第三章 ふれる ――新井靜
ふれる (1)
出会いは強烈。だが、別れはもっと強烈、そして残酷。
***
「君には本当に悪いことをしたと思っている」
かつての仕事仲間が、残念そうな表情を浮かべたままそう言って手を振ってくれた。
(んなこと求めてねぇっての。馬鹿か、あんたは)
俯きながらフッと息を吐き出すと、凍れる白い息が雪と混ざり合い、より一層視界が白く濁る。
雪が地上を覆い尽くしていた。べたべたした水っぽいものではなく、さらさらのパウダー・スノウ。粉砂糖のデコレーションが、コンクリートの地面に化粧を施してゆく。
彼――
靜はその業界ではかなり有名な菓子職人だった。
数年前まではパリで三つ星レストランのパティシエを務め、帰国後は有名菓子専門店をいくつかプロデュースしていた。ルックスもさほど悪い訳ではない――むしろ良いほうだと思う――のだが、メディアには決して姿を見せず、淡々と菓子を作り続ける。
そんな姿が、製菓業界においては随分とストイックに見えたらしい。元々口数も少なく、堅物でもある靜は、内内では「非常に扱いにくい」という評価を受けるに至る。
「君の作るケーキが見てみたい」
靜がそう言われたのは一年前のこと。とあるホテルが改装に伴い、新たなコンセプトでスイーツを作りたいのだと言う。そのとき靜は別の店で働いていたのだが、半ば強制的にオーナーによって引き抜かれ、新しい仲間とスイーツを作ることとなったのである。
だが、靜は薄々気が付いていた。
大雑把に言えば、自分のスタンスと、コンセプトの違い。他の職人が生み出す華やかなスイーツに比べ、靜のものは少々地味である。正統派と言えばその通りなのだが、消費者が求めているのはそれではなかった。現に、モニターの試食会の結果は散々だった。
もっと華やかな、もっと宝石のような輝きを。それが消費者のニーズだ。
そう言い聞かせ、今までのやり方をすべて捨てることにした。次の試食会ではそこそこ好評だったが、オーナーの反応だけはいまいちだった。
「靜の作るスイーツは、どこか苦しそうだ」
オーナーがぽつりと呟いた一言。
これがきっかけで、靜は今までに経験したことのない大スランプに陥ってしまった。
アイデアがなにも浮かばない。菓子を作ろうとしても、手が震えて動かない。なんとか作り上げても、全く美味しくない。
そんな状態が三カ月続いた。オーナーはよく待ってくれたと思う。しかし、もう限界だった。靜は考えに考えた結果、辞表を提出するに至ったのである。
君には本当に悪いことをしたと思っている――
そう言ったオーナーの表情が忘れられない。あのひとは優しいから、自分のせいで靜がおかしくなってしまったのだと思っているに違いない。
(別にあんたのせいじゃないよ)
靜はのろのろと瞳をこじ開け、短く息を吐いた。
それが分からないほど、自分はバカじゃない。些細な一言で道に迷ってしまった自分の責任なのだ。
(所詮は、その程度で迷う人間だったってことだ)
自分に対する認識を少しは改めた方がいいかもしれない。昔は――それこそ、職人になりたての頃は、迷いなんかなく、ただ前だけを見て突っ走っていた気がするのに。自分はそうやって回想してしまうくらいに歳をとってしまったということか。
「寂しいことだ」
ぽつりと呟いた声は、ネオンに彩られた街にすぐに溶け込んでいき、消える。
世間的にはクリスマスである今日、十二月二十五日。街中はひどく混んでいた。子供へのプレゼントだろうか、大きな包みを抱えたサラリーマンの姿や、たくさんの買物袋を抱えている親子。かわいらしいおもちゃが並ぶショー・ウィンドウを見つめる子供は、今夜やってくるサンタクロースを待ちわびているだろう。
「寂しいことだ」
靜はもう一度、同じように呟いた。しかし今度は、自嘲的なニュアンスを含めて。
ふと街頭で安いホールケーキを売っていることに気が付いた。どこかで雇われたのだろう、サンタの格好をした若い女性が必死に声を張り上げている。
それを見ていたら、突然、きゅう、と腹の虫が情けない音を立てた。
――どうしてこんなときでも、腹は減るんだろう。
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