第4章 ダンデライオン、命燃え尽きるまで。
第4-1話 窃盗犯が刑事と出会い、更生するまでを描く、ヒューマンドラマ。
《第5章 ダンデライオン、命燃え尽きるまで》
庭のヒマワリが朝露を受け、朝日の中でキラキラと輝いた。
薄く差し込む太陽の光。
もやがかかったような、どこかノスタルジックを想わせる情景。
そう。あの日もこんな雨上がりの霧立つ朝だった。
真司との出会い。それは6年前に遡る。
原田真司。まだ彼は当時16歳だった。高橋刑事は海老名署でスリ、万引きを専門に扱う刑事の職についていて、その日は非番だった。夜勤明けなこともあって、朝からオープンしている餃子チェーン店で半ちゃんラーメンを食べていた。
妻からおみやげを頼まれていた高橋刑事は、餃子を2皿と3皿別々に詰めてもらっていた。
2皿は自分が食べる分で、もう3皿は妻の真由美、子供の分だった。
財布を取り出そうと左ポケットに手を入れたとき、すられていることに気が付いた。
自分がテーブルに座ってから、まだ10分も経っていない。
誰も店から出ていないので、犯人はこの中にいる。そう確信した。
高橋刑事は、店に入ってから、今までの動線を思い浮かべた。
店に入ろうとしたとき、あとから来た老人と店の入り口でぶつかった。
そこで財布を落とし、左ポケットにしまった。
老人はラーメンと餃子を注文し、何食わぬ顔で椅子に腰掛けた。
高橋刑事は、真っ先にこの老人を疑ってかかった。
しかし証拠がない。
老人の前にラーメンと餃子が運ばれ、老人は割り箸を2つに割った。
こうして注意深く見ると、誰も彼もすべてが怪しく見えた。
しかし高橋刑事のそばを通ったのは、ごくわずかな限られた者たちだけだ。
高橋刑事は老人の隣に席を移し、老人に話しかけた。
70くらいの少し腰の曲がった老人は、ラーメンを食べる手を休めず、高橋刑事の世間話の相手になった。
どうも違うようだ。本能的に悟った。
刑事の勘で。高橋はその場から離れた。
高橋刑事は店長を呼び、事情を話した。
自分が警察官であること。そしてこの中にスリの犯人がいること。
現行犯で今なら捕まえられること。同意を得て、持ち物検査をさせてもらうことにした。店長は協力的で、客に事情を説明し始めた。
持ち物検査に反対する若者もいた。
「失礼じゃないですか? 人を犯人扱いして」
持ち物検査に応じない若者は、もし犯人が特定できなかった場合、署までご同行いただくつもりでいた。
持ち物検査に応じてもらった人から順に、目視をした。
体をさわり、持ち物を検査した。
老人が一番始めに持ち物検査を受け、何も怪しいことがないことが確認された。
もしも持ち物検査をして、何も出てこなかったら、それはそれで大変なことになる。
場合によっては減給。
懲戒処分の対象にもなりかねない。
でも高橋も刑事の端くれだ。
自分の判断に狂いはないという自信があった。
どちらにせよ、さっきまで財布はあったのだ。老人とぶつかり財布を地面に落とす前まで、財布は高橋刑事の左ポケットにあった。持ち物検査が3人行われ、その最中、トイレに立とうとした若者が呼び止められた。
その男が原田真司、16歳だった。
男は時間がないので今すぐ帰りたいと申し出た。
高橋は仕方なく、奥の手を使った。
「その場を動かないでください。あと数分で終わります」
トイレに行こうとした原田を呼び止め、その場に静止させた。
実を言うと、小銭入れには小型の発信器が仕込まれていた。
持ち物検査をしながら雑談を交わしている間中、高橋刑事は客、一人一人の目の使い方、表情を確認していた。
そして原田だけがどこか違和感を漂わせ、刑事の第6感を刺激した。
原田真司はそれはもう堂々としていて、けれど、その堂々とした振る舞いが、なぜか高橋の嗅覚に訴えた。
携帯から電波を送った。すると数秒おいて、財布が反応した。
誰も座っていないテーブル。その椅子の上から、白雪姫のメロディーが流れた。
警察官が財布をすられる、そんな間抜けはあってはならない。ありえないことだった。
隣町、厚木市の犯罪者リスト。スリの常習者の欄に、原田真司の顔は既にファイリングされていて、高橋刑事も彼の存在を知っていた。
スリ。万引き。置き引き。
要するに窃盗の常習者。
原田は厚木市では少しは名の知れた男だった。
巾着切りの真司。裏なりの真司。
その噂は隣町の海老名市にも届き、海老名署でも有名な男としてしばしば話題にのぼった。
原田は幼少期に家庭の事情で両親と離れ、15までは施設で育った。
高校には進学せず、地元の工場で働くものの、どれも長続きしなかった。
「さっきまでどこに座っていましたか?」
刑事は問いただした。原田が指さした場所は、案の定、財布が見つかった場所だった。
中身は抜き取られる前で、犯人が窃盗をあきらめたことを物語っていた。
「君、ちょっと署まで来てもらおうか?」
高橋は自分の小銭入れをガーゼで包み、持っていたビニール袋にしまった。
原田は従った。
移動には高橋の自家用車が使われ、署に着くとすぐに原田は取調室に通された。
「原田君。君がやったのか?」
開口一番、高橋が言った。
どうしてオレの名を。原田は刑事が自分の名前を知っていることに驚きを隠せずにいた。
高橋刑事は、原田にお茶をすすめた。よく温まった、しぶくて甘いお茶だった。
「どうして財布を盗んだの?」
誘導尋問にひっかかった原田は、
「お金に困っていたんです。父親が病気で」
と嘘を言った。
「君に父親はいないはずだよ」
「えっ」
原田は少し驚き、
「義理の父親のことです」
と嘘に嘘を重ねた。
高橋はあえてそれには触れずに、中学時代、原田がどのようにして学校生活を過ごしたか、そのことについて尋ねた。原田はとつとつと語った。
友人もできず、いつも教室の隅でひとりぼっちだったこと。
授業もろくにでず、保健室で待機児童として過ごしたこと。
いじめられて育ったことを原田は悲しい目で高橋に訴えた。
学校に行っても、うわばきは隠され、ジャージは落書きされ、とても安心して授業が受けられる環境になかった。
当然、授業にもついていけなかった。
学校にも行かなくなり、万引きで補導されるようになり……。
誰にも心を許すことはできなかったし、先生もあてにならないことを肌身で感じた。
「君の気持ちはよくわかる。でもしてはいけないことはいけないんだよ。わかるだろ」
原田は、たとえ殺人を犯して世間を騒がせることになったとしても、そんなことは自分にとって小さな問題だと思っていた。
自分はどうしたらいいのか。何をしたいのか。
自分でもよくわからなくなっていた。
気付いたら他人さまの懐に手を入れ、財布を盗んでいるのだから始末が悪い。
罪の意識も、罪悪感も、全く感じなかった。
悪いのはオレじゃない。社会だ。これは社会に対する復讐なんだ。
このままいったら、オレは見ず知らずの第3者を包丁でひと刺ししてしまうかもしれない。無差別殺人事件や通り魔事件をどこか心の隅で崇拝している自分を自分でも少し恐いと思った。
オレにとって大事なのは今を生きることなんかじゃない。
オレをさんざん無視してきた奴らに、自分の存在を知らしめることなんだ。
世間をあっと言わせることなんだ。
原田の野望は、どす黒い渦となって、腹の底で煮えたぎっていた。
それを知ってか知らずか。高橋刑事は今回の件を事件化することなく原田を釈放した。そして後日、原田を自宅に誘った。
北風と太陽。
高橋刑事は、原田に今一番効果があるのは、北風ではなく太陽だということに気が付いていた。だから見ず知らずの原田を自宅に誘った。当時16歳だった原田少年は誘われるがままに、高橋刑事の家へと導かれていった。
そして高橋刑事の妻の手料理に、舌鼓を打った。
手作りのハンバーグなんて2年ぶりだ。そう言って、原田はあどけない笑顔を振りまいた。
ひじきの煮付け。じゃがいもの煮っ転がし。ビーフシチュー。ポテトサラダ。
どれもお袋の味がして、原田は泣けてきた。
こうして家族ぐるみの付き合いが始まり、原田は高橋刑事の妻、真由美をお母さんといって慕うようになった。
「もう巾着切りなんかしちゃ駄目よ」
「はい」
原田は一瞬、更生したかのように見えた。
でもそれは一時期的なものでしかなかった。
原田との連絡が途絶え、2年が過ぎた、ある朝。原田が泣きながら高橋の携帯に電話をかけてきた。
聞けば、ヤクザの財布に手を出してしまい、迷惑料を300万請求されている上に、エンコ切り(小指を詰めること)を強要されているとのことだった。原田は袋だたきに遭い、全身打撲で2週間の怪我を負った。
「相手は誰や?」
高橋刑事が尋ねた。
「亀頭組です」
原田が電話口で答えた。
「そうか。心配するな。あとはこのオレにまかせておけ」
高橋刑事は署をあとにした。
《2話へ続く…ここで終わりではありません》
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