かえる (5)
***
さて、二人が店を出てからのことだ。
透子が振り返り、彼女の後ろをのろのろと歩いていた海に話しかける。
「あの……よければ、お名前を教えていただけませんか?」
海はどきりとして、思わず身をこわばらせてしまった。
(もしも、正直に名前を言ってしまえば)
もしかしたら気付いてくれるかもしれない。しかし、それで本当にいいのだろうか? 彼女の幸せを願うなら、ここで潔く身を引くべきではないか?
そんな迷いが海の口に封をしてしまった。
「僕は……」
そう言ったきり、海はじっと俯いてしまった。
これでは、彼女を困らせてしまうだけではないか。分かっているけれど、どうしてもそれ以上何も言うことができなかった。
せっかくふたりの魔法使いがかけてくれた『魔法』が、彼女の目の前で解けてしまいそうな気がした――
その時、ぽん、と頭の上に何かが乗せられるのを感じた。この感触は、とてもよく知っている。海がのろのろと目を開けると、彼の目の前で、透子がくすりと微笑んでいる。彼女の白い色の手が、海の頭へ。するりと撫でられる感触が、とても心地良かった。
「やっぱり、魔法は本当なのね」
その一言に、海は思わず瞠目した。
その言葉の意味がまるで分からない。何故彼女が自分に対して微笑んでいるのか。何故、自分を撫でようとしてくれているのか。何故その瞳に、うっすらと涙を浮かべているのかも。
透子が、呆けている海にそっと声をかけた。
「あなた、海でしょう?」
「と、とお、こ……さん」
(どうして)
怯えるようにか細い声を絞り出した彼に、彼女はゆっくりと言い聞かせる。
「お店に入ったとき、あなたを見たらなんだか懐かしいような気持ちになったの。このひと、知ってるなぁ、って。いざ隣に座ってみたら、目が綺麗な青色でしょう? もしかしたら……と思ったら」
透子は鞄から手鏡を取り出し、それを海に向けた。刹那、そこに映し出された自分の姿に、海は思わず声を上げてしまった。絶叫、あるいは奇声だろうか? 自分でも驚いてしまうほど、みっともない声が口をついて出た。恥ずかしさで、頬が徐々に紅潮し始める。
(まさか、あのふたりがかけた『魔法』って……!)
海の分析が正しいのかは分からないが、事実だけ述べると。
黒い色の猫耳が、ぴょこんと海の頭の上についていたのである。まるで、コスプレかなにかのような出で立ちに、海はぱくぱくと口を開け広げてしまった。
「チャイを飲んだ瞬間、これが頭からぴんと飛び出してきたのよ。もうおかしくって、我慢するのが大変だったんだから」
つまり、正宗も靜も見て見ぬふりをしていたということか!
自分の取り越し苦労にようやく気がつき、海は思わずがっくりとうなだれてしまった。
(……でも、それにしては)
それにしては、彼らふたりは海に対し普通に接していた。あの状況ならば、もし耳が出てこようものなら全力で隠されると思うのだが。
(もしかしたらこの猫耳、あのふたりには視えていなかったのかな)
いやしかし、どうせならもっとかっこいい魔法がよかった。何故、敢えての猫耳。ちょっと、否かなり恥ずかしいではないか。
必死になって考える海を、透子はじっと見つめている。
彼女もまた、なにかしらの考えに辿りついているのかもしれない。
「海、」
透子は躊躇いがちに、そっと海に抱きついた。いつもは抱きしめられ、仰ぎ見ているだけの彼女が、今は見下ろすかたちとなっている。それでようやく、海は今の自分の姿が『人間』そのものであると実感することが出来た。
ずっと欲しいと思っていた彼女が。こんなにも温かい感触が、ここにある。
「ごめんね、海……本当に、ごめん」
「謝らないで、とおこさん」
「また一緒に暮らそうよ。最後だなんて言わないで」
海は、彼女の頬にまた一筋の涙が伝うのに気が付いた。
(僕のために泣いてくれるひとがいる)
思えば、この人はいつもそうだ。一緒に笑って、一緒に泣いてくれる。そんなひとだった。このひとの手を、どうしても離したくない。このまま離れ離れになるなんて、絶対に嫌だ。
海は、あの二人の魔法使いに思いを馳せる。
ありがとう、と声にならない声で彼は呟き、その両腕を透子の背中へと回した。
(離したくなければ、離さなければいい)
なぜなら、いつもなら抱きしめられるだけなのに、今日は抱きしめてあげられるこの二本の腕があるじゃないか。
大好きな彼女の匂いを全身で感じながら、海はそっと深海色の瞳を閉じた。
――とおこさん。僕はあなたのことを愛しています。
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