12° 花腐し。萎びのち雨
012
狭くて硬い殻の中。
いつからか、足元が透明な液体で埋もれている。
一滴、また一滴と落ちる度に水圧が増していく――。
目を開けると、天気はどんよりしていた。
今朝の天気予報では、あくまで曇るだけで雨は降らないと言っていたのに。
雲海の間隙に差し込まない陽射し。雲行きの怪しい空合いをじっと見上げていたラグは、校舎の東側の裏にある非常階段の手前にて、手すりに手を添えながら呆然自失と、瞬きもせず、佇んでいた。口から零れるのは生温かい吐息。その目は赤く染まっている。
そろそろ予鈴が鳴る頃。
髪を靡く冷たい風を受け止めた後、ラグはきゅっと胸元のネクタイとシャツを握り締めてから、手すりに引っ付くようにして、地上から一段一段と階段を上がっていく。ゆっくりと、噛み締めるように、F1へと繋がる扉を目指す。
長い10段を登り終えると、一旦そこで立ち止まり、一息つく。胸から手を退けると同時に背筋を伸ばし、呼吸を整え、手すりからそっと手を放した。
すると突如、扉がけたたましく開かれた。
ラグの視界に現れたのは――。
「……!!」
黒摩魔王だった。
咄嗟のことに驚いて、反射的に後ずさった。その瞬間、背後の段差を踏み外してしまう。滑らせた足が命取りとなり、両腕が浮き、毛並みがふわりと宙へ舞った。
(う、そ……!)
ふとしたフラッシュバック。
――3年前のこと。
誰が見ても初めはビックリする、この地毛。スカイブルーでも、ミントグリーンにも当てはまらない。何に例えればいいのかも分からない。だから、ただ単に「変」という文字が、「変色」「変な髪」「変な髪の色」「変異」などと、必ず悪罵の頭に付いていることが多かった。
最初は園長や学園長にも疑われ、今でも一部の人には地毛だと信じてもらえない。
一際、抜きん出たヘアスタイル。誰もが、酷評した醜い色。
姉弟そろって、いつも引け目を感じていた。
幼稚園生の頃までは、特にそんなことはなかったが、小学生に昇格し、周囲からの冷やかしが増えた。初めは相手にしていなかったが、クラスメイトに両親のことを悪く言われたことが原因で、リマがその子と取っ組み合いの喧嘩になった。
ここから、全て始まった気がする。
ここから、何かが狂った気がする。
年々と、二人に対する虐めはエスカレートしていった。変色の双子として知られはじめ、友達もおらず、特に喧嘩っ早いリマは同級生からは忌み嫌われていた。
そんなある日。
先生が待つ下の階の職員室へ、大量のプリントを届けるために、両腕をいっぱいにして運んでいたラグの背後から、怪しい影が迫っていた。プリントを落とさないように気を張っていたラグは、背後の忍び足に気付かない。
三人の影は楽しそうに、ラグの手が塞がっていた状態を利用して、大声を出して、その声量をラグの背中にぶつけるという姑息なイタズラに出た。
あくまで、プリントを散らかす程度だった――。
過去の記憶を思い巡らせていた、一刹那。
(落ちる……!)
すべてが、スローモーションのようだった。
足の裏が段差の角度からそろりと離れていき、ラグの小柄な体が宙に浮く。ぎゅっと、顔をしかめるようにして目を瞑り、口を固く紡ぐ。
そこから伸びてくる、黒摩魔王の腕。
ラグの左手首に、温かい感触が生まれる。
大きく踏み出した一歩で踏ん張りながら、ラグの体を力いっぱい引っ張り上げる。落ちる姿勢を阻止するように、新たな一歩を踏み出すが、肝心なところで誤ってしまう。その足首が内側に捻り、着地すると共に痛みが走った。
そのまま前のめりへと、重力が黒摩とラグを地面へと押し倒していく。
咄嗟の判断で、くるりと上半身を回転させた黒摩は、空いた腕をラグの腹部に回す。
そのまま、黒摩の身は残りの下り階段を滑り落ちていった。
――しばらくして、そっとラグの目が開かれる。
不思議と、衝撃はなかった。
が、何かに支えられていた。
身をよじらせると、背後からくぐもった声が。
「ぐ……っ」
するりと、ラグの腹部を抱えていた黒摩の腕が落ちる。
地面に手をつき、半回転して起き上がると、そこには確かに黒摩がいた。
ラグは、図らずも“彼”に救われたのだと、府に落ちる。
今、見ているものが信じられなくて、肩を震わせながらか細く呟く。
「……して……」
全身が震撼している。乱れた毛並みに息が吹きかかり、ドクドクと心拍数が上昇する。
恐怖感からか、それとも無傷であったことに安堵を抱いたのか、ラグの両目からはボロボロと雨が降り注いだ。
苦しそうに根をあげる黒摩を涙目で見下ろして、
「どうして、私を助けたんですか!?」
息が弾んでいた黒摩は、両腕を柱にしながら上半身を支え、むっくりと泥だらけの背中を起き上がらせた。
糸を引かれ、唯々諾々で、一言一行に意固地もなく、少々の事では意に介さない脆弱なラグからは到底、想像のできなかった言動。その語勢に、怒りが心頭に発した黒摩は、咄嗟にラグを荒くれに掴み取った。
「助けてもらっておいて、その言い草は何だ!?」
ラグは掴みかかってきた黒摩に臆することもせず、反論した。
「迷惑です!」
カッとなって、思わず、平手で引っ叩いた。
それでも、ラグが意気阻喪することなかった。
むしろ逆効果だったようで、上擦るように泣きじゃくった。
「もうイヤ……イヤなの……!」
息を吸い込んで、両手で顔を覆って泣き叫ぶ。
「私、ちゃんとやってるのに……! 勉強も、家事も、ちゃんとやってるのに……悪いことだって何もしてない……誰に何を言われても、殴られても、怒ったことないのに……!」
止まることを知らない涙は、しんしんと地面を濡らしていく。
黒摩は、嗚咽するラグを黙って見つめた後――。
「何を言われた?」
涙は、突として止まった。
「“あの女”に」
両手から顔を覗かせ、さながら事情を見抜いたかのような口調で言う黒摩に脅威の念を抱いた。
おそらく、双方、思い描いている人物は同じ。
「…………」
ラグは、言うに言われなかった。
“あの女”というワードに、数分前に起こった有様を、頭の中で反芻させた。
桃源姫子が。あの桃源姫子が。桃源姫子は。ナイフを持って。ナイフで自分を。ナイフを向けた。
「あ……」
ラグが力なく両手を下ろすと、黒摩はその首筋に刻まれた赤い線を見取った。
「……その首の傷、姫子がやったのか?」
息せき切っているものの、少々落ち着いたラグを見て、黒摩が首の傷を見ようと身を乗り出す。
その行動に警戒したラグは、座ったまま肩をすくめ、避けようとした。
「来ないで……」
震え上がるラグは、ふるふると頭を横に振った。
「あなたといると、私は不幸になる……」
被害めいた口吻で、声を張り上げる。
「あなたといると、私は殺されるの……!」
意味深長なことを言い放され、黒摩は眉間に皺を寄せた。
「はあ……っ、はあっ……」
淡い期待を抱きながら、心機一転のつもりで転学してきたのに。
だが詮ずる所、“引け目”から逃れることはできなかった。言ってみれば習慣になりつつあったので、それほどの抵抗感は無かった。ある程度なら、受け流す事も朝飯前だった。
しかしながら、まったく太刀打ちできない人が現れた。
言うまでもなく――このサディスト。
そしてまさかの――もう一人。
むしろ、転校するべきではなかったのかもしれない。
「あ、はっ……」
怖い。
苦しい。
怖い。
「うぅ……っ」
怖い。怖い。怖い。
怖い。苦しい。怖い。
怖い。怖い。怖い。
「おい……」
焦点が定まらず、烈しい目眩に襲われ、くらりとラグの体が黒摩のもとへ倒れ込む。その身を咄嗟に受け止めるとほぼ同時に、その場でラグの意識が途切れた。
この瞬間を見計らったかのように、灰色の雲から雨が降り注ぐ。
「ちっ……こんな時に、鬱陶しいな」
ただでさえ土だらけの身だ。雨水によってこれ以上、汚れるのは勘弁してほしい。
黒摩は痛みに耐えながら、座ったままの状態でまずはラグの胴体を自分の胸板に寝かせるようにして抱きかかえ、両脚の下から腕を通して、バランスを崩しながらも片足の力でなんとか立ち上がる。
人通りも疎らな校舎の裏を、片足を引きずって歩き出した。
***
目を覚ますと、見知らぬ天井が視界いっぱいに広がった。
うらぶれた顔で、むくりと起き上がる。
事柄の主旨は、粗方、覚えている。
衝動の動機も、一通りのこと鮮明に。
確か、自分は東方の非常階段で――“あの人”と会った。思い出したくもない戦慄。“あの人”の殺意だけで、息の根を止められるかのように息詰まる。
だけど、今日の彼はどこか違った。
気を失ってどれくらいの時間が経ったのか。忌々しい過去の記憶をリピート再生した後、ふと、ここが学園の保健室であることに気が付いた。窓の外は見慣れた風景。予想通り、雨が降り出した。
まだぼうっとして、苦境から抜け出せない。わずかに眩む頭を支えるように、指先を額にあてがう。
するとすぐ側で、二人の男子の会話が聞こえた。
「だから、俺は全然平気だっつーの」
カーテン越しのすぐ隣から聞こえる声の主は、紛れもなく黒摩魔王のものだった。
「何言ってんスか! 捻挫を甘く見ちゃいけませんよ!?」
「階段から落ちたくらいでなんだ」
「それくらいって! 背中なんて見てられませんでしたよ!?」
もう一人のこの声の主は、階段から滑り落ちたのにも拘らず、黒摩の平然としたその意気に付いていけず困惑する田代祐二だった。強情張りな黒摩を後にするように、田代は「まったく……知りませんよ、俺は」と吐き捨ててから大きな溜め息を吐いて、保健室から出て行った。
扉が閉まる音を確かめると、ラグはベッドから下りる。
そろりとカーテンを開け、その隙間から様子を覗き見ると、上着を着ていない黒摩が一点を見つめながら、片脚に肘を伸ばしてベッドに座っていた。
ラグの気配に気付いた黒摩は、顔をそちらに寄越し、
「なんだ、しぶとく生きてたのか、虫泣き」
「虫泣き……新しい方言ですか……」
「おう、喜べ。お前のために考えてやった新しい言い回しだ」
「素直に喜べません……」
「じゃあ、落ち込め」
「もう落ち込んでます……」
無表情でいけしゃあしゃあと悪態を突いてくる黒摩に、即座に白旗を揚げた。
二人揃って階段から落ちたというのに、この専横に意気天を衝くような威勢は、一体どこから沸きあがってくるのか。
そんな他愛ない遣り取りの末、ラグはおそるおそるカーテンを通り越し、黒摩に近付いた。
「捻挫……ですか?」
「どうってことねぇよ。歩けりゃいい」
「背中も打ったって……」
「それもどうってことない」
喧嘩慣れしているから、これだけの怪我を負っても、本当に大したことがないのか。それとも強がっているだけなのか。今の自分には分かりかねないことだろう。
ひとつだけ分かるのは、自分は無傷であったことだ。
何がどうして、ああなったのかは分からない。覚えていない。
だけど、左手首の生暖かい感触は、まだ残っていた。
「ごめんなさい……」
自然と、水が目から落涙した。
「泣くな。目障りだ」
まったく、この女はすぐに感傷に溺れる。
ラグは再度、「すみません」と詫びた。
水洟を啜り上げながら素直に涙を止めようとするラグを無言で見詰めてから、黒摩は顔を逸らし、どこか決まり悪そうな表情で、ぼそりと呟いた。「べつに――」
「お前が無事ならいい」
ラグの涙が、本当にぴたりと止まった。
黒摩魔王という悪逆非道に良心なんて、誰もが有り得ないと思っていた。有り得ないと思っていたのに、彼は何故か自分を庇って怪我まで負い、世にも珍しい発言を口にしたのだ。
さらには、しかめっ面でこんなことまで。
「お前、よりにもよって一番気をつけてる階段で転ぶなよ」
「え……」
「いつも手すりにしっかり掴まったり、壁に寄り添ったり。用心深く上がり下りしてるくせに――」
そこまで言ったところで、黒摩は口を噤んだ。
「どうしてそんなことを知ってるんですか……」
しまった、と言わんばかりの顔で。
墓穴を掘った、とでも思っているかのように。
黒摩の表情には困惑の色が浮き出ていた。
罰が悪そうに目線を逸らすが、観念したように切り出す。
「見てるから」
黒摩魔王という悪逆非道にしては、とんでもなくずば抜けた、こっ恥ずかしいセリフを揺るぎもなく、単刀直入に、恥じらいもなく、淡白に伝えた。
「お前のこと、いつも見てんだよ」
ドクリ――と、ラグの心臓が高鳴った。
なんの目的で自分のことを観察していたのかが、気になるところである。自分をたぶらかすためのタイミングを見計らうためのストーキングなのか。むしろ、それ以外の理由が見当たらない。だが、それが主な根拠であれば、先ほど自分を咎めていた言い回しに矛盾が生じる。
考えても答えは見つからず、二の句も思いつかず、ラグは俯いてしまい、二人の間に沈黙が流れる。
水を差すように、咄嗟に話題を変える黒摩魔王。
元はといえば、これが本題だ。
「で、あの女に何を言われたんだ?」
「あ……えっと……」
事の仔細を聞かされた黒摩は、ぽつりと「そうか」と呟いた。
「俺という存在をお前の中から消せって言ったの、わかっただろ」
「…………」
何も言えなかった。何と言えばいいのか。
なにせ、黒摩の意図がわからない。
彼の“遊び”の対象に人選されたかと思いきや、桃源姫子の登場によって急に突き放されたり。もう二度と関わることはないだろうと思いきや、彼に助けられたり。さすがに頭が混乱してきた。
とにかく、今一番気になることは、悪逆非道な黒摩魔王と桃源姫子の関係性だ。
「あの……姫子さんと黒摩さんって……」
言い終わる前に消え入った声に、黒摩はしばしの間、黙り込んだ。
「……さあな」
鬱陶しそうに、黒摩は後頭部をひっかく。
「俺達は、感情も意見も一致しない仲だ」
それは、姫子が黒摩を愛し、黒摩は姫子を憎んでいるという形になるのだろうか。
聞いている限りだが、どうやら姫子の一方的な片思いで、実際には親しい仲ではない。それもそう。相思相愛の仲なら、二人は常に一緒にいて、姫子もあんな行動には出ないだろう。
そしてあのとき、自分と姫子の間に現れたときの、黒摩の動揺の顔も納得がいく。
「あの女は俺の首を狙ってる。つくづく振り回されてばっかだ」
ごくりとラグの喉が鳴る。
黒摩の口からはそれ以上の言葉は出て来なかった。
“首を狙われている”――それが、一体全体どんな意味をもたらすのか。
昔は公衆に身の竦むような思いを与えるために死刑執行直後に囚人の首を見せしめにしていたこともあり、現代では地位や名誉などを狙う・奪う取るという解釈もある。
桃源姫子は、自ら黒摩魔王のことを「好き」だと言った。要するにこの場合、“首を狙う”というのは“自分の手元に置いておきたい”というミーニングなのか。
今回、自分の首筋に切り込みを入れた意味は、単なる“忠告”である。
それを守らなければ、おそらく言葉通り“自分の首を狙う”かもしれない。
「…………」
彼はどんな思いで、今まで過ごしてきたのか。
今、自分が感じている恐怖を、彼は感じたことがあるのだろうか。
じわりと、涙が目尻に滲む。
「お前ってほんとムカつくよな」
今、同じ立場にいる自分と彼。
「てめぇみたいに泣いて過ごしていける人生を、俺は送ってんじゃねぇんだよ」
自分と彼の違いは明白。
恐怖におののいては、受け入れてしまう、弱い自分。
恐怖におののいても、もがきあがき続ける、強い彼。
次元が違いすぎる。
「…………」
何がきっかけで、二人の関係が始まったのかはわからない。
無論、自分が入り込む義理はない。入り込んだところで、何もできない。
自分は指にも足らない矮小な存在だから。だから逃げたい衝動に駆られる。
彼と遭遇するときも、そうだった。
「とにかく、そういうことだ。下手すると、その首の怪我だけじゃ済まないぜ。姫子はとりあえず、言うことさえ聞いてりゃ、特に何もしてこねぇよ」
だけど、今日は。
彼から逃げようとは思わなかった。
「何もなかったかのように振舞うなんて、私にはできません」
迷いもなく、黒摩の目を真っ直ぐ見つめて主張した。
微量ながらも強気なラグに、苛立ちが募る。
「……っ、なんで」
意味がわからない。
「お前、頭おかしいんじゃねぇのか!?」
どうせ何も出来ないくせに、口先だけは立派だ。
「普通なら、もう関わらねぇだろーがよ!」
放っておいて欲しい。これ以上、入り込まないで欲しい。
「それともなんだ、俺をおちょくってんのか? ああ、そうだ、俺の弱点を知ったんだもんな!? 今までの腹いせに俺を陥れようってか!?」
ただの泣き虫のくせに、つけ上がったことを言うから、皮肉にも笑うことしかできない。
まったくもって人というのは、こぞってくるゴキブリみたいで鬱陶しい。他人の噂話を聞きたがって群がる人々も、部外者で成立しない正義感を無意味に主張してくる奴も。
前者も後者も、窮地に追い込まれれば尻尾を巻いて逃げ出すのが関の山。見て見ぬふりをするくせに他人の不幸だけは知りたがる。勝算もないのに弱腰のまま向かってきて最終的には足手まといになる。
「……いいえ」
自分の怒号をいとも簡単に掻き消すような口振りで言い切る。
「あなたが、心配なんです」
見捨てては己の立つ瀬がない、とでも言っているような。
どこからそんな言葉が出てくるのか、図りかねる。「……っ」
「とはいえ……私に出来ることは皆無です。あなたが姫子さんに勝てないのに、私のような惰弱な人間が勝てるはずありませんから……」
「……はっ、わかってんじゃねぇか。そのとおりだよ」
「私は役立たずです。何かをしようとする、その勇気すらもございません。無力です。利用する価値もありません。今回ばかりは自己満足のかけらを得ることもできません」
全く、この女には驚かされる。
自分を貶めることに、なんの抵抗すら感じない。
(……なんて女だ)
こいつのこういうところは、皮肉な言い方だが尊敬する。
決してネガティブに公言しているわけじゃない。ただ淡々と、事実を述べているからだ。
構うな、と言っているのにも関わらず、他人の事柄に関わろうとする。
自分が今の今まで、どんな思いで、みんなを遠ざけたのかも知らないで。
むかつく。
「…………」
けど。
けど実質――。
「私、お側にいることも迷惑でしょうから、帰りますね……」
さきほどまで意識を失っていた者が、無事に生きて帰れるのか疑わしいところではあるが。
落ち込んだ様子で立ち上がり、ラグが保健室から出ようとした矢先。
「俺も帰る」
足を捻挫しているのにも関わらず、黒摩がベッドから普通に下りようとしていたところを、ラグが慌てて阻止した。
「そ、その前に病院に行ったほうが……もしかしたら捻挫じゃなくて骨に異常があるかもしれな――」
「関係ねぇよ」
「関係ないんですか!?」
「病院は嫌いだっつっただろ」
「重症なのに!?」
「歩けりゃいい」
「歩いたら悪化しますよ!?」
「死ななけりゃいい」
「包帯くらい巻いてください!」
「そんなに言うならお前がやれ」
「ええ!?」
しょうがなく、ラグは黒摩の足首に、ほぼ強制的に包帯をぎっしりと巻きつけたのだった。
骨折とまではいかずとも、捻挫はそれなりの痛みを伴い、足も膨れ上がる。そんな傷を負って、「病院には行かない」や、「歩ければいい」などと、平然とした顔で言えるから恐ろしい。
応急処置を終えたものの、ラグの手つきでは医者のように器用に包囲できないのと、巻いたところで痛みが消えるはずもなく、今更だが、自分は一体なにをやっているのだろうと、後悔している。
「やっぱり、病院で手当をしてもらったほうが……」
「いい。帰る」
「でも……」
「っせぇな」
これ以上、何を言っても無駄だと感じたラグは、それ以上、余計な事は言わなかった。
あまりしつこく言い放つと、かえって彼を苛立たせてしまうからだ。
「素足よりマシだ。激しい動きしなけりゃ、大して痛くもない」
普通にベッドから下りて、普通に靴を履き、普通に歩き出した。
ラグは相変わらず、思案顔を浮かべている。
が、その表情が一瞬にして変わる一言が、黒摩の口から零れた。
「それに――」
黒摩魔王という残虐非道にしては、とんでもなくずば抜けた、こっ恥ずかしいセリフを揺るぎもなく、単刀直入に、恥じらいもなく、淡白に伝えた。
ラグは口では説明しきれない、不思議な感覚を抱いた。
「もう少し、お前と話がしたい」
全ての人間に敵愾心を煽り、よそ者を白眼視し、憎悪に満ちたこの一年間。
自分の中では何も解決していない。なのに、今、このひとときが、ひどく気楽に感じる。
死に切ったはずの感情が、甦生されようとしている。
閉め切ったはずの小窓が、開封されようとしている――。
NEXT STORY
「毒雨の兆候。因縁の赤い糸」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます