[2] 第2次ハリコフ攻防戦(後)

 ハリコフ前面の防衛線はどうにか維持されていたが、南方軍集団司令官ボック元帥は気を緩めることは出来なかった。もし南西部正面軍が新たな機動兵力を投入してきた場合、戦局が一気に変わる可能性があったからだ。第6軍はすでに防衛線の保持に手一杯で、ソ連軍を挟撃するという「フリードリヒ」作戦の当初の方針は明らかに不可能だった。

 5月16日、ボックは南方軍集団参謀長ゾーデンシュテルン大将と協議した上で、攻撃開始日を1日早めて南翼のみで「フリードリヒ」作戦を開始することを決定した。この決定を受けて、第1装甲軍の第3装甲軍団、第17軍の2個軍団(第44・第52)は慌しく攻撃発起地点に集結した。

 5月17日午前4時、南方軍集団の砲撃が開始された。第1装甲軍の第3装甲軍団(マッケンゼン大将)が南部正面軍の第9軍(ハリトノフ少将)と第57軍(ポドラス中将)が構える突出部の南翼に襲いかかった。この戦区では十分な防御設備が構築されておらず、有刺鉄線が張られていたのは170キロもの前線のうち11キロほどで、陣地の縦深もわずか5キロほどにすぎなかった。

 30度を超える猛暑の中、「クライスト集団軍」は翌18日までにスラヴィヤンスクからイジュムに至るドネツ河の西岸地域を占領した。結果として幅80キロの大穴を南部正面軍の南翼に開けることに成功した。

 しかし、ソ連軍は未だ事態の重大さを認識していなかった。病身のシャポーシニコフに代わり、5月11日に参謀総長に就任したヴァシレフスキーはハリコフへの進撃中止を提言した。南西部正面軍司令官コステンコ中将は戦車部隊を前線に投入して、ハリコフ攻勢を継続するとしてこの提言に反対した。スターリンはコステンコの意見に同意した。

 5月17日、第38軍司令部は4日前に偵察部隊が捕獲したドイツ軍の機密書類を解読した。その内容は南方軍集団が南北から突出部を挟撃するという「フリードリヒ」作戦の詳細であった。報告を受けた第38軍司令官モスカレンコ少将は驚き、慌てて南西戦域軍司令部に通報した。

 敵の意図をようやく把握したティモシェンコはただちに全軍に対し、ハリコフ攻勢の中止と戦車部隊の移動を命令した。しかし危機を脱するにはもはや手遅れだった。

 5月22日、第3装甲軍団の先頭を進む第14装甲師団(キューン少将)はついにバラクレヤ東方でドネツ河に到達した。対岸には第51軍団(ザイドリッツ=クルツバッハ中将)が展開しており、ハリコフ南方の突出部に布陣する第6軍・第57軍は背後を断ち切られ、完全に包囲されてしまった。

 5月23日夕方、ティモシェンコは包囲された2個軍に対し、東方への脱出作戦を開始するよう命令した。現地司令官に任命されたコステンコは直ちに包囲部へと飛んだ。

 包囲された南西部正面軍の各部隊は同月25日以降、繰り返し敵戦線を圧迫し続けたが、包囲を脱出できたのは第23戦車軍団と一部の戦車部隊だけだった。多くの兵士が機銃掃討と対戦車砲の餌食となり、見通しの良い草原が死体と戦車の残骸で埋め尽くされた。

 5月28日、第2次ハリコフ攻防戦は終結した。この戦いでソ連軍は戦車652両、火砲4924門、兵員26万7000人を失った。犠牲者の中には南西部正面軍司令官コステンコ中将、第6軍司令官ゴロドニャンスキー中将、第57軍司令官ポドラス中将、機動集団司令官ボブキン少将といった高官も含まれていた。

 ティモシェンコが自信を持って提案したハリコフ攻撃作戦はソ連軍の作戦遂行能力がドイツ軍にはるかに及ばないという事実だけが浮き彫りにされた。防御時の縦深陣地の形成や戦車部隊の投入のタイミング、捕獲した情報の活用などの基本的な軍事行動において、ソ連軍はことごとく後手に回った。その結果に大きな犠牲を代償として払うこととなった。

 しかし、この戦いはあくまでも「青」作戦の序章に過ぎないのである。ドイツ軍がヴォルガ河に至るまで、ソ連軍は稚拙な作戦を繰り返したために、更なる犠牲を払い続けなければならなかったのである。

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