第49話 二股宣言

 もし、一つひとつの出来事に、何か意味があるのだとしたら、俺があの日、結菜に手紙を送ったことにどんな意味が隠されているのだろうか。

 公園のシーソーにぽつんと腰掛け、濁った夜空を見上げながら、考えてみる。都合良く考えてみる。

 高3の夏に、少しの間でも夢を見られるように、誰かがそのきっかけをプレゼントしてくれたのだろうか。

 そんな訳ない。

 相手の気持ちはどうなってしまうのだ。

 大切な人を裏切ってまで、違う人を好きになったばかりに、何もかも失う。まるで、昔話の教訓を、身をもって体験したかのようだ。

 もう、結菜のパンチラを見ることもないのだろうな。相変わらず、なんてバカなことを俺は考えてしまうのだろう。

 二度と結菜に会えないかもしれないのに……。

 ポタッと、額の汗が手に落ちる。

 そろそろランニングを再開しよう。カブト虫を捜しながら。

 ここに来る途中、虫取り網と虫カゴを持って歩いている、佐藤と美樹を見かけた。

 三上も今晩もまた、渚町の至る所に罠をしかけているのだろう。

 明日の大声大会、俺は絶対に優勝しなければならない。誰よりも大きな声で叫びたいことがある。



 実家に戻ると、寿司とピザとすき焼きがダイニングテーブルにびっしりと並んでいた。

「お兄ちゃん遅ーい!」

 楓に文句を言われる。

「早く手を洗ってきなさい」

 母さんに急かされる。

「残したら罰金だからな」

 父さんに脅される。

「こら、正! 横着しないの!」

 俺はキッチンで手を洗って、席につく。冷房で冷えているはずなのに、とても暖かい席だった。

「こら、楓! 『いただきます』もしないで!」

 俺が席につくと同時に、楓が寿司とピザを両手に持って食べ始めた。

「だって、お兄ちゃんが遅いから、お腹が空きすぎて、もう待てなかったんだもん」

 恐らくそう言ったのだと思う。楓はモグモグ食べながら、言葉になっていない声を発していた。

「もう、食べながら喋らないの! まったく、あなたたちが揃うと、お母さんまた喉が痛くなりそうだわ」

「はっはっはっ。のど飴も買っておけばよかったな」

 頬笑みながら頭を抱える母さんを見て、父さんが愉快そうに笑う。

「喉が痛い時は、塩水でうがいするといいよ」

「そうなの?」

「うん」

「さっそく、今日試してみるわ」

「それじゃ、母さん、僕たちもいただこう」

「そうね。いただきます」

「いただきます」

 父さんと母さんも、大量に並んだ料理との闘い挑む。


 結菜が教えてくれた。塩水でうがいをすると、喉の痛みに効くことを。ネットで調べた訳ではなかったのだ。合唱部に入っていたから、結菜は声の出し方や、トレーニング方法を知っていたのだ。でも、どうして歌が上手なはずなのに、あんなにカラオケで歌うことを嫌がっていたのだろうか。


「早くお兄ちゃんも食べなよ!」

 恐らく楓がそう言った。

「いただきます!」

 俺は真っ先にピザに手を伸ばした。


 まだ結菜と出会って間もない頃、ピザの食べ放題に行った時、本当に苦しかったなあ。その後、追いかけっこして大変だったなあ。

 『アツアツ』で一緒に働いた時も大変だったなあ。薫と綾にこき使われて、結菜の怒った顔もかわいかったなあ。

 結菜、今、何をしているんだろう。

 こうやって、久しぶりに再会した家族と一緒にご飯を食べているかな。

 一人で部屋で泣いていたらどうしよう。

 詳しい住所を聞いておけばよかった。今すぐ会いに行きたいな。美樹なら知っているかな。長崎か、遠いな。そこから、転校してきてくれたんだ。“宇野誠”しか知らない場所へ。


 食べ続けた。涙がこぼれそうになるより速く食べ続けた。

 だから、肉が喉に詰まった。息ができない。水を飲もうとしても飲めない。父さんが、慌てて背中を叩く。母さんと楓が顔を真っ青にして何か言っている。

 嘘だろ……、俺の人生、ここで終わりなのか……。

 まだ、結菜とセックスしていないのに……。

 結菜……。

 稲光がピカッと光り、『ドドドドーン!』と爆発音のように雷の音が鳴り響く。あの夜の雷とよく似ていた。俺は驚きのあまり、喉に詰まっていた肉を吐き出した。

 間もなく、大雨が降り出す。ゲリラ豪雨だ。逃げ出したカブト虫は無事だろうか。

「もう、お兄ちゃんったら、本当に人騒がせなんだから!」

 楓はそう言うと、再び豪快に食べ始める。

 きっと結菜と気が合ったに違いない。

「こら、楓! もっとゆっくり食べなさい!」

 母さんは俺が吐き出した肉を片づけると、楓に注意しながら笑っている。

 父さんは背中を向けて、涙を拭っていた。

 “明日”がいつまでもある保証はどこにもない。俺は明日の祭りの大声大会で、絶対に言っておかないといけないことがある。結菜のおかげで、大声大会にかける意気込みがさらに高まっていた。

「よし! 正が助かったお祝いだ! 残さず食べるぞ!」

 父さんは気合いを入れて、すき焼きに箸を伸ばす。

 もちろん、俺も負けじと肉を口いっぱいに頬張る。これは前哨戦だ。ここで負けるわけにはいかない。



 大声大会当日。いつも通り、朝練のメニューを済ませると、ジョギングに出かける。いったい何が胃薬の働きをしたのかわからないが、張り裂けそうなくらい胃袋に詰め込まれた食事は、朝起きた時には驚くほどきれいに消化されていた。

 心も穏やかになっていた。早朝の風を、心地良く感じることができていた。きっと大声大会が終わるとまた混乱の渦に飲み込まれてしまうのだろうが、今は大会のことだけに集中できている。

 ピチャッと顔に何かがかかる。セミのオシッコかと思ったが、空を飛んでいたのはカブト虫だった。

 あっという間に遠くのほうへ消えて行く。

 希望を見た。今、俺は希望という存在を、カブト虫という姿で見た。

 正直、『難しいと知りながらカブト虫を捜す』という行為で自分を許そうとしていた。見つけられなくても、三上のために行動したのだと自分を納得させようとしていた。

 あれはきっと、三上の信念だ。絶対に見つけてやるという三上の信念が空を飛んでいたのだ。

 カブト虫が消えて行ったほうへ走って行くと、ファンキーなおばあちゃんが自転車を猛ダッシュ漕いでこっちに向かって来て、俺の前でブレーキをキーッと鳴らして止まる。

「ハアハアハア」

「すみませんでした」

 息を切らしているファンキーなおばあちゃんに、俺は性欲を抑えるために何度か利用してしまった無礼を詫びた。

「カ、カブト虫見なかったか? ハアハアハア」

「あっちのほうへ飛んで行きましたけど……」

「渚町でカブト虫を見るなんて、ハアハアハア、もう何十年振りか……。嬉しくてな、追いかけたんじゃけど……ハアハアハア」

「後ろに乗ってください」

 俺がそう言うと、ファンキーなおばあちゃんは目をキラキラさせて頷いてくれた。


 俺は自転車を漕いで、立ち乗りしているファンキーなおばあちゃんと一緒に、迷子のカブト虫を捜した。

 すれ違う人たちの驚いた表情が、早朝の風をさらに心地良くしていた。

 正直、『こんなに努力したのだから、大声大会で優勝できなくても、それは仕方のないことだ』と思っている自分が先ほどまでいた。

 そして、そんな自分は見えなくなったカブト虫とは違って、完全に消えていた。



 笑顔だらけだ。お昼過ぎ、祭りが開かれた神社は、家族連れやカップルでごった返していた。

 俺はメイン会場で行われている大声大会で、思わぬ人と一緒に出番を待っていた。

 参加者は58人で、今のところ最高記録は118.2dbだった。大会記録にあと2dbだけ及ばなかった好記録らしい。この記録を叩き出したのは楓だった。なんで参加をしているんだ……。

 席に座って見ている人もいれば、りんご飴を食べながら見て行く人たちもいる。高校最後の夏。結菜と一緒に祭りを楽しみたかったなあ。手をつないで歩きたかったなあ。


 結局、楓の記録が超されないまま、俺の前の参加者に順番が回ってきた。一緒に出番を待っていた、ファンキーなおばあちゃんだ。奇遇にも、彼女もこの大声大会にエントリーしていた。

「頑張ってください!」

「おう!」

 ファンキーなおばあちゃんは、親指を立てると舞台のほうへ上がって行く。

「次は、本日最高齢の参加者です。自信のほどはいかがですか?」

 若い女性の司会者に聞かれると、

「今日、カブト虫を見たんだよ。いいだろ」

とファンキーなおばあちゃんは答えた。

 司会者は目を点にして、

「そ、それは良かったですね。それでは、張り切って参りましょう」

と戸惑いつつ進行する。

 会場もざわついている。

 ファンキーなおばあちゃんは、大きく息を吸い込むと、

「皆で歌おうぜ! 宇宙人から渚町を守ろうぜ!」

と言い放った。

 記録は大会記録を上回る122.6dbで、会場から大きな拍手が沸き起こる。

「これは凄い記録が出ました! 渚町を愛する想いが伝わってきましたよ! おばあちゃん、おめでとうございます!」

 司会者に褒められるが、

「大したことねえよ」

と言って、ファンキーなおばあちゃんはクールに舞台から下りて来る。

「負けませんよ」

 俺はそう言って、ファンキーなおばあちゃんとハイタッチを交わした。

 いよいよ俺の出番だ。

 舞台へ上がる。足が震えている。司会者の言葉が、ちゃんと頭に入らない。適当に答える。声も震えている。

「お兄ちゃん、頑張れ!」

 見ていられなかったのか、前列に座っていたちびっ子に応援される。

「お兄ちゃん、しっかりー!」

 端のほうに居た楓が、ちびっ子に負けじと応援してくれる。

 この日のために、結菜と一緒に必死にトレーニングしてきたんだ。やれる。俺は絶対に優勝できる。

 俺は大きく息を息を吸い込み、

「茜さん、結菜、俺と付き合ってくださーい!」

と叫んだ。

 突然の二股宣言に会場が今までにないほどざわつく。

 もちろん、“茜さん”は文通をしていた結菜のことだ。文通して傷つけてしまった結菜とも、その事実を知ってさらに傷ついた結菜とも付き合いたいという、自分でもよく言えたなと思えるほど、わがままな想いだった。

 記録は確か、135dbくらいだったと思う。おぼろげにそう聞こえてきた。司会者が興奮して喋っているが、俺の全神経は違う方向を見ていた。

 結菜が居た。

 俺は舞台から飛び降りると、会場の最高列で見ていた結菜のもとに駆け寄った。

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