第37話 近くにいるからこそ

 夏実と優子が互いに向かい合って座る。夏実の胸に心地よい緊張が走る。この緊張は、身体がこれから起こる出来事に、力を出せるように準備してくれていると、そう相手に教わった。


 わくわくする。練習で幾度となく対局した間柄だが、公式な形での対局はいつもと違った緊張感がある。


 全ての席で対局の準備が整ったようで、教師の合図と共に対局が始められる。


「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」


 周囲の声と同時に、夏実と優子も挨拶をする。


 先手を取ったのは優子、右上スミ小目に初手を打つ。バランスの取れた優等生らしい一手だった。夏実も応じて、序盤の布石を打っていく。


 ここまでの流れは、練習でも何度も繰り返されている展開だ。


 勝負を分けるのは、ここから先の複雑な局面に差し掛かった時になるだろう。


 互いにそれまでには打たなかったような新手を繰り出すのか、それとも自分が得意な形へとゲームを持ち込んでいくのか、主導権をどちらが握るかの駆け引きになりそうだった。


 最初に仕掛けたのは優子だった。普段打っている手から、わずかに一マス分だけ深く踏み込んだ一手が打たれる。


 囲碁を知らない人から見ると、石が置かれる位置が一マス違うだけで、たいして変わらないように見えるが、実際にはそのわずか一つの違いが、その石が生きるか死ぬか、ゲームの勝敗をも左右しかねないほどの違いになることが往々にしてある。


 しかもその石だけではなく、置かれている石には全て盤上で繋がって、関連性がある。


 一つ石が置かれるたびに、それまでに置かれていた全ての石が、その価値を変化させて世界が一新される。


 チェスや将棋など、似たようなルールのゲームが多い中で、囲碁は一番コンピューターが解析するのが難しい複雑なゲームだと言われている。


 それは、石が置かれる場所の多いという理由と、囲碁の広大な盤面が目まぐるしく景色を変えるという、こうした性質が関係しているのかもしれない。


 その複雑さは、たとえトッププロであっても全ての手を読み切れないと言わしめるほどだ。


 横にある対局時計が、刻一刻と自分の持ち時間を減らしていく中、夏実は必死に優子がいつもと違う手を打ってきた意図を考えていた。


 相手が普段とは違う意図を持って手を打ってきた。それにどう応じるべきか。いつもと同じようにこちらも前に出て、積極的に戦うべきか、それとも——。


 夏実は次の手を打つ。それは普段なら優子が打っているような、攻めてきた相手に対して手堅く守り、自分の陣地をしっかりと確保した上で守り勝つような手だった。


 普段であれば、夏実が攻めかかって、優子が陣地を守っていることが多いのに、今回は立場が逆転している、と夏実は思うと、何だかおかしくなって笑みがこぼれる。顔を上げてみると、優子も同じように笑っていた。


 いつもと違う自分と相手がそこにいた。相手の良い所を模倣し、自分の悪いところを責め立てる。


 他人に成り代わって、自分自身と戦っているような不思議な感覚だった。




 対局は変わった展開を見せながらも、中盤戦へと突入する。


 勝負の展開は五分に近いものだったが、普段と勝手が違うために、どうにもやり辛さを夏実は感じていた。


 相手の誘いにうまく乗っかってしまったのではないか、と不安になる。


 打ち進めていくと、思わず普段の手拍子で守るべき所で、相手を攻め立てる手を打ってしまう。普段の優子の立場なら、打たないような手だった。


 しまった、と夏実は思う。守るべきところでは守り、攻めるべき形では攻める。


 どっちつかずになりそうな、良くない形にしてしまったと、置かれた石を見て反省する。


 夏実のこの手に、優子が厳しく攻めかかってくる。


 普段の優子からはあまり考えられないような、積極的な一打だ。


 うまく守ることができる人間こそが、攻撃をする際にあたって、もっともうまく攻撃できるという話がある。


 どこを攻められれば弱いのか、それを一番知っているのは守る側なので、逆に攻める側に回った時は、的確に相手の弱点を突くことが出来ると。


 誰よりも優しくて、引っ込み思案な自分を気にしていた優子が、こんなにも積極的に打ち進んで来る。その事実に、夏実は嬉しさを覚えた。


 あたしたちは切磋琢磨して、成長している。だから自分も、以前とは違うところを優子ちゃんに見せなくてはいけない、そう夏実は思う。


 このまま守っていたのでは、石の生きる道はない。夏実は残された道がないか、ありとあらゆる可能性を検討する。






 勝てる、優子はそう確信する。いつもは守りに入り、相手からの手を待っていることが多いが、今回はあえてそうしなかった。


 夏実ちゃんの強さは、普段の対局でよく知っている。いつものように大人しく打っていたのでは、勝てる可能性は低い。


 だからこそ、何か策を用意する必要があった。


 普段から攻めるのに慣れている人が、必ずしも守りに慣れているわけではない。互いのスタイルをひっくり返したような戦いは、こちらに有利をもたらした。


 夏実がじっと盤面を睨みつけ、考え込むのが見る。


優子は気を引き締める。勝っているからといって、必ずしもそのまま有利なわけではないのが、勝負の恐ろしさだ。


 負けている方は後がないため、必死に色んな手を打ってくる。それに対して勝っている側がは気を抜きやすく、何かミスをしてしまえば、勝敗は簡単に逆転する。

だから、勝っている方こそ慎重に気を抜かずに打つべきだ。優子は生来の慎重さでもって、相手の逆転の手を検討し、対処法をしっかりと練る。


 相手の石が生きる道はない、再度それを確認する。


 夏実が反撃の一手を打ってくる。その一手は、優子が想定していたものとは大きく違っていた。


 自分の石を守るための一手ではなく、一見失敗と思われた先ほどの手を活かして、相手の石を攻めたてて倒すことによって、自分の石を生かそうとする、一か八かの大胆な手。


 打ち過ぎて失敗したように思われた手を力に変えて、より先へ進んでいく夏実ちゃんらしい手だ、と優子は思う。


 やっぱり、私の想像を超えてきた。思えば、初めて会った時から驚かされてばかりだった。


 寄宿舎で一緒に暮らすようになって、自分のそれまでの生活も変わっていった。共に行動することが多くなり、その純粋さと真っすぐな心が、私に元気をくれた。

互いに影響を受けて、与えて、私の先を元気よく走っていく。そんな相手と共にいられることをうれしく思う。


 だから、出来る限りの手で最大限に応えたい。


 相手が攻めてくるなら、こちらも攻めかかる。決して不利な勝負ではなかった。

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