第41話 朝

 翌朝。俺はベランダで洗濯物を干した。結菜のパンツに、ブラジャーに触れた。クラクラしてベランダから落ちそうになった。2階だから命を落とすことはないないだろうが、洗濯物に興奮してベランダから落ちて骨折などしたら、いくら俺でもダサすぎる。

 結菜の下着が微妙に風に揺れる感じがヤバい。他の奴に見られないように、結菜の下着を囲むように俺の服を干した。

 極めて危険な洗濯干しをしたのだから、結菜のパンツとブラを見られるのは俺だけの特権だ。

 でも、今、俺の頭の中を占領している光景は別の物だった。歯ブラシだ。朝、目覚めて見た、2本並んでいる歯ブラシ。嬉しかった。本当に同棲が始まったんだなあ。


 部屋の中に戻ると、結菜がピザトーストとハムエッグを作ってくれていた。朝が苦手だと言っていたのに、俺より早起きしていた。

「もう、洗濯干すのにどれだけ時間かかっているのよ! 早く食べないと遅刻するからね」

 結菜はほとんど食べ終えていた。

「わかっているよ、いただきます!」

 朝から結菜の手料理。きっと来世の分の運も使いきっているのだろうが、今はそんなこと気にしない。

「ウマッ! 結菜がこんなに料理が上手だとは思わなかったなあ」

「どうせ、がさつに見えますよーだ!」

 結菜は舌を出してそう言うと、食べ終えた食器をキッチンに運ぶ。

「結菜、今日はバイトだろ?」

「うん」

「遅くなってしまうけど、夕食、まかないを持って帰って来るから」

「本当! 私、『渚四川飯店』の料理大好き!」

 結菜は部屋に戻ると、壁にかけていた制服を取り、扉に『着替え中』と書いた札をかけてから、キッチンに行く。

 ガラス越しに結菜の体のシルエットが見える。時が止まる。俺は動けなくなる。

「落合もさっさと食べて着替えないと、本当に置いて行くからね」

 結菜の声が助けてくれた。時間が再び進み出した。

 俺は朝食を平らげると、1分もかからずに制服に着替えた。なぜだか、結菜にパンツ一丁でいるところ見られるのが恥ずかしかったので、急いで着替えたのだ。



 結菜が部屋の鍵を閉めて、二人揃って学校に向かう。階段を下りる足音が、名曲のように心に響いた。

「手、繋いだりしない?」

「ダメ。それは付き合うようになってから」

 予想通りの返事だった。

 100mほど歩いて、俺と結菜は気づいた。

「ヤバッ、俺、スマホ充電したままだ!」

「あっ、私も……。どうして、もっと早く気づかないのよ!」

「だって、結菜と二人でいるとスマホ必要ないから」

「もう、走るわよ!」

 俺と結菜は走ってスマホを取りに戻り、佐藤と美樹と三上が待つ『南かぜ風』までも走って行った。


「ハア、ハア、ハア。遅れてごめん。落合のバカが……」

「俺だけのせいじゃないだろ! ハア、ハア、ハア」

 息を切らしている俺と結菜を、三人は変な目で見ていた。

「正が朝から大変だったのかな?」

 美樹はそう言って悪戯っぽく笑う。

「ち、違うわよ。美樹、そんなんじゃないから」

「でも、田中さん、落合君のファスナーが真実を語っていると思うけど」

 三上に言われて、結菜が俺の股間に目を移す。

 しまった。急いで着替え過ぎて、ズボンのファスナーが開いたままだった。

「落合のバカ! 変態! なんだかさっきから笑われている気がしていたのよね! だらしないことしないで!」

 結菜はまくし立てると、俺のズボンのファスナーを上げてくれた。

「行こう!」

「田中さんも大変ね」

「結菜、すっかり正のお母さんみたい」

「夏休みが嫌になる母親の気持ちが少しわかった気がするわ……」

 結菜は、美樹と三上と一緒に、先に進んで行く。

 俺は、佐藤にじーっと見られていた。

「正……」

「な、何だよ?」

「頼む! ゆいぴーのパンツを1枚、俺にくれ! 1枚くらいなくなってもバレないだろ! この通りだ! 頼む!」

 佐藤が手を合わせて、俺に頭を下げると、結構離れていた三上が戻ってきて、佐藤の耳たぶを引っ張って連行して行った。

 俺は額の汗を拭う。そんなことをしたら結菜に抹殺される。わかりきったことではないか。それなのに、魔が差してしまった。俺の鞄には今、結菜の水色のパンツが入っている。実家に保管しておいて、沖縄に持って行こうと思っていたが、出来心では済まない罰が待っている。結菜に気づかれる前に、タンスに戻すことにしよう。



「安田、ボケっとするな!」

「す、すみません」

 学校に行くと、珍しく美樹が杉山に注意されていた。

 この日は、八坂が夏季講習を休んでいた。

 まだ美樹と八坂が喋っているところを見たことがない。それなのに、こんなに美樹の心を奪うとは、やっぱりイケメンは違うな。

 いや、待てよ、まだ喋っていないから、美樹は八坂のことが余計に気になっているのかもしれない。

「おい、落合! さっきから安田ばかり見ているんじゃない!」

 俺はいつものように杉山に注意される。失笑が起こる。結菜にギロッと睨まれる。また誤解された。美樹のことはどうしても心配になってしまう。



 この日の『渚四川飯店』には、平日なのに行列ができていた。

「落合君、聞いたわよ! 婚約、おめでとう!」

 常連さんたちが、新メニューのフィアンセ丼を食べるために、並んでくれていたのだ。

 列の後方には、父さんと母さんと楓の姿も見えた。前後のお客さんに何やらお礼を言っているようだった。

 結菜との婚約のことがこんなに噂になっているとは……。もう、クラスメイトたちの耳にも入っているのだろう。だけど、からかってくる奴は一人もいなかった。薫と綾がいないこともあるだろうが、多分夏休みだから許されているのだと思った。

 皆、『夏休みに何か起こってほしい』と思っているから、俺と結菜の婚約に否定的にはならずにいてくれるのだ。俺が知らないだけで、クラスメイトたちの夏休みにも、何か素敵なことが起こっているのかもしれない。そうだといいなと思った。

 父さんたちは後ろの人たちに順番を譲って、最後尾に並び直していた。母さんと楓が俺に向かって手を振っている。

「皆様、ありがとうございます!」

 俺が大声で言って、頭を下げると、拍手が沸き起こった。

 高校を卒業したら、また必ず渚町に帰ってこよう。



 アルバイトを終えて帰宅すると、結菜と一緒にまかないにも出たフィアンセ丼を食べた。料理長が張り切ったようで特盛りになっていた。

「フィレ肉のあんかけで、フィアンセ丼だって」

「フフフッ、つまんない」

「だろう、つまんないよな。ハハハッ」

「フフフッ。おいしいね」

「ああ、味は最高! ハハハッ」

 なんだかずいぶん前から結菜と一緒に暮らしているような気がした。隣の部屋からドンドンと音が響いてきたが、苛立ったりはしなかった。

「でも、気をつけないとね。こんな時間に毎日食べていたら太っちゃうわ」

「俺は結菜が太っても気にしないよ」

「そこが問題なのよ。落合と一緒だと、つい油断しちゃうのよねえ。最近、食べ過ぎているから、本当に気をつけなきゃ」

 結菜はそう言いながら、フィアンセ丼の特盛りを完食すると、

「苦しいー」

と言って床の上で横になる。中年のおやじのように、お腹をポンポンと叩いている。

 もっと好きになってしまうではないか。俺のほうが胸が苦しくなる。



 翌朝。2本並んだ歯ブラシも、おはようと言ってくれる。

 俺はベランダで洗濯物を干す。まだクラクラする。結菜の下着を干すことに慣れるまでにはもう少し時間がかかりそうだ。

 結菜はシャケの塩焼きと、じゃがいもの味噌汁を作ってくれた。

 こんにちは、結菜の味噌汁。よろしくな、結菜の味噌汁。忘れないよ、結菜の味噌汁。


 この日はスマホを忘れることはなかった。バッテリーがほとんど減っていなかったら、充電をする必要がなかった。テーブルに二つ並べて置いてあったスマホを持って、学校に行く支度を整える。

「行ってきますのチュウは?」

「バカ! 一緒に行くでしょ!」

 部屋を出ると、お隣さんと会った。


「おはよう」

 結菜が慣れた様子で挨拶をする。

「おはよう」

 八坂も慣れた様子で挨拶をしてきた。そして、八坂の後に続いて、美樹も部屋から出てきた。

「美樹、泊まっていたんだ。おはよう」

「おはよう。エヘヘッ」

 一体何がどうなっているんだ?

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