたのだろう。

そもそも、三人はどうやって巡り合ったのか。どのようにして時を過ごしたのか。すれ違っても全く言葉を交わさなかったし、目を合わせようともしなかった為、まさか関係が繋がっていたとは思っていなかった。カナメの話によれば、現在は決して親しい間柄ではないようだ。

何があって、断交したのか。

今日という一日の間に、たくさんのことが起こって、たくさんのことを知って、ドッと疲れが出たラグは、そのままベッドに倒れ込んでしまい、次の朝まで起き上がることはなかった。




***




翌朝。

昨日の雨は、絶えず降っている。

インターホンが鳴り、玄関の扉を開けると。なんと、カナメが迎えに来てくれていた。

カナメの家は、バケットの家とは逆方向で、徒歩20分先にある駅から電車で10分のところにある。それなのに、わざわざここまで来てくれた理由は一体なんなのだろうか。

昨日の今日だ。もしかしたら、あの件が理由かもしれない。

中でも一番驚いているのはリマだった。


「二人ともおはよう!」

「どうしたの、わざわざこんなところまで」

「心配で来たんだよ! リマは肩外されるし、ラグっちゃんは早退するし」

「だからって、わざわざここまで来るなんて、大袈裟だなぁ……」


苦笑しながらも、カナメの偉大な愛にリマの顔が思わず綻ぶ。


「肩はまだ痛むけど、大したことないよ。不便なことはあるけど生活はできるし」

「そっか。……その様子だと、今日も学校行かない感じ?」


きちっと制服を着ているラグとは違って、いまだにパジャマ姿のままでいるリマを見て、カナメが問う。


「昨日、明日は行くって言ったら、叔母さんにめっちゃ怒られてさ……」

「うーん、まあ、もうしばらくは安静にしてたほうがいいんじゃない?」

「みんな過保護だなー」


やれやれと、リマは溜め息を吐いた。

身支度を終えたラグは、カナメと一緒に登校するため、靴を履く。

リマに向かって「それじゃ、行ってくるね」と挨拶をすると。


「ん? ラグ、首、怪我したの?」


どきっとする。

首の傷のことをすっかり忘れていて、スカーフで巻くのを忘れてしまった。

そこにあるのは、一枚の絆創膏。


「昨日は見かけなかったけど……」


疑念を抱いてはいないが、指摘されたからには何か適当な返答をしなければ、怪しまれる。


「こ、これは……えと……その……」


だが姑息な理屈が思いつかなくてまごまごする。

言葉を濁しているラグを、リマが怪訝に思い始めたとき、カナメが助け舟を出した。


「あ、それね、あたしのキスマーク」

「なんだって!?」

「ええ……!?」


咄嗟の言い訳が「キスマーク」とは。

論外だった。


「いや~ラグっちゃんが可愛くて、つい襲っちった★」

(そんな嘘あります!?)


おちゃらけるように、てへペロ★と指を頬に当て、ウィンクをかます腐女子。

だが、カナメなら、なんとなくやりそうな気がしないわけでもない。なんせこの女は、BLもGLもNLも大好物な雑食生物なのだから。その証拠に、毛ほども疑うことなくリマは、むしろ爛々と目を輝かせて。


「見せて! 見たい!」

「いやだよ……!」

「恥ずかしがんなよ!」

「恥ずかしいよ……!」

「お願い! ちょっとでいいから!」

「ちょっとって何……!?」


と、ラグに絆創膏を外すようにせがんだが、硬く断られてしまった。

よっぽど見たかったのか、「ちぇっ! ちぇっ!!!」と、連続の舌打ち。


「でもそうか、それで昨日、首をハンカチで巻いてたのか。風邪だなんて嘘つかなくてもいいのに」

(た、助かった……)


その口実は腑に落ちないが、とりあえずカナメのおかげで、この場を免れることはできた。

自宅を後にし、カナメと学校へ向かう。

したたる雨の中、赤い傘を差しているカナメは、普段よりも低音で。


「昨日のことでさ、気になって来ちゃった」

「ありがとうございます……」

「ある意味、リマが休んでくれてよかったような、寂しいような」

「…………」


ガールフレンドの立場からすると、相棒とも言えるボーイフレンドが連日で欠席しているとなると、寂しい気持ちも湧いてくるだろう。学園では決して詰まらなそうにしているわけではないが、いつもの勢いが無い。

しかし、肩のこともあり、無理をして欲しくはないという気持ちと、姫子のことに関しては、カナメもリマには打ち明けたくはないようだ。なんせ、リマは男女問わず、喧嘩っ早いところがある。女子に手加減はしても、真っ向から喧嘩を売りに行くタイプだ。飛んで火に入る夏の虫のように。

桃源姫子は、そんなことをして敵う相手ではない。


「黙ってるのは心痛いけど、あまり心配もかけたくないしね。でもほんと、今マジで色々とやばいから。キヨ姉も感づいてきてさ、ガチなんだよね」


話を聞けば、昨日、風紀委員長である紫陽花に聴取されたとのこと。その上、学園長が姫子に脅迫されているかもしれないという情報まで読んでいるということ。

一人の女子生徒に、これだけの人が振り回されている。

奇怪な事態に、ラグはこくりと息を呑む。


「……カナメさん、黒摩さんと知り合いなんですか?」


昨晩から気になっていたことを、無回答を承知の上で問うたが、案外カナメはあっさりと答えてくれた。


「うん。去年の入学式からずっと知ってる」

「去年の入学式? だって黒摩さんは1年……」

「黒ちゃん、留年してるんだ」

「黒ちゃん……?」

「黒摩だから、黒ちゃん」


あだ名で呼ぶくらいの仲、だったのか。


「ちょっと乱暴なヤツだけど、いいヤツだったよ」


彼が“いいやつ”だったなんて。

留年しているという事も知らなかった。勉強嫌いな下等ならば、留年してもおかしくはないが、彼がそうなってしまったのには別の理由があると、カナメは語り続ける。


「あたしも黒ちゃんのことあんまり知らないけどさ。あいつ、姫子さんと同じ学校だったんだ。いいとこの奴らが通うような」

「え……」

「その学校が厭になって、華学に転校したって言ってた。たぶん、姫子さんが原因だと思う」


私生活も素性も謎めいていた黒摩魔王。それが、ほんの少しだけ垣間見えた気がした。

かといってまさか、一流学校に通っていたことは、想定の範囲外だったが。


「姫子さん、黒ちゃんが今の学校に転校しても、ストーカー行為しててね。びっくりしたよ。今年になって、その姫子さんが華学に来てるんだもん。リマから、姫子さんと友達になったって聞いたときは死ぬかと思ったね……」


平静を装うのに苦労したと、カナメは付け加えた。

黒摩に続いて、次々と明かされる桃源姫子の素性。

あれほど凛々しくて、何をやらせても完璧で、気品溢れるご令嬢に、まさかストーカー気質があったなんて。

自分が黒摩魔王と接触していることを知ったのは、以前からストーキングしていたからなのか、それとも噂の風が彼女の耳に届いたからなのか。

いずれにせよ、現状は好ましくない。

本当は、学校に行きたくない。

また、彼女と出くわすのが怖い。

何もなかったかのように振舞えと、黒摩もカナメも言うが、それは簡単なことではない。


「あたしが姫子さんと直接会って話したのは一度だけ。ラグっちゃんと同じように、きれいな鋏で首を切られてね。“魔王の前から姿を消して”って言われた」


桃源姫子は既にこの時から、黒摩に好意を寄せていたということになる。


「そのことを黒ちゃんに相談したら、急に学校に来なくなって……今年になって戻ってきたけど、変わり果ててて、驚いたなあ……」


つまり所、黒摩魔王がああなったのには、桃源姫子が主な要因である、と。

悪逆非道な黒摩魔王と、残虐非道な桃源姫子。ある意味、お似合いのカップルではある。

姫子に触発されて黒摩が悪に染まったのなら、まだ納得はいくのだが、少なくとも昨日の時点でラグは、黒摩の“悪ではない”部分を見ている。姫子本人に対する本音も聞かされている。

姫子の一方的な片思いなのだ。


「あと、ごめんね」

「え……?」

「ラグっちゃんが黒ちゃんにイジメられてるの知ってて、あたし何もしなかった」


いつもは、リマが必ず助けに来てくれる。

そのリマの隣には、時たまカナメがいる。陰から様子を見守るカナメが。


「ラグっちゃんをイジメてるのは許せなかったけど、黒ちゃんがグレた理由もなんとなく分かってたから……うまく攻めることも庇うこともできなくて。リマの肩関節を外したときは、一発殴ってやろうかなとも思ったけど、やっぱり出来なかった」


カナメにとって、黒摩も自分も友という名の存在。

二人の間に立つ彼女にとっては、とても歯痒いことであろう。


「無力だよね……あたし。黒ちゃんのこと助けてもあげられないや」


うざいくらい元気で明るいカナメにしては、今日の天気も相まってか、とても暗い表情を刻んでいた。

桃源姫子の恐ろしさを知っている自分たちだからこそ、リマには言えない。隠し事はしたくないが、黒摩魔王と桃源姫子の関係性が原因で一番の被害を受けたのは、リマ本人である。

難事の連結を避ける為にも、これ以上、他人を加えるわけにはいかない。




***




降り注ぐ雨を、3年の教室の窓に背を預けながら、眺めていた六月紫陽花。

物思いに耽るように、窓の外から視線を外すことなく、腕を組んで佇んでいた。正面から、ハタモッティーこと、旗本春人が「どうしたの紫陽花」と声を掛けてきたことにも気付かずに。

紫陽花は、昨日の奇妙な出来事を思い返していた。

ちょうどその頃、F2を通過していた自分は、F1の階段からよろりよろりと上がってくる黒摩魔王の姿を見かけた。驚いたのは、その両腕に、奇抜な毛色を持ったことで有名な少女を抱きかかえていたことだ。

黒摩自身は少し雨に濡れていて、全身が土ぼこりになっていた。


「どうした? 何があった?」

「気を失ってる。保健室に連れて行くところだ」

「……保健室? お前が?」

「文句あんのかよ」

「……いや」


保健室へ運ぶという行為に関しては何も言えないが、少女が意識不明であることが気になる。

紫陽花は、責めるような口調で黒摩に問うた。


「お前、その娘にまた何かしたのか?」

「取り違えるな。階段から落ちたんだ」

「……と言う割には、お前のほうが重症だな」

「どうだっていいだろ。ほら、後はお前が運べよ」


そう言って、ラグの身体を紫陽花に差し出した。

紫陽花は素直にその小柄な身を受け取ると、足早に去ろうとする黒摩を止める。


「お前も寄っていけ」

「はっ、なんだ。珍しく俺の心配か?」

「まさか。両家の恥晒しである貴様など、心の底から死ねばいいと思ってる」


にっこりと満面の笑顔で毒を突く紫陽花に、黒摩から表情が消えた。


「ふん、よく言うぜ。お前だって人のこと言えねーだろ」

「まあな。だが今は真面目にやってるだろ」

「ほざけ。過去を抹消することはできない。お前にはまだ“跡”が残ってる」

「……?」


一瞬、紫陽花の顔が強張る。

話を切り替えるように、「とりあえず、お前も保健室に来い」と、黒摩を誘うが、本人は頑なに断りを入れる。


「必要ない。大したことねぇし」


その言葉の下から、紫陽花は黒摩が浮かせている方の足首を蹴った。


「いって!!!」


思わずかがみ込んで、両手で蹴られた部位を握り締めた。

激痛に汗が吹き出たところを、紫陽花が嘲笑って吐き捨てる。


「確かに、大した怪我じゃないな」


ケタケタと笑いを零し、ラグを抱えて保健室へ入っていった。


「くっ……あの痴女め……」


暫くそこを動けなかった黒摩の元へ、再び紫陽花が戻って来る。


「ほら、お前も来るんだよ」

「おい放せ!」


座り込んでいる黒摩の襟を掴んで、ずるずると保健室の中へ引っ張り込んで行く。

無造作に手放された黒摩は、室内を見渡す。ラグはベッドに横たわっていて、何故かその近くに田代の姿があった。保険医は留守のようだ。


「あれ、黒摩さん!?」


保険医が留守のため、勝手にタンスを漁って絆創膏を顔中に貼り、氷の入った袋を頬に当てている。

おそらく、毎度のごとく、女子に殴られたと思われる。

田代の存在は一旦スルーし、紫陽花は真顔で、黒摩に再び質問を投げかける。


「あの娘の首元に切り傷があるが、あれはお前の仕業か?」


面倒くさいところに目をつけられたものだ。


「さあな」

「正直に答えろ」

「想像に任せる」


曖昧な言承けを繰り返すばかりの黒摩に、紫陽花が目を細める。

そして、単刀直入に問うた。


「桃源姫子か?」


瞬時に、黒摩の目つきが変わった。

その名を聞いた黒摩は切羽詰って、否定することも、誤魔化すことも出来なかった。

側で控えていた田代も、例の名前が出たことによって、黙って耳を傾けた。


「どこでそれを知った」

「探れば情報は出てくるさ」

「……」


情報を提供した当人を、思い浮かべた。


「答えろ、黒摩」

「この件に関しては、首を突っ込むな」


桃源姫子という名前を口にした途端、黒摩の姿勢が一変した。

どこか動揺の色が見える。明らかに、いつもの彼ではなかった。


「もう、そいつが巻き込まれた」


ベッドに身を委ねているラグを差すその言葉は、心なしか弱く聞こえた。


「あいつの蜘蛛の巣に捕まれば、逃げられない。お前も例外じゃない」

「どういうことだ」

「俺とお前が婚約しかけてるからだ」


ゆくりない言明を聞き、声を発しなかったものの、田代は鳩が豆鉄砲を食ったようになる。

黒摩も紫陽花も、田代がその場にいるということを気にも留めず、続けた。


「それがなんだと言うのだ?」

「あの女は、俺に近づく女をすべて蹴散らす。俺とお前の関係も、おそらく承知済みだ。お前に“跡”が残っている限り、あの女はそれを嗅ぎ付けて利用する。最悪の場合、親御さんにも知れ渡るぞ」


射抜くような眼差しで断言され、紫陽花は言葉を失う。

耳を疑った。品行方正な姿勢を常に保つクラスメイトの裏の顔。教師からの評価も高く、いつもクラスを纏めている桃源姫子からは、想像を絶する本性だった。


「……彼女の目的はなんだ?」

「俺の首を狙ってる。俺が自ら差し出せば、すべてが丸く収まるんだがな。けど、お前ならわかるだろ。そんな易々と捧げられるもんじゃない」


彼に近づく女には――それが、一体どんな意味を示しているのか、この時の紫陽花にはわからなかった。

話に一旦、区切りをつけて、「保健の先生を探しに行って来る」と言ったきり、その後のことは知らない。何故なら、先生を連れて戻って来たときには、室内は無人だったからだ。

その晩は、うまく寝付けないまま朝を向かえ、今に至る。

彼の婚約者候補であることが理由で、自分も姫子に狙われる可能性が少なからずともあると、黒摩は言っていた。姫子は黒摩の“首”を狙い、しかも彼に近づく“女”全員を蹴散らす。

要するにそれは――。


「紫陽花ってば」


ぺちりと、紫陽花の頬に、軽く平手が打ち当てられた。

それによって、ようやく我に返る。


「ああ、すまない」

「珍しいね。さっきから上の空」

「少し、考え事をな」


放課後となった今現在、風紀委員会へ向かうところであったハタモッティーに同行するかという、シンプルな誘いだった。

紫陽花はそれに承諾し、ハタモッティーと共にそちらへと向かう。


(……“跡”を嗅ぎ付ける、か)


つまり黙って見ていろ――と。

学園長を陥れるくらいだ。自分のような小鼠が無鉄砲に歯向かえば、いとも簡単に罠に引っかかるだろう。


(あいつ……どうするつもりだ)


首を捧げれば“すべて”が収まる。それは自分の“すべて”を捧げるという意。


(親御さんも、このことはさすがに知らないよな……)


今年になって急激な変化を遂げた黒摩魔王。

彼との出会いは、自分側と彼側の両親が勝手に進行した見合いだった。見合いといっても、当時はまだ小学生だったため、本格的なものではなかった。家族ぐるみで食事をして談笑するなどと、そういったシンプルな行事だった。

このときの黒摩の印象は、ただの普通の小生意気な男子。

だけど、自分と通じるものがあった。厳格な両親を持つところ。少し捻くれているところ。束縛を嫌い、自由を求める者同士。それでも憎めない家族が望む道を切り開こうとするところ。

お互いに、意思はきっちりと固まっていた。

そんなあいつを、あそこまで追い詰めた桃源姫子。

なんて、末恐ろしい。




***




放課後を迎える前の最後の授業。

1年A組は体育の授業を受けていた。雨が降っているため、運動場ではなく、体育館で授業は行われた。いたってシンプルに、跳び箱や縄跳びなどといった遊戯的なものを利用した内容だった。

この学園の体操着は、男女共通の白いポロシャツに、男子は青いズボン、女子は青いスカートを身に纏っている。その下にはブルマかスパッツのいずれかを履いている。白い運動靴に履き替え、いつもは髪を垂らしているラグの体育時のヘアスタイルはポニーテイル。

授業を終え、授業で使用したアイテムを体育倉庫に片していた。

このまま昼休みに入る。一部はそのまま食堂へ向かい、自分を含めたもう一部は更衣室に向かった。

その途上――背後から声が掛かった。


「こんにちは、バケットさん」


その声の主に、ぴたりと足を止める。

思わず躊躇した後、ラグは意を決してそろりと振り向いた。

彼女はどこか冷たい視線を寄越している。


「少し、お付き合い頂けるかしら?」


この雨の中、人気のないところへ移動する。

その場所は、黒摩の縄張りでもある裏庭だった。

いつもは青いブレザーを着ている彼女だが、今日は赤いブレザーを身につけ、全身を真っ赤に決めていた。彼女の赤毛といい、この雨の日にちっともそぐわない、まるで炎上しているような着こなしだった。


「私の言いつけをさっそく破るなんて、案外、悪い子なのね、バケットさん」


“言いつけ”とは。

紛れも無く、“あのこと”だ。

だけど、一体なにを所為に――。


「魔王と親しく雨の中、一緒に帰ったそうじゃない?」


いつ、どこで見ていたのか。

カナメが言っていた“ストーキング”とは正に、この事か。

ぞわりと、ラグの背筋に悪寒が駆け走った――。







NEXT STORY

「豪雨。雨にしたたる蜘蛛女」


2017/05/27

Produced by KIYUMI TERANAKA

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る