Ep.10 長いナイフの夜
6月。ヴォルフはゲーリングからの呼び出しに応じ、彼の元へと訪れていた。
「仕方ない……。君はヒトラーの指示に従ってくれ。今君に党を離れてもらっては困る」
「レームは?」
「うまく逃げてもらうさ……」
おそらく、先月のヒトラー邸潜入を受けて、ヒトラーが動きを見せた。ヒンデンブルク大統領を守る為に突撃隊を彼の回りに配備していたのだが、そのヒンデンブルク守備態勢を崩すきっかけを作ったのは、皮肉にもヒンデンブルク本人であった。いや、正確にはヒトラーがそのヒンデンブルクを使い、突撃隊粛清の口実を作った。
まず、突撃隊、反乱の噂をでっち上げ、ヒンデンブルクの周囲に突撃隊がいる事に不安を持たせる。そして、彼の口からヒトラーへ、突撃隊粛清の要請を出させたのだ。これが後に『長いナイフの夜』と呼ばれる事件の発端である。
「ヒトラーからは7月に入り次第、実施せよとの命令がでています」
「うむ。まだひと月ある。準備するには十分だ」
「それと、ゲシュタポ(秘密警察)の親衛隊への譲渡も要求されています」
「……しかたがない。今君が彼に疑われるわけにはいかない」
「ヴォルフ様……」
「今後は君の判断でヒトラーの命令にはできるだけ従ってくれ。しかし、党のバランスを取ることも大事である。信頼は失わず、地位を向上させながら、バランスを取る。なに、君なら余裕だろう」
「恐縮であります」
「それと、もう君との連絡は絶つ事にする。君も私には接触しないように」
「はっ……」
「とにかく、レームには私から伝えておこう。君も健闘を祈っていてくれたまへ」
しかし……ゲーリングからの情報と異なり、『長いナイフの夜』は7月に入る前夜、6月30日に決行された。この日、レーム含む突撃隊幹部のほとんどが逮捕。そして、同日から7月2日にかけて裁判を経ずに面々の処刑が敢行。レームも1日、「我が指導者……」の言葉を残してこの世を去った。この三日間で明らかになっているだけでも116名が死亡。一節では千人以上にも及んだとされている。
レームの逮捕は、ヒトラー、自らの手で行われた。この時のヒトラーの顔は歓喜で満ちていたという……。
「ヴォルフさん。大丈夫ですの?お顔色が優れませんわ」
ベルリン郊外。ヴォルフの介抱を行ったユダヤ人女性、エスティーの自宅、ゲルトハイマー邸。
「ああ。大丈夫だ」
「でも、突撃隊の皆さんは追われているのでしょう?」
エスティーは、ナチ党の機関紙を手にしたヴォルフに声をかける。
「突撃隊もナチ党の一員だ。まさかユダヤの家にいるとは思うまい」
「それもそうね」
「いや、しかし、君に迷惑をかけることになるな」
「いいえ、それは大丈夫よ。ごゆっくりなさって」
エスティーは心配そうな顔を向けるヴォルフに笑顔を返す。
「君には世話になりっぱなしだな」
「こんなご時世だもの。お互い様よ」
「エスティー……」
ナチ党に追われるヴォルフ。自身の危険を顧みず、そんな彼を匿うエスティーとその家族。
「すまない」
今、この状況下で危険を冒させていることへの謝罪か。それとも、かつて反ユダヤ主義を掲げていた己を振り返っての謝罪であったか。
「謝る事なんてないわ」
「ああ……ありがとう」
しかし、世に言う『ホロコースト』(ユダヤ人に対する大量虐殺施策)が実施されてしまうのはこのもう少し後、第二次世界大戦中の事である……。
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