第29話 天2

雁刑事は、ある一軒家の前に立っていた。表札には、『天見』と書かれている。ここは、嘗て警察官に成り立ての雁刑事を指導し、あの強盗事件で撃ち殺されたガードマン・天見の自宅だった。

雁刑事がここに来たのは、初めてではない。警察官に成り立ての頃、雁刑事を含む数人の新人警察官のささやかな歓迎会が、ここで開かれた。雁刑事は、その時以来の来訪になるので、実に20年ぶりになる。訪ねようと思えば訪ねられたが、仕事の忙しさにかまけて、なかなか行けなかった。しかし今日は、どうしてもここに来なければならなかった。どうしても、天見夫人に教えなければならない事があった。

雁刑事は、一度深呼吸をして、呼び鈴を鳴らした。程なくして家の中から返事があり、暫くすると玄関の扉が開き、そこから天見夫人が現れた。夫人は、雁刑事が思っていたよりかは元気で、さながら憑き物でも取れたような感じがした。雁刑事は腑に落ちないと思いつつも、手短に挨拶をした。夫人は不満ながらも、雁刑事を家の中へ招き入れた。

居間に入ると、雁刑事の鼻に線香の香りが漂ってきた。その方向には即席の祭壇があり、そこに犠牲になった天見の遺影と遺骨があった。雁刑事は、無作法ながらも祭壇にある御鈴を鳴らし、遺影と遺骨に手を合わせた。その間に夫人は、お茶と茶菓子を用意し、雁刑事の夫への合掌が終わると、それらを勧めた。雁刑事は会釈をして、お茶を一口だけ啜った。

「それで、主人の事でお話したい事とは?」

雁刑事がお茶を啜り終えるのを見計らって、夫人から話を切り出した。雁刑事は、一寸だけ口を潤したお茶の余韻に浸った後、夫人の質問に答えた。

「実は、今回の事件解決の重要証拠・天見さんからの留守番電話のメッセージなんですが…」

「それは、警察の方で引き取っても良いと、お伝えしたはずですが…」

雁刑事に留守番電話のメッセージの話を持ち出され、夫人の脳裏にあの時の光景や想いが甦った。


夫人が出先から家に帰って来たら、留守番電話の着信ランプが点滅していた。液晶画面を見ると、「メッセージ:一件」と表示されていて、電話を操作してメッセージを再生してみると、聞き覚えのない複数人の話し声が流れてきた。夫人は、悪戯電話と思ってメッセージを消そうとしたが、液晶画面をよく見ると、「夫の携帯」と表示していた。夫人は首をかしげながら、暫くメッセージを聞いてみた。

「これから、皆で銀行強盗しない?。」

「見ての通り、ある政治家の不正な金銭の記録よ。A銀行は、政治家個人個人を相手に高利貸しをしていたのよ。」

「実は私、銀行にあるシステムを組み込み、横領していたのよ。」

「元々、お客様に銃を向けた私には、選択肢は無いからね。」

「僕は、振り込め詐欺の回収係、所謂出し子をやらされていた。知ってるか?、最近は、一度か二度別の口座に移し変えてから回収するんだよ。そしてその口座は、出し子の名義で作られる。…」

話している内容は、明らかに犯罪の計画や告白だった。夫人は、驚きながらも最後まで聞き、警察に連絡した。そして『夫は、やはり仕事人間だった』、と残念に思った。


雁刑事は、夫人の表情が暗くなった事に不安を感じた。それは、死ぬ瞬間の人間の表情に似ていたからだ。

「大丈夫ですか?救急車、呼びましょうか?」

夫人は手を振って、大丈夫をアピールした。

「すみません。主人が死んだ時の事を思い出しまして…」

「…日を、改めましょうか?」

「いえいえ、続けてください。」

そう言われて雁刑事は、テープレコーダーを背広の内ポケットから取り出した。

「警察の科学捜査班の一人が、メッセージを聞いた当初から気になる音があると言ってまして、その人が、昨日までその音の分析を続けていたんです。そして、この音声を発見しました。」

そう夫人に告げた後、雁刑事は、テープレコーダーを操作して、音声を流した。音声は、とても小さくか細かったが、はっきりと一言だけ聞き取れた。

「…ありがとう…」

それを聞いた夫人は、全てを悟り、涙を一つ流した。雁刑事は、夫人が哀しんでいると思い、色々と言葉を掛けてみた。

「すみません。アナタを哀しませるつもりではなかったのです。しかし、この天見さんの最期の言葉は、明らかにアナタに宛てたもの。天見さんは、本当にアナタに感謝していたのですね。」

「知ったような事を言わないで下さい!!」

急に夫人が、怒鳴った。雁刑事は、夫人の豹変に驚き、間抜けな顔をして唖然とした。そこに夫人の怒りが、雁刑事を畳み掛けてきた。

「アナタに何が解るの?!何十年も主人中心に生活をしてきた私達の何が解るの?!何十年も主人の都合で私達の大事な時間がどれだけ潰されたと思っているの?!主人が私達を何回哀しませたか知っているの?!主人の満足感だけの為に私達が何を犠牲にしてきたか知っているの?!何回私達が主人に改善を訴えその都度否定されたか知っているの?!主人の横暴に私が何回苦しめられたか知っているの?!子供達が何回主人と喧嘩して負かされてきたか知っているの?!………私達家族の事を何も知らないのに、勝手な事を言わないで!!」

雁刑事は、圧倒された。温和な人だと思っていた夫人が、ここまで感情を露にして、夫への不満を爆発させるなんて、完全に雁刑事の想定外以上の事が、目の前に起きていた。そして夫人の爆発は、規模は小さくなったが、まだ続いた。

「主人は典型的な亭主関白、いえ亭主暴君だったわ。そんな人間を一家の大黒柱にした家族は、毎日が地獄よ。少しでも自分の予定や予想に沿っていなければ、私達家族は、忽ち主人の怒りの嵐に見舞われたわ。くどくどと説教をし、時には感情をぶつけ、手を挙げる時もあったわ。そんな父親に嫌気をさして、子供達は何回家出をしたけど、主人は仕事の力を利用して、直ぐに連れ戻した。やがて子供達は、色々と理由をつけて、家に帰るどころか寄り付かなくなった。そして主人の矛先は、自然と私に向けられた。まぁその頃には主人の体力は衰えていたから、暴力はなかったけど、それでも毎日、針のムシロだったわ。だから近々、離婚をするつもりだった。以前から海外にいる子供達が、私の面倒をみてくれると言ってくれて、その準備に協力してくれたから、後は離婚を成立させ、あの人に一矢報いるだけだった。しかしまさか、向こうからあんな形で離れるなんて…これじゃ、勝ち逃げじゃない!」

夫人は、また涙を流した。雁刑事は、圧倒された上、夫人の話が信じられなかった。雁刑事の中の天見さんは、そんな横暴な人間には見えなかった。勤勉な仕事ぶりで上司に信頼され、回りの色々な事に気づき気遣かって後輩に慕われ、とても出来た人間だった。その事を夫人に伝えると、「ただの外面だけは良い人よ。」の一言で一蹴された。そして夫人は、更に言葉を付け加えた。

「主人は確かに、仕事は出来た人でしょう。なにせ、仕事人間だったんですから。しかし、仕事が出来る人と人間が出来ている人が、必ずイコールで結び付くとは、言い難い。寧ろ両方とも優れている人間なんて、皆無だわ。少なくとも、私の周りには、居なかった。雁さん、アナタの周りにそんな人間、居ますか?」

雁刑事は、自分のモノの見方を考えさせられた。自分の未熟さを思い知らされた。それほど夫人の言葉には、響きがあった。重みがあった。深みがあった。雁刑事は、夫人の質問に答えようと暫く黙り込んだが、結局深々と頭を下げ、「失礼します。」と言って退散するのが、関の山だった。雁刑事のそんな態度に夫人は、何も言わなかった。そして一人になった部屋で、大声を上げて泣いた。

雁刑事は、後ろから聞こえてくる泣き声に心を痛めたが、先程のやり取りでの惨めさが、戻る事も振り返る事も出来なくさせていた。

ただ雁刑事は、聞こえてくる泣き声が悔しさ来るものではなく、愛情から来るものと信じたかった。最初に見た部屋の祭壇や嗅いだ線香の香りが、哀悼から来ている事を信じたかった。

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