第7話 距離感と短髪と

「店員さん! これなんて料理? めちゃくちゃ旨い!」


 ぼくが目の前にやってくるなり待ちきれないと言わんばかりに青年が口を開いた。

 手に持つ銀色のフォークからはトマトソースが絡んだ麺がぷらんとだらしなさそうに垂れている。


「それはトマトソーススパゲッティと言います。小麦粉を卵で練った麺を湯がいて、トマトと和えたものです」


「へえーー。俺こんな料理初めて食べたよ! 」


 休日に少し高いお店に連れてこられた子供のように目を輝かせている青年を見ると思わず頬が緩んでしまう。

 こうして見ていると本当に子どものように見えてしまう。おそらくまだ支給されたばかりなのであろう。街道を守る衛士が身に着ける白地の制服がまだ輝いている。

 旨い、旨いしか言わない部下を見かねてかノルマン隊長が声をかけてきた。


「すまんな、トーリ。こんな無作法なやつで。なにぶん田舎の貧乏の出らしくてな。あまり凝った料理は食べたことがなかったらしいのだ」


「いえいえ。これほど喜んでもらえているのならそれ以上にうれしいことはありませんよ」


 特にこの料理はぼくが母さんに提案して、試行錯誤してようやく店に出すことを許してもらった料理なのだ。実際に作っているのは母さんだとは言え、味付けなどはぼくが工夫して母さんに認めてもらったものだ。それを褒められて嬉しくないはずがない。


「最近ここに赴任されたんですか? 」


 ぼくはノルマン隊長に尋ねたつもりだったのだけれど、青年は自分が聞かれていると思ったようだ。頬張っていたスパゲッティを一気に飲み込む。真っ赤なトマトソースが彼の口元ではねて、白い衛士服に真新しい汚れを作る。


「そそ。つい先週ここにきたばっかりなんだ。先輩たちが旨い飯屋があるって言っててずっと気になってたんだよね。だからようやくここに来れてほんとにうれしいんだよね」


 衛士たちはよくここを訪れてくれる。

 一気に来てはこちらの迷惑になると思ってか日に数人程度だが彼らの顔と名前を覚えるくらいの頻度でよく来てくれる。ノルマン隊長をはじめ、よく朝食を食べに来てくれるまだにきびが残る若い衛士のように週に何度も訪れてくれる人たちもいる。


「この時期に赴任されるとはすこし珍しいですね。たいていはクフトル山脈が真っ白になるころ、ちょうど年の変わり目あたりに新しい方が来られるのに」


 ノルマン隊長が凛々しく蓄えた髭を一撫でしてから話し始める。


「ああ、そうだな。トーリはルノーを覚えてるか。ほら、あのにきび跡を気にしてた若い奴だ」


「はい。もちろん。よくここにいらしてましたから」


 ルノーは朝は日の当たる席で仕事前にゆっくりと砂糖を二つ入れたコーヒーを飲み、昼は先輩に連れられてよくここへ来ていた。

 ようやく仕事に慣れてきたんだ、でもまだまだ先輩たちにはひよっこだって言われるけどね。

 そう楽しそうにはにかんだ彼の顔をよく覚えている。


「あいつがな、親元へ帰ったんだ。親御さんが身体を壊されたようでな。女手一つで育ててもらったらしくてな。一人にはしておけないんですと涙してたよ」


「そうですか。それは少しさみしいですね」


 ああ、まったくだ。

 ノルマン隊長が低く落ち着いた声でそう漏らしたのをぼくの耳は捉えた。

 まだまだひよっこだがいいやつだ。そうノルマン隊長がこの店でぽつりと幸せそうに呟いたのをぼくは覚えている。

 ぼく自身もルノーとは年が近く、敬語を使わずいろんなことを話せる仲だったので思うところはある。

 そういえば母親は身体が元から弱い人だったとルノーが言っていたのを思い出す。

 仕方がないとは思うもののどうしても深い青色が、澄んだ水の中に一滴だけ落とされた絵の具のように広がっていくのを抑えることはできない。

 そうか。ルノーとはもう会えないのか。


「まあ、そんな訳でルノーの代わりに入ったのがこいつってことだ。よろしくしてやってくれや」


 はい、とぼくは意識して口角を上げる。


 辺境の小さな村とはいえここは国境。隣国のオークランド公国とは友好関係を保っているので緊張感が辺り中にまき散らされているということはないがそれでも不法入国者が多いのもまた事実だ。

 他の町や村に比べれるとより多くの衛士が必要になる。

 この村がこうして今日も季節の移り変わりを楽しむ余裕があるのもひとえに彼らのおかげなのだ。


 また商人がこの国に入ってくる時にかかる通行税などを受け取るのも彼らの仕事の一つだ。戦闘目的ではなくどちらかというとそういった役人仕事といわれるような事務方の仕事をするためにここに来ている衛士もいる。

 平時でもここでは彼らは忙しそうに働きまわっている。

 そんなことは全く知らないかのように青年は食の喜びを享受している。本当に幸せそうな人だな。

 なんの暗い気持ちもなく素直にそう思う。


 今度はちゃんと彼に向けて話しかける。


「ではこれからよろしくお願いしますね。ええと、お名前は...」


 青年はトマトソースで赤く汚れた口元を机の傍らにおいてあった紙ナプキンで拭うとこちらに向き直って明るい声を出した。


「ナオト。ナオト=クレールだ。よろしくな。えとトーリでよかったか? 」


「はい。よろしくお願いします。ナオトさん」


 あと、と突然ナオトは人差し指をぼくに向けた。


「俺らたぶん同年代だろ? 俺が客だから丁寧に敬語にしてくれてるんだろうけどそういう堅苦しいのは苦手なんだ。敬語抜きで話してほしい」


 ああ。この距離の詰め方はやっぱりどこかで見たことがある気がする。

 思い出せないけれどこんなことが前にもあったことがある気がする。

 昨日ミズノさんと出会ったときにも、たしかこんな気持ちが胸の奥の方から湧き上がっていた気がする。

 気のせいかもしれないほどかすかで、たぶん気づかないほど細い糸だ。

 でもぼくの中のなにかがそれは気のせいではないと訴えている。

 屋根を叩く雨音を切り裂いて鳶の甲高い声が聞こえてくる。

 それはぼくの考えを肯定しているように聞こえた。


「そう、だね。そうさせてもらうよ。ナオト」


 よし、と本当にこどもっぽく笑うナオト。

 短い金髪が一瞬だけ黒く見えた気がした。

 あまり初対面の人と話すのが得意ではないのに気付いた時には自分の懐に潜り込まれている。

 そんなこの感じをぼくはやっぱり知っている。

 強引そうなのに決して不快ではない。

 人に馴染むのが彼はたぶんとても早いのだろう。

 ノルマン隊長がぼくらを見つめるその目線が穏やかなのを見てそう思う。

 ナオトはまだここに赴任して一週間ほどだというのに衛士たちにすっかり溶け込んでいるのだろう。

 その姿がやけに鮮明に浮かんだ。


 藤の甘い香りがする。

 それは昨日と同じようで、けれど今日は頭が痛くなることも突然言葉が口から零れ落ちることもなかった。

 不思議だ。最近この匂いをよく嗅ぐ気がする。

 この村には藤など生えてはいないのにどうしてこんなに鼻になじんでいるのだろう。

 あまり親しくないはずのその香りはおもむろにぼくの心を落ち着かせる。

 まるで何年もそばにあった香りのようにぼくを優しく包んでくる。


 いつのまにかぼくにのしかかっていた憂鬱な気持ちがなくなっていることに気づく。

 藤の花のおかげか、それとも彼のおかげか。

 どちらにせよこれでいくらか今日が楽になる。


 とっくに自分はカルボナーラを食べ終え、心底幸せそうな表情をする部下を眺めていたノルマン隊長が思い出したように口を開いた。


「ああ、そういえば最近ここいらで竜が目撃されたらしい」

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