第26話 抱え込んでいるもの

 ニギリをして先手後手を決め、挨拶をして対局が始まる。


 先手を取ったのは沙也加。少し考えた後、初手を打つ。


 置かれた場所は5の五。盤面の外側から縦横五番目の線が交わる場所で、相手に簡単に角に入られてしまうため、普段打たれることはあまりない、変わった手だった。


 夏実は戸惑う。どうして、こんな手を打ってきたのだろうかと。考え込んでいると沙也加が口を開く。


「このぐらいのハンデは必要でしょう?」うっすらと笑みを浮かべながら告げる。


 自分とあなたは対等ではないと、この一手をもって指し示していた。


 それなら判断が間違っていたと思わせるぐらいに、良い勝負をしてやる。夏実は密かに闘志を燃やす。


 沙也加が打った5の五の内側、4の四、星の地点に石を打ち込む。相手の手に対して、すかさずやり返す、意趣返しのような挑戦的な一手。互いの意地がぶつかった。


 すでに試合が荒れそうな予感がただよう。




 挑発的な囲碁になった。どうにも尋常な心持ちではいられない、と沙也加は思う。まっすぐプロに向かうためにはいらないはずだと切り捨ててきた、楽しさとか、人並みな生活といったものが相手を通して、自分の胸を締め付ける。


 どうせなくなってしまうものなのに。学校はいずれ卒業するし、将来に向けて何かを持っていけるわけではない。それならば、最初から必要などない。


 そう思うことで、自分が感じている劣等感を払拭する。


 私はあんな風に、屈託なく笑うことはできない。学園生活を楽しむことなどできない、そんな思いが胸を締め付ける。


 自分のこれまでの生き方を肯定してくれるのが、囲碁だった。囲碁に夢中になることは、自分の居場所を作るために必要な条件だった。だから、信仰のように囲碁の強さを追い求め続けた。


 囲碁が強ければ正しい。そのシンプルさは、他人とうまく関わることができない自分の生活に、安心を与えてくれる。他人とうまくやり取りをすることが出来なかった。他人という複雑な生き物は、何を考えているのかがよく分からない。


 母親は気まぐれから、怒ったり褒めたり、判断基準が一貫しておらず、自分から何かをしてそれが嫌われる材料になるのが恐ろしかった。


 友達とたわいもない話をして笑いあったり、遊びに出かけたり、ふざけあったり。同級生がたわいもなく行っているそんな当たり前が、自分には出来なかった。暮らしている環境が違いすぎると、相互理解ができない。


 お金がなければ食事をしたり、カラオケに行ったりと周りが当然のようにやっていることが一緒にできない。


 心に負い目があれば、誰かが踏み込んだ話をしてきた時に、自分をさらけ出すことができない。嫌われるのではないかと臆病になり、その態度がさらに相手から嫌われる要因になる。


 余計な期待を抱いて裏切られるぐらいなら、最初から壁を築いて他人と自分は違うものだと、そう思っていた方がよい。


 自分と他人は違っていなくてはいけないのだ。いつしかその思い込みが自分を優しい嘘でごまかしてくれる。本当は自分には皆が持っているものを与えられていないだけだ、という事実には耐えられないから、目を逸らす。


 だから囲碁でも差をつけなくていけない。周囲と自分が同じ土俵に立っているというのは、耐えられなかった。


 幸いなことに囲碁の世界は競争主義で、お互いに協力して仲良く手を繋いでいくのではなく、互いに競い相手を敗北へと追いやる。


 今回の対局では、互いの違いを教え込まなくてはいけない。相手の石の存在を許さないように、徹底的に完膚なきまでに叩き潰す。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る