第10話

 自室の扉を開ける。古い造りの一間は暗く静まり冷たかった。

 靴を脱ぎ半歩進む。いつもの間取り。いつもの模様。いつもの安普請。なんな変わらぬ自室であるが、いるはずの、いてはいけない、いてほしい存在がそこにいなかった。


「アシュリー……」


 低く、消え入りそうな声で小さく呟くと、どこからともなく母の姿が目の前に現れ僕に笑みを向ける。二十年前に見た、忘れていた母の笑顔を僕は今見ている。


「話は繋がったよ……あんたは、分かってたのか?」


 その問いに「いいえ」と答え、母はそっと。僕の方へ近づく。


「私も、名前を見るまでは分かりませんでした。だって、まるで変わってしまっていたんだもの。それに二十年も経っていたなんて、思いもしなかった。通りで、雑誌を読んでも分からないわけよね」


 母は死後。ずっと部屋の前から動けなかったという。僕と同じく記憶を失った状態で幽霊となり、子供との思い出だけを抱いて満たされない心の穴を覗き続けていたのだ。


「お願い。中。お母さん。って呼んでください」


 僕の体を強く抱きしめ、そう呟く母の言葉は悲哀と親愛に満ちていた。哀しみと喜びが混じり合った複雑な想いは僕の感情に作用して自然と瞳を潤ませる。一粒を堪え、瞬きは辛うじて落涙を防ぐも雫はすでに眼球までくみ取られ澄んだ輝きを放っていた。


「駄目だよ……僕がそう言ったら、あんたは……!」


「中。私は、ずっと苦しかった……でも貴方に会えて、貴方と気付いて、私は今とても、とても幸せです。だけど、私はここにいてはいけないない。だから……」


 言葉を詰まらせる母を抱きしめ、僕はとうとう嗚咽と共に涙を落とした。声にならない叫びは部屋中に響き、それをあやすように、母が「大丈夫」と言葉をかける。

 僕は……もっと話したい……母と、お母さんともっと……もっと! 僕はずっと寂しかった! ババアに聞けば母は出て行ったと言ったきりで何も答えてくれない! 周りの家族を見て僕は! 泣くことも、甘えることもできなかった!


「中ちゃん。ごめんなさいね」


 中ちゃん。

 母は、いつも僕をそう呼んでくれていた。自らの慟哭で身体が震える。ずっと側にいてほしい。離れたくない。このまま二人で暮らしていたい。湧き上がる感情は止め処なく溢れ、ただただ己の身勝手を正当化していく。しかしどの想いも行き着く先は一つであった……


「おかあ……さん…………」


 瞬間に、腕にあった感覚が消える。暖かさも寒さも感じない空間。膝から崩れ泣くことしかできない。絶叫に近い悲鳴。腹の底から湧き上がる激情。狂気的な悲愴が胸に宿り、呼吸と共に肥大していくような感覚。僕は立ち上がり、そのまま外に出て走った。当ても目的もなく、息が続く限りに脚を上げひたすらどこかへ向かう。夜の闇が包む街には街灯の光ががポツリと浮かび、走り抜ければ残影となって線を描く。


 気が付けば海辺の緑地にいた。海を埋め立てて作られた公園で、昼間はちらほらと人が見えるが今は僕一人であった。息絶え絶え。肩は忙しなく上下に動き、吐き気と頭痛と発汗が激しい。僕はそのままよろよろとおぼつかない足取りで小さな丘に上がって、名は知らないがひときわ大きい樹木に背を預けた。波の音が近くに聞こえる。港町に住んでいるくせに潮の香りが懐かしく感じるのは妙だなと思った。


 暗闇の中。海の音を聞きながら虚空を見つめ暫く。空は薄く色を帯び始め雲は輪郭を浮き彫りにする。風が流れれば鳥が歌い、鳥が歌えば木々が喜ぶ。空気が澄み、夏の暑さが忘れられる一時。そしてゆっくりと光を射し始める太陽。改めて見てみれば海が眼下に広がっている。天から伸びる光線を映した海面は厳かで壮大。立ち上がり、海に近づく。旭日昇天に圧倒されながら、引き込まれるように陸との境界線である木製のフェンスまで到達し、身を乗り出して世界の始まりをじっと覗く。


 心臓の鼓動が分かる。息をしているのが分かる。血液の流れが分かる。身体が温かいのが分かる。

 生きている事が、僕が生きている事が分かる。命がある事が!


「ありがとう……おかあさん……」


 意図せず漏れる言葉。何に対する感謝なのか自分でも分からない。しかし、言わずにはいられなかった。いつの間にか太陽は高く上がり一日を創造している。


 涙が溢れた。

 


 生きていて良かったと初めて思えた。

 母に出会えてよかった。母と話せてよかった。そして、母が成仏できて、よかった。

 

「兄さん。なんかあったか?」


 突如初老の男性が声を掛けてきた。気が付けば、疎らだが人の姿が確認できる。僕は「いいえ」とかぶりを振って答えた。


「生きているって、良いですね」

 




 母と別れ数週間。僕は会社を辞めばばあの家へ引っ越した。といっても悠々自適で晴耕雨読な無職生活を送る為ではない。僕は自らNPO法人を立ち上げ、その拠点にばばあの家を利用する事にしたのだ。


 社会に馴染めない人間の教育。


 建前としては立派なものだが、早い話が社会的不適合者が自立できるまで面倒を見る共同宿舎である。補助金が出るかどうか微妙なところであったが、ブタ箱にいる協力者の助言によってなんとか市から許可を得る事ができたのである。


「ふぅ」とため息をつき部屋の整理を一区切り。綺麗に片付いてはいるが、使わない者を処分するのに時間がかかる。茶を飲み一服、窓から入る風に当たりながら暇をしていると電話が鳴り響く。なんだと思い受話器を上げると、よく知る声が耳に伝わった。


「あんた、最後の最後までおばあちゃんって呼ばなかったね」


「ばばあ……」


「まったく呆れ果てたよ。死んだ後もばばあ呼ばわりとはね。しばらく顔も見たくないからこっちに来るんじゃないよ」


 そう言って一方的に電話は切れてしまった。なんだ。死んでも元気そうじゃないか。

 受話器を置きふらふらと戻ると、部屋の真ん中には先ほどにはなかったアルバムが無造作に置いてあった。訝しみながら中を観てみると、そこには母親やばばあと一緒に写る、幼少期の僕の姿が映った写真があった。そして端に書かれる、おそらく母親が書いたであろうコメント。





[中ちゃん。ご飯全部食べられました]


[おばあちゃんの家にお泊まり。スイカ美味しかったね]


[中ちゃんももう五歳。早く、一緒に住めるようになりたいな]





「おかあさん……」



 涙は流さない。僕はもう、そう決めた。

 夏の過ぎゆく昼下がりはまだまだ熱を残しているが、少しずつ、四季が廻り行くのが感じられる。命が燃え、果てる前。輝き光る命は今香り、艶やかに揺らめいめいた。

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