第12話 直平

 直親の火葬は終わった。しかし、その火葬の現場に直親の息子、虎松の姿はなかった。この時、虎松は数え年二歳。


 直親が殺された際、今川家から虎松も誅殺するように命令が下されていた。このときも駿府にいた新野左馬助にいのさまのすけが虎松の助命を嘆願し、許されている。


 しかし、いつ氏真の気が変わるともわからない。さらには井伊家には小野但馬守がいるのだ。今のうちに虎松の命を奪おうと画策する可能性もあった。


 そこで左馬助は瑠璃から虎松を預かり、引馬の浄土寺に匿った。浄土寺は新野左馬助の伯父が住職をしていた。虎松の身を隠すにはうってつけの場所だったのだろう。




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 直親が亡くなった井伊家は危機に陥っていた。井伊家本家の血筋で生き残った男子は井伊直平いいなおひら。次郎法師の曽祖父に当たる人物だ。


 すでに歳は七十四歳。この時代の七十四歳は現代の百歳にも相当するだろう。


 すでに体は悲鳴をあげていたが、



「虎松が成人するまでは」



 と言って家督を再び継ぐことになった。


 なおもう一人、井伊家本家では南渓和尚が相続権を持っていた。しかし、出家していることと、実は養子なのではないか、という噂があり、家督を継ぐことはなかった。




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 永禄六年(1563年)九月上旬、今川氏真が直平に出陣を命じてきた。出陣先は三河吉田。現在の愛知県豊橋市である。出陣の目的は氏真の父、今川義元の弔い合戦であった。



「今更馬鹿なことをする」



 と直平は思ったが、今川家に逆らっては何をされるかわからない。


 直平は虎松の成人まで飼い犬のようにおとなしくしていると決めていた。


 直平は出陣を受諾した。


 直平は今川氏真より遅れて出陣した。浜名湖の西岸を南下し、白須賀しらすかに野営した。


 この日、遠州灘からの風が強かった。



「嫌な風だな」



 直平は長年の勘からこの風に嫌なものを感じ取っていた。どうも風向きが良くない。もし火事が起きたら味方の部隊に大被害が出る風向きだ。


 直平はすぐに



「火に注意しろ」



 という下知をくだした。


 しかし、そのときにはすでに遅かった。


 夜営の準備をしていた直平の部隊から失火してしまったのだ。火はたちまち燃え広がり、今川軍に大きな被害をもたらした。


 氏真の側近はこれをただの失火と見なかった。氏真の猜疑心を操り、直平の謀反と疑わせたのだ。


 何しろ直親を謀殺したばかりだ。井伊家の恨みが強いこともわかっていた。


 氏真は狼狽した。前面には信長・家康軍。後方には直平がいたのだ。このままでは挟み撃ちにあってしまう。


 氏真はすぐさま陣をたたみ、朝比奈氏が守る掛川城まで後退した。


 直平はこの火災は失火であると説明したが、氏真はなかなか信用しようとしなかった。


 そこで氏真は直平に社山城やしろやまじょう、現在の静岡県磐田市いわたし、の天野左衛門尉あまのさえもんのじょうを攻めろ、と命令した。


 直平は



「今は耐えるとき」



 と言って氏真の命に従った。


 九月十八日、直平は進軍の際に立ち寄った引馬城で飯尾豊前守いいおぶぜんのかみの妻であるお田鶴たづの接待を受けた。


 お田鶴は一杯のお茶を出し、直平を接待した。直平は出されたお茶をぐいっと飲み干した。渇いた喉にしみるように流れていく。


 しばらく休息した後、直平は再び進軍させた。


 直平が馬に乗り、軍を進ませていると急に



「ぐっ」



 と胸が苦しくなった。


 直平は胸を押さえて手綱を握る。しかし、次第に手綱を握る力がなくなり、ドサッ、と馬から落ちた。


 側近が直ちに駆け寄ったが、そのときにはすでに直平の目は開かなくなっていた。


 享年七十五歳であった。




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 井伊家の不運は止まらない。


 引馬城の飯尾豊前守連龍つらたつは今川氏真に叛いた。その際に井伊家は今川家から出陣を命じられたのだ。


 男たちがいない井伊家では新野左馬助が大将となった。虎松を救った侠気のある人物である。


 新野左馬助は三千の兵を持って引馬城を攻め立てたが、飯尾豊前守は必死に防戦し、鉄砲をもって新野左馬助を打ち抜いた。


 井伊家本家の人間だけでなく、井伊家を守る忠臣もここに散ったのである。




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 井伊谷に井伊家を継ぐ男たちはいなくなった。残された次郎法師は南渓和尚の下へ向かう。


 龍潭寺の奥座敷で次郎法師と南渓和尚は対面した。両者ともに悲壮感が漂う顔つきだった。



「南渓和尚、井伊家は、井伊谷はこれからどうなるのでしょうか」



 次郎法師が目を伏せがちに尋ねる。南渓和尚は黙ったまま動かない。そのまま日が暮れるまで時が流れた。



「こうなっては、仕方がない」



 南渓和尚が呟くように口を開いた。次郎法師にはその意味がわからない。



「次郎法師、明日、また来なさい」


「……わかりました」



 理由は聞かない。次郎法師は南渓和尚を信頼していた。すでに南渓和尚の考えることに従うつもりだったのだ。


 南渓和尚は龍潭寺から去る次郎法師の姿を見送った。その姿に南渓和尚は悲痛とも言える顔つきになる。



「次郎法師、あなたには、辛い思いをさせます」



 南渓和尚の言葉は龍潭寺の鐘の音にかき消された。


 井伊谷に残された人物は、少ない。

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