結・まだ見えぬ、明日へ

7-1

 盛夏の日差しに炙られながら、エルフォンソは剣を振るう。

 自ら望んで力を欲し、力が全ての理を粉砕するために。そうすることでしか、力に代わる何かで、世界が進んでゆけないならば。

 何が力に変わって、一繋ぎになったこの世界を、帝國を動かしてゆくのか……それはまだ解らない。だが、それを探すための力が、今のエルフォンソには必要だった。

「ほら、エルッ! 集中して。そんなんじゃ、全然話にならないわ、よっ!」

 プリミの一突きで、エルフォンソは剣を叩き落された。連日の猛特訓にも関わらず、全く上達した気がしない。それというのも、相手が強過ぎるからだ。しかし彼は愚痴も零さず、黙って剣を拾う。

 ルベリアが火ノ本へ旅立ってから、もう半月も経っていた。それは、相変わらず小うるさい姉気取りの近衛女中が、その傷を完治させるのに十分過ぎる時間だった。だからこうして執務の合間を縫って、エルフォンソは宮中の庭で稽古をつけて貰っている。

「さあエル、今日はまだまだ付き合ってあげますからね。早く構えてっ」

「ああ、頼むよ」

「……意外と粘るのね。あたし、すぐに根をあげると思ってたんだけど」

「せめて人並みにと思うしね。それに、決めたんだ」

 世界を統べる力。それに代わる何かを、探して守り、育み広める。そのための力を得るなら、きっとこれからエルフォンソは何も厭いはしないだろうから。

 うっすら汗ばむ額を手の甲で拭い、息を整えてからエルフォンソは剣を拾って構える。

「お伊那さんや姉上には及ばずとも、皇子として恥ずかしくない程度には、ね」

「いい心がけね、エル。まあ、道は険しく遠いけど、気長にやるのね」

「……そんなに酷いかい? 最近ちょっとはサマになってきたと思ってるんだけど」

 無言でプリミは、肩を竦めて首を横に振った。どうやら、お目付け役に及第点を貰えるのは、当分先になりそうだ。

「精が出ますね、殿下。でも、もう少し柔らかく剣を構えられた方がいいですわ」

 不意に典雅な声が響いて、エルフォンソは振り向いた。プリミも剣を納めると、畏まって頭を垂れる。

 後宮を滅多に出ることのない、筆頭寵姫サフィーヌ・グレイデルの姿がそこにはあった。お付の女官達を後に下がらせると、ドレスの裾をつまんでこちらへ歩んでくる。

「サフィーヌ様、こちらへおこしとは珍しいですね。……あの人が、陛下が何か?」

「ええ、一つご報告がありましたので。そうしたら、珍しいものを見たんですもの」

 エルフォンソは照れて、まだ手に馴染まぬ剣を引っ込める。剣を嗜まぬ皇子として珍しかった彼は、ひとたび剣を握れば、尚珍妙に見えるだろう。それでもサフィーヌはにこやかに微笑み、稽古を続けるよう促した。

「実は、先程からずっと見てましたわ。……懐かしくて」

 サフィーヌは寂寥に睫毛を濡らすと、ついと視線を遠くへ放った。

「ルベリア殿下も、幼い頃から熱心に剣を学ばれました。それでも私とご一緒だった頃は、あんなには……私と離れ離れになってからなのです。あんなにもお強くなられてしまったのは」

 西へと僅かに傾いた太陽。それが午前を費やし昇ってきた方向へ、サフィーヌは眼差しを投じて、静かに言の葉を紡いだ。その視線の先、遥か彼方には火ノ本が海に浮かんでいる筈。

「サフィーヌ様を取り上げ、母上の今際さえも奪って、姉上の半生を狂わせた。父は、天帝アルビオレは……本当に世の統一を成し遂げた善なる王なのでしょうか?」

「その答は私には解りません。陛下は老いて尚若く、人の心を宿した獣です。多くの民を救い慕われる一方で、同じく多くの敵を内外に抱えて……それさえも楽しんでおられるのです」

 思い出したかのように、サフィーヌは憂いを帯びたその表情を引っ込め、いつもの慈愛に溢れた笑顔をエルフォンソに向けてきた。

 今、エルフォンソが抱える疑問の答は、サフィーヌにねだるべきではない。誰にも解らぬから、自分で探すしかないのだ。探して確かめ、間違いとあらば改める。

「そうそう、殿下。先日お受けした件を調べておきましたが……仰る通りでした」

「そ、そうですか……あの人はまさしく獣ですね。それも、見境のない野獣です」

 サフィーヌにエルフォンソが依頼したのは、ブレインド公ディッケンの件……その母君の調査だ。もしやと思ったが、半世紀近く前……ブレインド王国は新興の帝國に破れ、その領地を吸収された。その時、美しい王妃は後宮へと召抱えられたのだ。

 まだ若い、それこそエルフォンソとさほど変わらぬ歳だった公爵に、国を奪われ、民心を奪われ、母まで奪われたのは堪えたのだろう。彼もまたルベリア同様に、恭順を示しながら機会を待っていたのだ。そして恐らく、同じ思いを抱く諸侯は帝國に数えればきりがない。

「……ありがとうございます、サフィーヌ様。その件でわざわざ、こちらへ?」

「いえ、今日は陛下に――」

 その時、毎度おなじみになりつつある悲鳴があがった。

 文官達が飽きもせずに、声を張り上げている。いい加減に慣れて欲しいものだが、それが彼女の登場を称えるマーチでもあった。

「おう、エルもおったか! プリミも元気そうじゃのう!」

 もののふ姫こと、伊那のご登場だ。迅雷を連れたその姿は、相変わらず火ノ本の狩衣を身に纏い、その色彩が新緑に鮮やかに映える。着こなされた濃紺が伊那の白さを一層際立たせる。が、エルフォンソは美貌に見とれるより先に、いつも通り呆れてしまう。今日は伊那は、危うげな手つきで長銃を手に持ち、もう片方の肩に巨大な猪を担いでいた。

「サフィーヌ殿も! いやあ、やはり鉄砲はすごいのう! ズドンと一発じゃあ」

 ちょっとした子牛程もある獲物を、得意げに伊那は揺すってみせる。その無邪気な笑顔に、耳が嬉しげに垂れている。背後の尾はもう、千切れんばかりに振られていた。

「……あの、お伊那さん? その、状況が、よく解らないんですが。……狩りですか?」

「おうてばよ! ちょいと学べば、鉄砲とてすぐ手足も同じぞ? これは便利じゃあ」

「その前に、もう少し後宮の作法とか礼儀とか学ばれてはどうですか」

「折角傷も癒えたのに、それは嫌じゃあ。後宮のおなご共も最近は、やれ茶だの詩だのと……」

 プリミもサフィーヌも、笑いを堪えて目尻に涙を浮かべている。

 この娘は、もののふ姫はご存じないのだ。今や天帝も一目置く、後宮でも異彩を放つ自分の存在感に。サフィーヌは不動としても、後宮の序列が今、大きく乱れつつある。他の寵姫達は保身に慌てふためいているのだ。

 無論、伊那はそんなことは意に返さない。

「ちやほや誘ってくるくせにの、わしが誘うと遠慮するのじゃ」

「……そりゃ、誰も野山を駆け巡ったり、衛士達の詰め所に酒を差し入れたりはしませんよ」

「サフィーヌ殿も身重じゃから、誘えんしのう。エル、わしは近頃ずっと退屈じゃ!」

「お伊那さんのお陰で、僕の仕事は増える一方で……えっ、今何と!?」

 思わぬ言葉に、一瞬エルフォンソはサフィーヌを振り向いた。彼女はただ黙って微笑み、静かに頷いた。

「じゃからの。初子じゃし、サフィーヌ殿には精をつけてもらわねばと思っての!」

 ドシン、と肩の荷を降ろして、伊那は「どうじゃ」と自慢げな表情だ。火ノ本では多分、猪なんかも食べるんだろう。大陸では少なくとも、エルフォンソが知る限りでは聞いたことがない。

「鍋でこう、煮込んでのう……臭みはあるが美味いんじゃあ。あとは肝を……そうじゃな、他のおなご共も宴に呼んでやろうかや? わしが捌くゆえ」

「いや、みんな嫌がると思いますよ。そうか、猪とかも食べるのか」

「つまらんのう。どうもサフィーヌ殿がいないと、連中とは上手く付き合えん」

「ま、いいんじゃないですか。それよりサフィーヌ様、陛下に報告っていうのは」

 じゃれつく迅雷に身を預け、その喉を撫で始めた伊那をよそにエルフォンソはサフィーヌの言葉を待つ。彼女は静かに両の手を腹の上に重ねた。

「殿下、貴方の弟君か、妹君か……陛下との子を授かりました」

 改めてエルフォンソは驚いた。何せ彼の父は、齢七十に届かんとする老齢だ。普段からその言動ゆえに忘れているが、余人なら老いさらばえた高齢なのだ。

 エルフォンソは、ひたすらに恐ろしいと繰り返していた、ディッケン公爵の言葉を思い出した。

 確かに、人ならざるモノの力を感じる……が、それよりもまずは――

「サフィーヌ様、おめでとうございます。ほらっ、エルもっ!」

「え、ああ、そ、そうだね。おめでとうございます。宮中の手続き等はお任せください」

 サフィーヌはただ、静かにプリミとエルフォンソに礼を述べてくる。

 しかし、これは一大事だ。多くの兄や姉、弟や妹にとっては、玉座を巡る仇敵の出現を意味するからだ。エルフォンソはまだ生まれ出ぬ子に向けて、暗鬱たる憂いを想った。大恩あるサフィーヌの子なれば、いい近衛女中をつけてやりたいし、宮廷闘争からも遠ざけてやりたい。

「何を憂鬱な顔をしておるか、エル。いいからぬしも来い、一緒に猪鍋じゃ。宴じゃぞ?」

「あ、いや、お伊那さん! そうそう気軽に後宮に人を入れるのは……また僕が色々とですね」

 天帝以外は男子禁制……後宮の常識も、伊那にはぴんとこないようだ。

 それでもエルフォンソが誘いを断ると、彼女は少し残念そうに口を尖らせ、

「……あの小娘も今頃、火ノ本で猪なんぞ食ろうておろうかのう」

 ふと、先程のサフィーヌの視線を追って、伊那も東の彼方へ目を細めた。

 自分と同じく、異国に追放同然になったルベリアのことを、少しは想ってくれているのだろうか? それはエルフォンソには解らないが、伊那はどこか懐かしげな眼差しを振り払った。

「では、わしらだけで馳走になるかの! サフィーヌ殿、参ろうぞ」

 伊那が再び、軽々と猪の巨躯を担ぎ上げる。そうしてエルフォンソに背を向け、意気揚々と歩き出した。その背を追うよう、迅雷がサフィーヌに鼻先を擦りつけている。猛獣を慣れた様子であやしながら、サフィーヌが伊那に続いたその時。

「エル! 剣はどうじゃ? わしも暇を持て余してるゆえ、今度わしを訪ねて参れ」

 朗らかな笑みで、伊那が振り返った。

「いや、だから。気軽に入っちゃ駄目なんですってば」

 だが、確実にその名目は、目の前の獣人の姫君が作ってくれるだろう。それこそ、再び面と向かって文句を言わねばならない理由を。

「ふむ、まあプリミがおるしの。よいかエル! 力を欲する、その目的を忘れるでないぞ。忘れれば、わしのような戦狂いにもなろうし、その目的が歪んでおれば……あの小娘のようにもなろう」

「それは……解ってます。しかとこの身に、この胸に。あの時、深く刻みましたから」

 そう、伊那がエルフォンソのためにと剣を振り、エルフォンソの剣となってくれたあの日に。

「うむっ、よい面ぞ。まあ、力求めども足らぬ時は申せ。少しなら貸してやるでの」

 それだけ言ってにこりと笑う、その真っ白な笑みにエルフォンソの杞憂は漂白されていった。

 後宮へと戻る二人を見送り、再びエルフォンソは剣を構える。

 ただ、誰も泣かぬ明日を見据えて。誰もが欲する力を、自分の正しいと信じる方向へと振るうために。そうして、力が全てのこの世へと、己を持って是非を問うために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紅蓮白狐譚 ながやん @nagamono

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ