第11話 直親

 永禄五年(1562年)十二月、井伊直親は駿府すんぷへと向かう準備をしていた。人数をそろえ、贈り物も持っていかなければならない。


 その準備も一段落つき、直親は奥の間で休息していた。


 そこに、次郎法師が来たという報せが届いた。



(円姫が?)



 直親にとって次郎法師は特別な存在だった。もともと許婚だった、というだけではない。迷ったときに行くべき道を刺し占めてくれる光のような存在だと感じていた。



(裏切っておいて、それは都合のいい解釈かもしれないな)



 直親はすぐに謁見の間に次郎法師を通した。直親自身もすぐに向かう。


 久しぶりに見る次郎法師は変わっていなかった。僧形となりながらも美しさは変わらない。むしろ清廉さが増したようにも思えた。



「お久しぶりです、直親様」



 次郎法師が慇懃いんぎんに挨拶をする。昔のような気さくさはもはや見られない。



「うむ、今日はどのような用だ」



 直親も井伊家の当主として対応する。



「駿府への出発、取りやめになされた方がよろしいかと」


「なぜだ」


「殺されるかもしれません」



 次郎法師の言っていることは重臣たちが言っていたことと変わりがない。しかし、次郎法師の口から出るその言葉は、重臣たちの口から出るそれと重みが違って感じられる。



「氏真様だけを見てはなりません。氏真様の周り、それに、直親様の周りをもっと良く見て欲しいのです」



 次郎法師の口調は淡々としていた。しかし、その淡々とした口調の中に直親への思いやりがうっすらと感じられる。



(円姫は、まだ私のことを思ってくれていたのか)



 直親は眼が覚める思いがした。できれば次郎法師の思いに応えてあげたい。



(だが)



 直親は目を伏せた。



「無理だ。もはや決まったことを曲げられぬ」


「どうしても、ですか?」


「ああ。今川家にもすでに赴くことは伝えてある。今更中止すればそれこそ井伊谷に今川家の兵を招くことになりかねない」



 次郎法師はそれ以上口を開くことはなかった。


 しばらくの沈黙の後、次郎法師は頭を下げて引き下がった。


 引き下がる際、



「馬鹿」



 と、小さく呟いたようにも見えた。しかし、その小さすぎる言葉は直親に届かなかった。




   ###




 十二月十四日、井伊谷城を出発した直親一行は朝比奈泰朝あさひなやすともが城主をつとめる掛川城かけがわじょうへと到着しようとしていた。


 朝比奈泰朝といえば桶狭間の戦いで松平元康とともに丸根城、鷲津城を攻撃した人物だ。今川家では名の聞こえた武将と言って良いだろう。


 掛川城の城下が見えた、その時、直親一行を朝比奈氏の兵が取り囲んだ。



「何!?」



 直親はあまりのことにすぐには状況が理解できなかった。だが、朝比奈の家紋を掲げる兵が直親たちを斬り倒していく姿を見て、



(謀られた!)



 とわかった。


 掛川城主の朝比奈泰朝は今川家の家臣である。その朝比奈の兵が直親を殺害しようとしている、ということは氏真が直親殺害を命令した、ということだ。


 直親は刀を抜き、突き進んでくる朝比奈兵と斬りあった。


 しかし、多勢に無勢。戦闘を行う予定がなかった直親たちはあっという間に首を斬られてしまった。


 直親を討ち取った武将の名前も資料に載っていない。戦場で首をあげることは名誉だが、謀殺で無抵抗な人物を殺害することは不名誉なこと、と考えられていたからだろう。


 次郎法師の許婚だった亀之丞、井伊直親は掛川の地でその命を散らした。




   ###




 事態はこれだけでは終わらない。朝比奈泰朝は直親がいなくなり、無主となった井伊谷を攻め立てたのだ。


 その際に井伊家の重臣たちも奮戦したが、数多く討たれたという。


 この朝比奈泰朝の侵攻は井伊家の懲罰的な意味合いが強く、氏真の重臣たちの策謀と考えられる。


 さらに、その裏には小野但馬守の陰謀も見え隠れする。


 これほど井伊家にとって多くの重臣が討たれたのに、家老である小野但馬守は無傷で保護されているからだ。あらかじめ朝比奈泰朝の侵攻を知っていた、と考えられる。


 朝比奈泰朝の兵は井伊谷城を攻略すると、すぐに兵を引いた。今川家には逆らうな、という意味合いを込めた侵攻はこれで終わった。




  ###




 この事態を次郎法師は龍潭寺で祈りながら見守るしかなかった。


 この時、すでに直親は死亡している。次郎法師も掛川城の朝比奈泰朝が攻めてきている時点で直親の死亡を察しただろう。


 自然と涙がこぼれる。止められたはずだ、という思いが次郎法師にはある。女々しく、行かないで、とすがりつくように止めていれば直親は考えを改めたかもしれない。


 しかし、次郎法師にはそのような真似をできるほど心は幼くなかった。もし、次郎法師ではなく、円姫として諫止していたらどうだっただろう。今となっては考えても虚しいだけである。




  ###




 直親の遺骸は生き残った足軽や中間によって井伊谷に持ち帰られた。討ち取られた首は南渓和尚が朝比奈家に使いを出し、掛川城から貰い受けてきた。


 遺骸は頭と体を一緒にして棺に納められた。都田川の河畔で荼毘だびにふされたと考えられえる。


 次郎法師も南渓和尚とともに読経した。すぐ側には直親の正妻であった瑠璃が泣いている。


 その瑠璃とは反対に葬儀の隅のほうで佇んでいる小野但馬守の表情は明るい。自分の思い通りにことが進んで気分が良いのだろう。


 井伊谷の空は直親の炎と灰で赤く染まった。


 井伊家の苦難はまだ止まらない。

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