『不穏な雲行き』 その9

 嫌な音がしたのは、それから一時間と経たない内だ。



「空翔!?」



 扉を思い切り開けて楽屋を飛び出していく空翔に、慌てて夕がついていくる。美琴が出て来る様子はなかった。



 空翔が真っ先に向かった先は、非常階段だった。そこから、声が聞こえる。怯えているような、興奮しているような、感情の何もかもを滅茶苦茶に混ぜた悲鳴のような、叫び声だった。



「暴力事件だ! 暴力事件!」



 鼻から血を垂れ流し、欠けた歯をもごもごさせながら、目に恐怖と憎悪を滲ませて、男が叫んでいる。空翔も夕も、その男には見覚えがあった。確か雑用係のスタッフだったと思うが、特に何をしたというわけでもないのに、やたらこちらを――アイドル候補生たちを、睨みつけていたから。



「なあ! 写真! お前、写真撮ったか!?」



 顔を歪ませた――文字通り、外部からの圧力によって顔を歪ませた男が、隣の男に嬉しそうに問いかける。隣の男はのっぺりという言葉が似合う無表情で、大柄で、どこか粗雑な印象を与える。そんな彼は、ただ静かに頷いて、手にしていたカメラを差し出した。カメラだけは、大切に、そっと扱っているようだ。まるで自分の本体みたいに。まるでカメラが自分の魂であるかのように。



 野暮ったい記者。夕はこの業界に長年身を置いていた勘から男の正体をそう結論づけた。



「よかったなあ、お前! ネタに困ってるって言ってたもんなあ!?」



 感情のタカが外れた男は、カメラを見て満足そうに記者の肩を叩く。



「……落ちぶれた者同士、お似合いだな」



 怪我をしているのか、腕を抑えて蹲っていた司狼が、唸るように、憎々しげに呟いた。



 何が起こったのかは分からない。けれど、『Nacht』がどんな目に遭っているのかくらいは、空翔にも夕にも想像がつく。



 非常階段の踊り場で、二人の男と眞白が対峙していた。眞白は信じられないというように、自分の手を見つめ、呆然としている。そして、眞白の手は真っ赤だった。それは何かを――誰かを殴った跡だった。



「すべて、演出ということですか。僕達を失墜させるための」



 旭姫が、問い詰めるように口火を切る。



「何もしてねえよ! コイツはただここでカメラを持ってた! それだけだ!」



「本当にそれだけだとは思えません。そっちだって公にされれば困る汚い真似を……」



「何か証拠はあるのか!? 証拠は!?」



 責めるような男の問いかけに、旭姫はぐっと息を詰める。



 証拠はあった。あるはずだった。分析すれば、何らかの証拠に――。



 そう思ってこそ旭姫は携帯の不気味なメールを削除せず取っておいたのに、今ではそれは階段下で無残に壊れているだけだった。おそらく、旭姫が階段から転げ落ちようとしている時に落ちたのだろう。粉々に砕かれた画面は黒々として、そこに再び光が灯るとは考えられなかった。本番までの緊張感溢れる日々と迷惑メールのストレスに板挟みにされ、バックアップを取ることもしていなかった。



 これで、もう、証拠は出せない。



「……ざまあみろ」



 口元から垂れていく唾液混じりの血を拳で乱暴に拭いながら、男は言った。



「これで『Nacht』もばらばらだッ!」



 その言葉に、眞白はまたもやかっとして、彼の胸倉を掴む。拳を振り上げる。



 あと何回殴れば、この男は、嫌な言葉を、眞白と眞白の大切な人を傷つける言葉を吐かなくなるのだろう。何回でもいい。この男が何も言えなくなるまで、何回でも、自分が殴ればいい。この男の嫌な声を聞くよりは、暴力が振るわれる時の、嫌な音を聞いている方が、ずっといい。



「やめろっ!」



 眞白の、半ば狂いかけた意思を止めたのは、夕だった。



「……オレのヒーローは、オレの友達の犬色眞白は、そんなこと、しない」



 まるで、今にも泣いてしまいそうな声だった。



 眞白の手が、止まる。そのまま、魂のない人形のように、力が抜ける。急に手を離されて、男の身体はどさりと地面に崩れ落ちた。



「兄さん……」



「僕のことは放っておいて……それより、司狼を」



 司狼は、もはや何も言わなかった。ただ、必死に痛みに耐えて歯を食いしばっているだけだ。



「魔法で……」



「それは……駄目だ……ッ」



 専門の免許を持たない限り、ステージの上以外では魔法は使えない。そうルールで決まっている。



「暴力事件起こしたヤツらが今さらルールを持ち出すとはなあ!? 笑わせてくれるよ本当に!」



 今の司狼は、怪我の原因を作った張本人を睨みつけることしかできない。『滑稽でしかない』、『さしずめ、負け犬の遠吠え』、かつて、美琴から言われた嫌味を思い出す。



「……耳障りだ」



 そして、その時と同じトーンの声を、司狼は聞きつけた。



「さっきからずっと、人が楽屋でこれからの『プレライ』に思いを馳せて集中している時にキャンキャンキャンキャン……」



 いつもより一段と低い、美琴の声。そして、自分より下の者を見下す眼差し。ステージの上でも、これほど迫力のある美琴を、誰も見たことがなかった。



「雑草如きに僕の耳を汚されたくない。消えてよ。今すぐに」



「な、何なんだよお前は……! 外野が何の用なんだよ……!」



「確かに僕は外野だけど、まったくの無関係というわけでもない。彼らの後にパフォーマンスをすることになっているからね」



 それから、もはや下々の者の雑音など聞く必要もないと判断したのだろう。



 息をゆっくり吸って、吐いて。気分を切り替え、檄を飛ばす。



「眞白、司狼、君達は今すぐ傷の手当てをして。必要ならすぐ病院に行って」



 いつものように、ふざけたニックネームで呼ぶようなことはなかった。



「旭姫、君は『Nacht』の管理者である学園長に連絡をして、状況を説明して。そこの豚共二人も重要参考人だ。決して逃がすことのないように」



「……『プレ・ライブ』は?」



「仲間が怪我をしてるんだ。それどころじゃないでしょう」



 きっと、彼は、普段から誰かに指示をすることに慣れているのだろう。



「それに、こんな不安定な状態でステージに立つべきではないよ。あの時の木虎姫の悲劇を木虎旭姫が繰り返すのなら、君がここまで積み重ねてきたものが、何の意味もなくなるでしょう?」



「でも、それだと撮影のスケジュールが……」



「とりあえずの修正は僕達がする」



 それから、旭姫を見つめて、表情を一変させた。美琴はふわりと微笑む。舞台の上で見せる、王子様の笑顔そのままに。



「あの時の『プレライ』で、僕達の出番を奪ったお返しと、僕達が出られなくなったライブを立て直してくれたお返しをさせて」



 それからまた、表情をくるりと変えて、二人のユニットメンバーに向き直る。王子様の微笑ではなく、ユニット『Bell Ciel』を率いるリーダーとして、王者の風格で、二人と向き合う。



「空翔、こんなことで動揺したら、許さないから。夕は、こんなヒーローに幻滅したなら、今回の『プレライ』で、君自身が理想のヒーローになればいい」



 そして、舞台衣装の白いマントを翻して、荒んだ風の吹くこの場から去っていく。



 すれ違いざま、慰めるように、励ますように、あやすように、旭姫の頭に、ぽんと美琴の手が置かれた。



「『Nacht』を追い越したくて、トップになりたくて、僕は『Bell Ciel』を作ったんだ。だから、こんなちっぽけな事件ごときで、不戦勝のまま逃げるなんてことになったら、僕は君を許さない。……何か分かったら、僕じゃなくていい。夕にでも、空翔にでもいいから、連絡して」



 小声でそっと耳打ちをして、美琴が率いる『Bell Ciel』は、ステージへと向かって行った。

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