第8話 距離感と短髪と②

 竜。

 誰でも知っているおとぎ話の中の存在。小さい頃に聞かされたことがある。

 ぼくが生まれるずっと前、母さんがまだ子どものころ一匹のそれはそれは大きな竜が現れたことがあるらしい。夏の空よりも濃い青の鱗を持った彼は、もうすぐ冬になろうかという季節に突然現れたらしい。

 この国で起こったことではないから、母さんも実際には見ていないらしいけれどその時は大変な騒ぎになったそうだ。

 何人もの勇敢な若者が命を散らし、幾人もの戦上手と呼ばれた熟練たちがその身を捧げ三日三晩ずっと戦い続けたらしい。そして戦いは四日目の空が白み始めた頃に竜が飽きたかのように大きな雄たけびをあげ、どこかに飛んで行ったところでようやく終わったらしい。

 その時は街が一つと、村が三つばかり地図から消えたそうだ。


 そんな恐怖の代名詞とも言える存在がこの近くに現れたという報告のはずなのに、ノルマンさんはやけに真剣みのない口調で、まるで今朝食べたものを思い出したかのような口調でそう言った。


「ノルマンさん、それほんとなんですか」


 おそらくそう聞いたぼくの声の方がよっぽど鬼気迫ったものであり、恐怖を滲ませたものであったように思う。人から人へと語り継がれる恐ろしい存在。そんなものがこの村にもし来たとしたら。そんな風に考えるだけで身震いが止まらない。


「ああ、怖がらせちまったか」


 ぼくの少し震えてしまった声を聞いてノルマンさんは申し訳なさそうに頭をかいた。


「いやなにそう心配することではないさ。おそらくうちのやつの見間違いだろうからな」

「というと?」


 ああ、と机の上に両腕を机の上にのせノルマンさんは語り始めた。組まれた指はどれもごつごつとしていて逞しい。


「見回りに行っていた連中が見つけたらしいんだがな、ほら定期的に森の方を巡回してるあれだ」


 唯一山に囲まれていない村の南側に位置するレムカの森。そこには数多くのいわゆる魔物というやつが住んでいる。とは言ってもレムカに住む魔物は比較的大人しい性格をしているものたちが多い。

 たいていは長年生きてきた老木が意思を持つようになった樹人トレントや川のほとりに根を張って生活している木霊ドライアドたちが大半だ。

 彼らは普段、他の猪や野兎といったような普通の動物たちと穏やかに過ごしており、時には道に迷った人たちに道を教えてくれたりもする。時々いたずらをしてくることもあるがそれはご愛敬というものだろう。

 しかしたまにどこからか紛れ込んだか、主が成ったのかは分からないが凶暴な魔物が出ることがある。大きな牙を持った牙猪ファング・ボアならまだしも、大きな体とその巨体に見合っただけの膂力をもつ凶暴な赤熊レッド・ベアが村まで入り込もうものなら、たちまち大混乱になるだろう。

 そういった事態がないように衛士たちは定期的に森を巡回し、凶暴な魔物たちが村に入ってくるのを瀬戸際で食い止めてくれているのだ。


「まあ、そん時に真っ黒な鱗のついた長い尻尾が動いているのを見たらしいんだ。と言っても見たのは尻尾だけで、すぐさま追いかけたが正確な姿は見れなかったらしい。森の中の狭い木々の間を抜けれるくらいだからな。そう大きくはないだろう。竜なんかじゃなく、せいぜい岩蜥蜴ロック・リザード翼竜ワイバーン程度だろう。それくらいならなんとかなる」


 そう淡々と述べるノルマンさんからを見ているとさっきまであった不安が和らぎ、いつの間にか出ていたらしい手汗も徐々に収まっていくのがわかった。

 ここの警備隊長を任される前は王都で若い衛士の指南役をしていたほどの人物だ。今までの経験に裏打ちされたたしかな自信があるのだろう。他の衛士たちもそんなノルマンさんの元で日々を過ごしているのだ。彼らも伊達ではない腕を持っているはずだ。


「隊長、翼竜を程度って言えるなんてすごいっすね。自分はまだ岩蜥蜴でも苦戦しますよ」

「まあな。そこは経験の差だろう」


 まだここに配属されてからそれほど立っていないナオトにとってはたしかにそうなのだろう。もちろん宿屋で料理を作っているだけのぼくに比べれば十分過ぎるほどに腕は立つのだろうが、それでもノルマンさんの足元にも及ばないだろう。


 数年前にこの村に全長数十メートルはあろうかという大蛇サーペントが入り込んだことがある。偶然ぼくは学校帰りに衛士が大蛇と戦っているのを見たのだが、並みの衛士たちはその巨体から繰り出される攻撃に近づくことすら出来ていなかった。

 しかしノルマンさんが来てから、ものの数分で大蛇は討伐された。ノルマンさんは大蛇の尾を左手に持った盾で悠々と受け止めていた。この人がいればこの村は大丈夫だ。そう思った記憶がある。


「さて、俺らはそろそろお暇するとしようか。こいつに稽古もつけてやらなければならないらしいしな」


 露骨に嫌な顔をしているナオトをノルマンさんは無理やり立たせ、帰る支度をし始める。

 もう時計の短針は真上を離れ、そろそろ1に差し掛かろうとしていた。

 雨のせいか元々少なかったお客さんもほとんど店内にはおらず、皆午後からの仕事に備え帰ったようだ。

 がらんとした店内には雨が不器用なステップを踏む音と、時折聞こえる鳶や鶯の鳴き声が聞こえてくるだけだった。

 奥からは母さんが食器を洗う音が聞こえてくる。もう今日はこれで店じまいだろう。


 会計をすましているとノルマンさんが念をおすように声をかけてきた。

「分かっていると思うが、くれぐれも森には入るなよ。竜でなくとも普段は見かけないような危険なやつがいることは確かだ。明日にでも村の中央にでも忠告を出しておくが、一応客が来たら注意を促しておいてくれ」

「はい。わかりました」


 ではな、とノルマンさんがドアの取っ手を握りしめ雨が降りしきる外へと歩きだしていく。ドアを押し開けるその手は筋肉が浮き出ていて、日ごろの鍛錬の成果が手に取るように分かった。

 雨の中でも衛士たちは村の入口や国境、それに街道に立ちぼくらを守ってくれているのだろう。

 こちらに手を振っているナオトを見て思う。

 この宿の食堂が平和な日々を守ってくれている人たちの身体と心を休められる場所になればいいな。


 目を閉じて空から落ちてくる雨の音を聞く。

 その中にナオトの嫌がる声が聞こえてきた気がした。

 やっぱりなぜだか彼の声を聞いていると心が軽くなる。

 思わずこぼれた自分の笑い声を聞いてそう思った。

 さて、後片付けをしなくては。


「母さん、ぼくは机を拭いておくね」


 濡れたタオルを調理場から持っていき、机にこぼれた汚れを拭きとる。

 そんなぼくを柔らかく雨の音が包んでいた。




 久しぶりに晴れた午後。仕事が終わってから外に出てみる。昨日まで三日間ほど続いていたどんよりとした雲ははるか遠くにいってしまったらしい。春らしくどこまでも澄み切った空がずっと広がっている。

 そう言えばたしか雨の後に空がまるで透明に見えるのは雨が空気中のごみを払い落としてくれるからだっけ。

 そんなことをふと思う。

 ごみが落とされたはずなのにアネモネの咲く丘から見える景色は美しくきらめいていて、光にあふれていた。息を吸い込むとまだ雨の優しい匂いが残っている。

 少し早めに起きてきた蛙は小川の隅で声を調整している。

 雨の日も嫌いじゃないけど、雨の次の日の方が好きだ。

 全ての色が薄く透き通って見える。


「あら。久しぶりね」


 アネモネの匂いに紛れて、すうっと漂ってきた絹の声にぼくは振り向く。

 瞬間景色がより輝きを増した気がする。


「お久しぶりです。ミズノさん」


 白いワンピースを着た彼女がそこに立っていた。


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