第34話 別れ前篇

 この日の朝食は、サザエご飯、金目鯛の煮つけ、湯豆腐、漬物、味噌汁だけで、食べ放題のメニューはなかった。

 俺たちの勝手な推測だが、きっと支配人は最後に、大食いの木村様たちと純粋に味だけで勝負したかったのだと思う。そして、その結果は、木村様たちの満面の笑みを見れば明らかだった。豪快な食べっぷりを見られなかったのは残念だったが、支配人が口笛を吹いて喜んでいたので、見ている俺たちまで嬉しくなった。

 食事の量に物足りなさそうにしていのは、望月様と工藤様のほうだった。大食いサークル部のお客様につられて、お二人も一昨日、昨日とかなりの量のお食事を召し上がっていたので、胃袋が大きくなったのかもしれない。俺はよく食べる女性が好きだから、良いことだと思った。


「料理長にお礼を言いたいので、お会いすることはできませんか?」

と尋ねてくるお客様もいらっしゃったが、

「さっき私が挨拶した時に、『これから買い出しに行く』と言っていたわよ」

と木村様が助けてくれた。

 そのお客様は、

「こんなにおいしい料理を作ってくださったのだから、きっと素敵な方に違いないわ。白髪で、髭はきちんと剃っていて、まさに職人っていう感じの」

と想像して残念がっていた。

 木村様は、支配人が調理していることに気づいていたのだ。食べる達人と調理する達人。お互いに何か感じ合うものがあったのかもしれない。


 9時30分になると、木村様たちは「また来年も来ます」と言って、チェックアウトして行った。俺たちには最高の褒め言葉だった。もちろん、一番喜んでいたのは支配人だった。


 望月様と工藤様は、チェックアウトの時間を50分すぎて、ようやくフロントにやって来た。てっきり、「荷物を取りに来て」と内線があるものと思っていたが、ご自分たちで運んで来られた。

 支配人の指示通りに、フロントに立っていた美樹が、通常料金だけを受け取る。マッサージ、洗濯、ドリンクなどはすべてサービス扱いとなった。


 望月様と工藤様がチェックアウトして、『アツアツ』を後にすると、三上が支配人に、

「どうして、あんなわがままを許していたんですか?」

と、ずっと聞くことを我慢していた質問を尋ねた。俺たち全員が知りたかったことで、特に結菜はその質問に敏感に反応していた。

「ああいうわがままなお客様ほどお喋りだから、いい宣伝になるんだよ」

と支配人は笑みを浮かべて教えてくれた。

「さすが支配人! 俺、支配人のことスゲー尊敬しています!」

 佐藤は目を輝かせながら、支配人の両手を握る。

「よせ、この業界では当たり前のことだ」

 支配人はそう言って、佐藤の手を振り払う。

 見た目が小学生に見えるだけで、中身はもう完全に大人になっていではないか。少なくても、俺なんかよりは何倍もしっかりしている。

「支配人が調理をしているのを、木村様は気づいておられましたが、誰かにバラすようなことはしないと思います」

と俺が報告すると、

「当たり前だ。だから、『今回はお世話になりました』と挨拶された時に、『私の料理がお口にあって何よりです』って答えたんだ」

と言って、支配人は屈託のない笑顔を見せた。

 何だ、自分でバラしていたのか……。あんなにおいしそうに食べていた木村様に、言わずにはいられなかったのだろう。やっぱり、まだ子供の部分が残っているんだな。気丈に振る舞ってはいるが、本当はもっと誰かに甘えたいはずだ。


 それから俺たちは、手分けしてルームクリーニングをした。夏のビーチとおいしい料理は、人の心をうんと豊かにするのかもしれない。どの部屋もキレイに片付けられていて、あっという間に作業が終わる。望月様と工藤様がご使用になった部屋も、同様だった。


 そして、風呂場とトイレの掃除をすると、『アツアツ』での全ての仕事が終了した。

「御苦労だった」

 支配人は短い言葉でそう労って、報酬の入った袋を渡してくれた。

「ありがとうございます」

 俺たちは頭を下げて両手でそれを受け取った。とても重く感じだ。充実した3日間だった。

 結局、支配人はプライベートの話を一切することはなかった。このまま一人で経営を続けていくのだろうか? オーナーは夏が終わると戻って来るようだったが、それまで一人で生活をするのだろうか? きっと支配人のことだから、寂しさに負けないで乗り越えてしまうのだろうが、それでいいのだろうか? もっと子供らしく夏をすごしてもいいのではないだろうか? それとも、支配人は『アツアツ』で働くことに誇りをもっているから、このままが正解なのだろうか?

 俺たちは答えを出せないでいた。佐藤を除いては……。

「決めた! 俺、高校卒業したら、『アツアツ』で働くことにします!」

 絶句した。俺たちも、支配人も、佐藤に言葉を奪われた。

「俺ってやっぱり持ってるなあ。こんなに最高な就職先を見つけるなんて。自分でも驚いちゃうよ」

 支配人から了承を得ていないのに、佐藤は内定をもらった気でいる。

「う、うちには、社員を雇える余裕は……」

 珍しく支配人の歯切れが悪くなる。

「俺に任せてください! この立地で、あれだけの料理を出せるんです。じゃんじゃんお客様を呼んでみせます!」

 支配人も含めて全員が、『佐藤ならやる』と思った。

 そして三上が、

「俊を雇ってあげてください!」

と支配人に頭を下げる。

「お願いします!」

と俺と結菜と美樹も頭を下げる。支配人の返事は聞こえてこなかったが、

「オッシャー! ありがとうござます!」

と佐藤が喜びを爆発させた。

 俺たちが頭を上げると、支配人は泣いていた。歯を食いしばって懸命に堪えようとしていたが、それを止めることができないでいた。何年分の涙なのだろう? 支配人は子供のわりに上手に泣けないでいた。


 佐藤の就職が決まり、俺たちが喜んでいると、ツーブロックのロン毛の男が乱暴に『アツアツ』にやって来た。

 支配人の表情が一瞬にして青ざめる。

「団体客が来ていたそうだな……」

 ロン毛の男はそう言ってフロントに入ると、慣れた手つきでレジスターを開けて、売上金を手に取る。

「うおっ、百万近くあるじゃないか。さすが、俺の息子だ」

 聞きたくない言葉だった。この人が支配人の父親、つまり『アツアツ』のオーナーだったのか……。

「やめろよ! それは、これからの経営に必要なお金なんだ! 返せよ!」

 支配人が売上金を奪い返そうとするが、

「邪魔すんな! どけ、ガキが!」

オーナーに蹴られて、倒れてしまう。すぐに、美樹と三上が支配人のもとに駆け寄る。

「なんだその目は……」

 俺たちは全員、オーナーを睨んでいた。

「ここは俺のペンションなんだ。俺が売上金を持って行って何が悪いって言うんだよ! アアッ!」

 悔しいが、こいつの言う通り、法的には問題がない。

 すると美樹がフロントの電話に手を伸ばして、

「でも、暴力はダメでしょう! 完全にDVだわ。警察に電話してやる!」

と言い放った。

「はあ? 親の金を取ろうとしたから、しつけをしただけだろ。別に警察に電話したけりゃ、勝手にしろよ。俺はもう行くからな。こんなに暑いところにずっと居られるかよ」

 オーナーは売上金を持ってフロントから出ると、

「ああ、そうだ、健太。ここはもう売りに出しているから、新しく住むとこ探しておけよ」

と言い残して、外に出て行く。

 俺たちも後を追って外に出ると、オーナーはエンジン音がうるさい外車に乗って去って行く。

 誰かが助手席に乗っていたように見えた。支配人の母親だろうか。


 俺たちが唖然としていると、

「みっともないところを見せてしまったな。すまない」

と支配人が謝る。もう泣いていなかった。こういうことに慣れてしまっているのだ。

「どうして支配人が謝るの……。そんなの……」

 三上は泣くのを必死に堪えていた。

「役に立たなかった。強くなったつもりだったけど、空手が役に立たなかった……」

 結菜は拳を震わせている。

「警察に電話できるように車のナンバー、写真に撮ったけど、どうしよう?」

 美樹がそう言うと、

「クソッ! もっとマシな法律があれば……。今、電話しても警察は何もしてくれないさ」

と佐藤が答える。


 すると、一台のタクシーがやって来て、中から綾が降りて来る。

 綾は俺たちを見るなり開口一番に、

「薫がヤバい奴と一緒にいなくなっちゃった!」

と鬼気迫る声で言った。

 もしかして、さっきオーナーの車の助手席に座っていたのは……。

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