第5話 ガラスの騎士

  少女は語る。


「洗濯物を畳むのが上手くなったんだ。掃除だって前の何倍も早く終えられるようになったし、気難しい先輩に怒られることも少なくなった。今度、料理まで教えてもらえるようになったんだ!」


 少女を辞めたはずの自分が語る。


「でも、剣を振るうことはないままだ。もう誰も、ボクの話を聞いてくれやしない」


 いつの間にかそんな毎日を受け入れるようになってしまった自分に気付き、愕然とする。

 そろそろ運命に追いつかれる頃だろうか。ある日ふと、思い出す。最後に書を開いたのはいつだろう。開くたびに自分に都合の悪い記述が見つかることが嫌になって、眠って忘れようとやり過ごしてきた。


「その時がきたら、やるだけだ。父さんのように……。だけど」


 あれは本当に自分の運命への記述だったのだろうか。何年経っても実感が追いつかない。いつの間にか、記憶したはずの記述は頭の中ぼんやりと滲んでいた。

 そう。かつて望んだ、夢すらも。


 そんなとき、古い制服を宿舎のごみ箱の中に見つけてしまった。何を思ってかそれを広げて、少女は思う。サイズが小さい。年下の見習いのものだったのだろうな、と。直せばまだ着られそうだ。

 そんなことを考えている自分に驚いたときにはもう、見つからないように小綺麗な屋根裏の自室へと持ち帰ってしまっていた。

 ここに住み込んで働くようになってもう数年が過ぎた。とっくに新入りでなくなった自分には、多少怪しい行動をしても盗みだなんだと疑われることはない。

 "リヨンは隠し事がへたくそだ"。

 いつか言われたことを思い出して、むっとする。馬鹿だから悪いことなんてできやしないとかなんとかだ。

 できないんじゃなくて悪いことなんて、騎士道に反するからしないのだ。やらなくちゃいけなくなったらきっと出来る、多分。いや……やっぱり悪いことはいけないと思う。


「捨てられたものだし。別にいい、よね」


 いつの間にかお裁縫はとびっきりに上手くなってしまっていたから。一度も針を指に刺すこともなく、あっという間に繕い終えてしまった。それでも、ぼろくさいのはあまり変わらなかったが。

 勢いで直してしまったはいいものの、いざ終えてしまうと途方に暮れる。

 自分が着てもいいのだろうか。狭い部屋の壁に立て掛けた、父の剣に目を向ける。形見だと言っていたおかげで少女が所持していることに関しては、顰蹙を買うことはなかった。手入れを欠かしたつもりはない。けれど随分と久しぶりにその剣を見た気がした。

 息を飲む。おそるおそる、制服に指を通した。

 途端、高揚感が喉を迫り上がる。

 まるで本当に、騎士になった気分だった。

 胸がざわめく。気道が閉まりそうになる。


 明日はいっとう盛大な舞踏会で、お呼ばれされることなんてない人たちもささやかな祭り気分で町に遊ぶ日だ。少女も朝からお休みを頂いていた。

 少し、贅沢でもしようかと思っていた。今まで、お金さえ積めば『決まり事』なんて見逃してくれるんじゃないかって、邪な考えでお金を積み立てていた。このあたりには美味しいと聞く店がたくさんあったけれど、どれも入ったことはなかった。それも、そろそろ止め時なのかもしれないと考えていた。

 今夜までは。


「……決めた!」


 立ち上がる。鏡に騎士服を纏った自分が映り込む。

 予定は変更。明日ばかりは。

 泉に、あの秘密の場所に行こう。

 親友は、何て言うだろう。たとえ呆れられても、似合ってると言ってくれたら嬉しい。


「もうちょっとだけ。夢見ても、いいよね」


 にへら、と鏡の中でくずれた笑みを浮かべた。



 いてもたってもいられずに、夜明けとともに部屋を出る。綺麗なワンピースの一枚も持ち得なかったけれど、粗末な仕事着を着るのも、泉に着くまでのあと少しの間だけ。

 凍ったままの泉を誰もが気味悪がって、近付く者など少女と親友くらいしかいない。その凍る泉には、悪い化け物が閉じ込められているのだと。まことしやかに囁かれてきた。『夜の森に入るな』そういう教訓のための寓話だろう。遠く果てにある『おそろしの霧』の伝承にくらべれば、これっぽっちも怖くない。


「たとえ化け物が出たって、ボクが倒してみせるさ! ……なんてね」


 騎士見習いの服。父の剣。盛大な、独り言。

 剣を振るう。風切り音が心地よい。腕を伝わる重みがじわりと沁みた。

 たまらなく楽しくて、なのに心は痛くなる。


「こんなことして、何になるんだっていうんだ」


 こんな早朝でさえ、親友はとっくに起き出しているのだろう。良家の娘であるはずの彼女は、行かせても貰えない舞踏会の用意をしているのだ。

 ただの町娘には、不当に虐げられる親友を助けることなんてできやしなかった。手を出せば、相手にされないのはいい方で、恨みを買えば報復に、少女が路頭に迷ってしまう。

 すでに迷いかけたのだ。騎士ごっこすらままならない。

 二人して、出来たのは今を耐え忍ぶことだけだ。

 でも。諦めてしまえば全てが丸く収まる自分よりも、親友の方がずっと酷い。


「十分、しあわせだ。明日のご飯に困ることなんてなくて、いろんなことが出来るようになって、同僚や雇い主との関係も良好で。最近はボクの悪評を知らない騎士見習いと友達にもなれた。そしてなによりエラがいる。優しくて物知りでボクなんかよりずっと、強い」


 剣に自分の顔が映る。血色の良い、薄らとそばかすの浮いた顔。冴えない瞳。


「助けになれるくらいに、どうしたらつよくなれるんだろう」


 溜め息とともに鞘に仕舞った。

 そしてやっと気付いたのだ。こちらへと向かう足音があることに。


「エラ……?」


 違う、彼女じゃない。

 ぞっと悪寒が立ち上る。

 城のお膝元で『決まり事』に反することが、どれほど恐ろしいことか。

 幾度となく剣を取ることを拒まれ続けた少女には、もう分かっていたのだ。

 慌てて木の影に逃げ込む。男だと言い張れば見逃してくれるだろうか。良い人であれば見て見ぬ振りはしてくれるかもしれないけれど。

 逃げ出そうにもこの服のままではまた別の人に見つかっては意味がない。その何者かが過ぎ去るのを待つのみだ。少女はそっと様子を窺う。

 氷の泉にやってきたのは、何の変哲もなさそうな町娘だった。

 彼女はぼそぼそと何かを口ずさんでいる。


「泥は白粉おしろい。宝石は鉄屑。あまねく星の輝きを。腐れいらくさの棘たちを。

 醜いものは美しく、清いものはおぞましく、生ける過去を凍る今に……」


 一体何の詩か。独り言は次第に盛大になる。

 首筋がちりちりとささくれ立つ。溜め息を喉に詰まらせたまま瞬きをした。

 その、僅かな空っぽの一瞬。


「叶えましょう、叶えましょう。私の、、願いを叶えましょう!」


 町娘の姿はどこにも無く、そこにいたのはおぞましい魔女だった。

 震え上がる。自分は一体、何を見ている?

 まるで黴の生えたケーキや廃墟のシャンデリア。豪奢にして汚らしいものを瓶に詰めたよう。仮面の奥の透明な瞳が鬼火のように瞬いた。


「愚かな私、疎かなフェアリー・ゴッドマザー、なんておろかな私の半身!」


 魔女は両手を広げ、嗄れ声で高らかに唱う。


「終わりの時はまだ何処いずこ、おまえは凍る泉の底」


 独白、懺悔、どれも違う。一言一句呼吸ひとつに至るまで。


(これは、呪文だ……!)


 なんてことだろう。泉のそこにいるのは化け物なんかではなくて、願いを叶える善き魔女、偉大なる妖精フェアリー・ゴッドマザーだったのだ。そしてあれは、フェアリー・ゴッドマザーより分たれた堕ちた魔女。

『運命の書』の記述が潤滑油となり、少女の中で慌ただしく組み立てられてく。

 指が震える。恐ろしい、それだけではない。

 寒い。

 魔女の言葉に呼応するように、温度が下がり続けている。

 これ以上耳に入れてはいけない、そんな思いで耳を塞ごうとして。


「終わりなど、来るもんか! 私を殺せるのはおまえだけ。そしておまえの寵愛を受けた王女だけ。そういうふうに『定まった』」


 はた、と止まった。


「だが王女は皆々私が殺した、みな死んだ!」


 十年と少し前、王女を灰に還さんとしたのは、妃だったのではないか。


「今宵、新しい妃が選ばれる……嗚呼、次の私の器になるとも知らないで」


『婦女子の皆よ、剣を取ることなかれ』

 少女を呪った令の起源は。

 まさか、王家はとうに魔女の手に堕ちていたとしたら。

 それは魔女が万が一にも殺されない為の保険のひとつではないか。

 親友の話を思い出す。王室にまつわる奇怪な出来事には、さまざまな形でその治世の王妃が関わっていたのではという話を。


(知らない、ボクは知らない。何も聞かなかった、そんなこと……!)


 今度こそ耳を塞ぎ、目を閉じて。ぎり、と奥歯を噛み締める。

 魔女が杖を振るう度に、泉の氷がぱきぱきと泣いた。


「次の妃は動かぬ今を呪い、変わる未来を望む娘がいい。心優しく美しく、されど灰に塗れた宝石がいい。

 どうかおまえよ、聞いておくれ。ひとり、まさしく妃に相応しい娘がいたことを!」


 声が鼓膜の奥を突き抜ける。心臓が、痛いほどに脈打った。

 それが誰のことなのか。分かってしまった。

 早く、早く伝えなければ。

 この場から離れようと軋む身体を動かした。


「さあ、今日の物語はこれでおしまい。今一度お眠りなさい。少しの私、すべてのあなた」


 けれども、最後の呪文の余波にあと僅かのところで飲み込まれ、少女の意識は地に落ちた。




 目を開けたとき、真上の空は青かった。しかし、降り注ぐ光の色は柔らかに黄みを帯びていて、日暮れの始まりを告げている。

 まさか、全て悪い夢だなんて思うことはしなかった。泉はいつもと変わらず静かに、陽の光を飲み込んでいつもよりも強く輝きを放っている。

 気を失うように眠ってしまったのだと認めざるを得なかった。


「嘘だ……はやく……エラに!」


 服を着替えるのも忘れて、必死で走った。

 今夜の舞踏会。王子の伴侶を捜す為のものであるという噂は本物だったのだ。そして未来の王妃は、魔女の器と変えられる。そんな運命が、あってなるものか。

 胸が張り裂けそうなほどに、彼女を探して道を走る。


 自分の姿を見つけて目を輝かせた少女が、その親友だと認識するのに少しの時間を要した。


「リヨン……? その服……なんて素敵なことなの! とうとうあなたの夢も叶うのね!」


 まるでどこかの姫君のように、見違えていた。

 彼女の勘違いを否定する間すら与えられなかった。

 可憐なドレスをつまみ、くるりと回ってみせる。


「ねえ見て! 魔女さまが魔法を掛けてくださったの。きっとあの方が、フェアリー・ゴッドマザーなのね!」


 泉に凍らされた逸話を、そうとは知らずに少女は語る。

 ああ、なんてことだろう。

 ちがう、ちがうよエラ。キミに魔法を掛けたのは城の魔女、悪しき魔女だ。

 良き魔女、フェアリーゴッドマザーは泉の底に閉じ込められたまま、目を覚まさない。

 キミは悪しき魔女に見初められたんだ。

 キミは今夜、素敵な出会いをするだろう。でもそれはキミを幸せにするものじゃない。

 だから。


「私、今夜、運命を変えて見せるわ!」


 行っちゃだめだ、なんて。

 眩しいほどの笑顔を見た途端に、言える筈がなくなった。


(言わなくちゃ、でも、どうして。これは『言っちゃいけない』ことだって! なんてこと。ボクはそれを、許されていないんだ……!) 


 物語は未だ正しく、狂いは生じない。

 わかっているのだ。

 人の運命を否定することが、どんなに難しいかなんて。




 少女は親友と別れ、ひとり『運命の書』を開く。そして、何度も何度も何度もその記述を頭に刻み付けた。昔、読んだときには要領を得なかった筋書きは今なら何を指していたのか分かる。

 自分がこれから、何をするのか。何をすべきなのか。

 心の中に薄らと浮かんでいた答えに、形を与える。

 覚悟は今ここで、決めなければならなかった。


 再び足を運んだのは凍る泉。


「フェアリー・ゴッドマザー。願いを叶える魔法使い。どうか、ボクの話を聞いて頂けませんか」


 だが、泉を覆う氷は少女の声を妨げ、底へと響くことはない。

 ぐっ、と歯を食いしばり湖面に父の剣を突き立てる。

 けれど古びたつるぎと未熟な少女では魔女の呪いを破ることなど到底できなかった。


「あ、ああ、剣が……」


 泉を覆う呪いは形見の剣すらも蝕んで、凍りついた刃はばらばらに砕けてしまった。

 へたり込む。もう二度と元には戻らない。心にぽっかりと穴が空いたようだった。

 じわりと涙が溢れてくる。


「どうして、書かれている通りにやったのに」


 何か間違えたのだろうか。何か足りなかったのだろうか。もう『運命の書』をめくる気力すらも湧いてはこない。

 それでも、黙り込むことは出来なかった。


「どうか、お願いです……このままじゃ、エラが」


 湖上。ぴしり、と。小さな亀裂が音を立てた。


『おやおや、泣くんじゃないよお嬢さん』


 それは音よりもむしろ明滅する光のような、不思議な声だった。

 顔を上げる。姿は無い。


『あらあらまあまあ。待っていましたよ。灰の姫君』


 くふくふと無邪気な笑いとしめやかな声が頭の中に流れ込む。少女であり老婆である、そんな不整合だった。

 間違いない。


「フェアリー・ゴッドマザー! ……ボクは!」


『ええ、ええ。分かっていますとも。私は願いを叶える魔法使い。たとえ凍らされた身であれど、お前の願いを叶えましょう。


 さて、疎かな私が与えられる魔法はただひとつ』


 くるくると、霰のような細氷が泉の上で渦を描きなからひとつところへと集まっていく。

 パズルのように組み合わされ細長い形へと変わった。


『目をお瞑りなさい。十と二つを心の内にお刻みなさい』


 数え終え、目を開く。氷塊は透明に輝く剣へと変わっていた。


「氷の、剣?」


『いんや、ガラスの剣さ。魔法が融けるまでは、ね』


 その形は、先程壊した剣と同じ。握っていたはずの柄はいつの間にか手の中から消えていて、宙でガラスの刃と共にあった。


『十二時の鐘が鳴る前に、その剣を魔女に突き立てておくれ』


「それで、あなたの半身は倒れる」


 肯定の沈黙。


『その対価は、わかっているね?』


 少女は頷く。


「ボクの過去をなにもかも」


 最初から運命の書に書いてあったのだ。

『忘れられる』と。

 まさか、言葉通りの意味だなんて今日まで思ってもみなかった。


「この剣はあなたの半身を『なかったこと』にするものでしょう?」


『そうさ。悪い魔法を書き換えるには強い魔法が必要だった。振るうものすら飲み込む程に強くあらねばならなかった。

 全てが終わったあとには誰も悪い魔女のことを覚えちゃいないだろう。そして、それを倒した者のことすらも。


 ああ悲しいかな、今の私では良き魔女になれないのだろうね。

 お前の願いはもう半ば私の願い。

 城の灰被りよ。感謝と、謝罪を』


 灰被りは一夜限りの騎士だった。





 ◇




 物語の筋書きは狂いはじめた。

 堰を切ったようにリヨンは全てを吐き出した。許されたわけではない。止めるモノが無くなっただけのこと。

 話せるのだ。

 その事実に、涙ぐむ。


「だから……!」


 彼女なら、分かってくれるはずだ。

 シンデレラは瞬きの間すらも瞼の裏で瞳を固定させたように、リヨンから視線を離さない。いつものように、すべてを飲み込むように話を聞き入れた。


「それが、あなたの運命だったの」


 小さく唇を振るわした。


「どうして?」

「え……」


 大きくはない。だが、はっきりと。

 シンデレラは淡々と問いかける。


「どうして、リヨンは私と逃げようって思ったの?」


 血が上るようだった。


「そんな、どうしてって……さっき言ったことが全てじゃないか!

 ボクが戦わなければキミが侵されて、ボクが戦えばキミと過ごした今まではなくなってしまう。それは魔女に勝てた未来で、そもそも『あんなもの』に、昨日までただの雑用係だったボクが、全てを背負うなんて、よく考えればそれこそ狂っていたんだ」


「魔女を倒すことじゃない、魔女に奪われないのがボクの願いだったのに!」


「こんなのおかしい出来っこないって思ってしまった。どう生まれたとしてもボクは『普通』として育ってしまった。ボク自身のハッピーエンドを望んでしまった……それのどこがっ」


 言葉を尽くす。わからないと言われるのが怖かった。


「ちがう、そうじゃなくて」

「違わないよ。想区がおかしくなってる今なら、別のどこかにハッピーエンドがあるかもしれない!

 ボクが逃げたって、すぐにボクと同じ役割を持つ子が現れるだけだ! ボクである必要なんて、どこにもない。

 エクスたちがカオステラーが倒して。他の誰かが、魔女を倒すさ。問題なんて無いじゃないか」

「聞いて、私は……」

「それとも、もしかして、ボクを忘れることなんてキミにとっては大したことじゃ……」


 シンデレラの白い顔に、朱が昇り来る。遮るのは彼女に似合わぬ程の鋭い声。


「ちがう、ちがうわ! リヨンの分からず屋! 周りをよく見て。『全てを放り出す』それがあなたの願いなら。

 どうして、城の前にいるの。霧なんてずっと向こう、反対の方にしかないじゃない!」


 音がひとつとして消え去った。冴え冴えと、暗がりの景色が認識の中で輪郭を持ちはじめる。

 その時はじめて、ここがどこであるのかを認識した。


「道を間違えた……?」


 生まれてこのかた、迷子なんて一度もなったことがないのに。


「なんで」


 頭が痛んだ。

 シンデレラの流麗な眉が形を歪める。


「私、あなたと違って。リヨン以外に友達なんていないの……知ってるでしょ」


 虐げられた令嬢は外界から剥離されたも同然だった。灰被りの世界は蜘蛛の巣の張り、隙間風の入り込む屋根裏部屋と。そして、誰一人として近付かないはずの泉だけ。泣く場所すら許されなかった先に辿り着いたほの明るい時間。

 忘れたくない、と。

 彼女の意志が言わせないだけなのだ、と。


「何年、あなたと友達をやってきたと思う……?」


「何年、あなたの夢を隣で聞いてきたと思っているの!」


 リヨンは自分が言ってはいけないことを言ってしまったのだと気付く。シンデレラの瞳の輝きは涙と傷心、けれど灰被りは烈火のごとく、詫びすらも許さない。

 口を噤むしかなかった。彼女から目を逸らさないことがせめてもの誠意だと苦しんだ。

 顔を歪めるリヨンに、親友はほんの少し目を細め、上げきった瞼を元の位置へとおろした。


「私ね、こう思ってたの。灰被りはもうたくさん。今夜、私は運命を変えてみせる。リヨンも多分、そうなんでしょう?」


「考えたの。あなたが悩んだ時間には遠く及ばないでしょうけど、それでも」


「こんな変え方は、しちゃだめだって」


「なにも失いたくない? うそ。ぜんぶぜんぶ取りこぼさずに済むのなら、そんな顔してるわけがないじゃない!」


 今にも泣き出しそうに、引きつり凝り固まった口角。顔に乗せられた筋肉は声にならない悲鳴を上げているよう。瞳は月明かりすらも飲み下すだろう。

 乞うような。そんな顔。

 それがどうしようもなく、リヨンの友には許せない。


「昔も、今も。私の助けになろうとしてくれたのを知っている。身勝手だけど、あなたの夢見がちなところが好きだった。その服を見たとき、あなたの夢が叶ったんだって、嬉しかった」


 少女が父に夢を見たように。彼女もまた、少女に騎士を夢見てしまった。

 シンデレラは目を伏せ、リヨンをそっと突き放す。


「間違っていたらごめんなさい。でも、あなたが分からないなら私が分からせなくちゃ」


 手が離される。ガラスの踵が石畳を打ち、音は高く鳴り響いた。


「今夜ばかりは、私もあなたと同じ灰被りを名乗るわ」


 くるりドレスの裾を翻して語り出る。まるでお遊びのような一礼を。御伽話のような一節を。


『そして何も知らないシンデレラは愚かしくも、悪い魔女の催す舞踏会へと向かうのです』


 強く、儚げに微笑んだ。


「騎士さま、どうか。待っているから」



 ◇



 言葉らしい言葉を発せないままシンデレラの背中を見送り、ただぼんやりと立ち尽くした。

 まるで何時間にも思えるような数分だった。

 隠すつもりなんて微塵もなく、足音たちが後ろから向かってくる。


「シンデレラはシェインが追いかけたぞ。ったく、情けねぇ野郎だぜ……ってちがったか」


 タオを見上げる。彼は珍しく神妙な面持ちをしていた。


「いつから、聞いていたの」

「ごめん、けっこう最初から」


 隣でエクスが申し訳なさそうに言う。

 半歩下がって立つレイナは苛辣さを必死で維持しようとしているみたいな目をしていた。

 訳もなく、リヨンは笑った。自嘲めいたのは結果だ。


「こうなる前に、さっさと霧の向こうに行っちゃえばよかったな」


 レイナが痛ましく目を伏せる。


「沈黙の霧を抜けられるのは空白の書の持ち主だけ。普通の運命の書を持つ人間が霧に突っ込むなんて、自殺行為よ。そもそも、普通は霧の向こうに行こうなんて思わないものだけど……」

「なんだ、そもそも逃げられやしなかったわけだ」


 なんとも呆気ない結末だ。霧の向こうには結末すらなかったのだ。


「もしもの話だけど。逃げて、どうするつもりだったんだい」

「……どうするつもりだったのかなぁ。考えてなかった」


 愛し合う二人の逃避行でもあるまいし、きっとまず心から破綻するに違いない。壊れない関係なんてそれこそ絵空事だ。幸せには、なれないだろう。

 冷えた頭では真っ先にそんな考えが浮かんできた。


「はは、今更だ。あれだけ盛大にやらかして、ちっとも本気じゃなかったなんて」


 何がしたかったのだろう。暗がりの中、目を凝らす。


「もう、自分が自分を分からない」

「リヨン……」


 エクスがかける言葉などなかった。


 リヨンはぱっと顔を輝かす。あからさまに取り繕って、話は終わりと手を叩く。


「さて、未来の顛末は先程お聞かせした通り」


 数歩先へと進み、エクスたちを振り返る。ぴんと背筋を伸ばした姿は舞台俳優の真似事のように、そぐわない。


「ボクの運命は悪い魔女を倒すこと。そして」


 魔法を解くことは、同時に魔法を解かれてしまうこと。

 魔女をなかったことにするすべは灰被りすら掻き消してしまう。

 余波は存在そのものを消さずとも。


「ボクは誰の記憶の中にも残らない」


 忘れられ続ける運命にある主役。

 けして記録されない主役。

 この想区に限り、人の心に主役は存在していない。


「無名でありながら知れているのは、不幸な身の上から王子に見初められる、そんな表の物語だ」


 めでたしめでたし、それでおしまい。


「ボクは裏側、積み上げられない物語の主役」


 困り顔で笑ってみせる。


「せいぜい名脇役がいいところだ、と思っていたんだ。

 実はこっそり生きていたお姫様なんて背景、少し考えれば分かりそうなものなのにね」


 リヨンの心は置いてけぼりで、舞台だけが整えられて。

 考える時間すら許されないまま、物語は進むはずだったのに。迷う余裕を与えられてしまった。

 あのとき『空白の書』の持ち主に会うことも、城に辿り着く前に親友に会うことも、あるはずのない筋書きだ。

 主役リヨンは、ずれを許さないバランスで成り立っていた。



「なんだ、その程度の事情か。って思うだろう? 思ってくれて構わない。だって何より、ボク自身がそう思っているんだから!」


 きっと歴代、自分と同じ役割をもった少女たちは揺らぐことなく『騎士』として『王女』として想区ものがたりを成したはずなのに。

 なり損なってしまったのだ。


 レイナが歩み出る。


「あなたの理由は、知ったつもり」


 視線は真っ直ぐに。


「分かるとは言わないけど、分からないと言うつもりだってない」


 その間は互いの剣が届く距離。


「どうか確かめさせて。あなたはカオステラー?」


 懇願だった。

 瞳に、その碧さに、射竦められる。

 耳鳴りがした。遠い親友の声が音無く響く。

『あなたの夢は何?』


「違う。ボクは」


 王女は死んだ。

 少女は辞めた。

 そして騎士は消えゆくのだ。

 十二時の鐘が鳴るその前に、すべてが灰へと転じるだろう。

 それが定められた運命だ。

 ガラスの剣すら残さずに、魔法は解けてしまうとしても。


「ボクは、灰塗れサンドリヨンの騎士だ」


 最初から、辿り着く結論なんてひとつしか用意されていなかった。

 運命を否定したかったわけじゃない。

 きっと、否定されたかったのだ。

 否定されて、自分の夢を肯定したかった。

 たとえそれすらも、定められたものだとしても。知っていても決まっていてもそれが与えられたものだとしても、その思いはとうに自分のものだった。


「決まりきったことだったんだ。もっと大切なことがあったんだ。ボクが思い焦がれた『騎士』ってやつは、たとえどんなにつらくても、逃げ出したいなんてそんなことは、思ってくれやしないんだ。

 だから、逃げ出してしまえばいつか必ず耐えられなくなる。エラにはそれが分かっていたんだね」


 迷いに絡めとられたはずの足は既に抜けていて、迷いの理由はそこに至った経緯への疑問に変わっていた。遅かれ遠かれ必要なあと一歩は届いたのだろう。やっと今、結果に理由が追いついてくる。


「結論、出たようだな」


 リヨンはこくり、と小さく頷いた。

 だが次に口を開く前に、エクスが空を指差した。


「見て、様子がおかしい」


 城の窓という窓から、黒いモノたちが空へと溢れ出してくる。低い雄叫びは束となり、夜を震わせた。全て、ヴィランだ。今、中にいた者が一斉に変えられたのだろうか。それともエクスたちを探した増員か。

 なんにせよ、変化はあの場を起点とした。カオステラーの居場所だ。

 一際大きな影が、尖塔の周りを回る。窓の灯り、ヴィランの鬼火、影の持つ大きな杖の青い光に照らされて、微かに姿があらわになる。

 妖精のような背中の薄羽に、大きく膨らんだスカートのドレス、ほの青く光を放つ魔法の杖。


「まさか、前にシンデレラの想区にいたカオステラーと同じ……!」


 以前、カオステラーに取り憑かれたのも願いを叶える魔女だった。

 リヨンが言う。


「あれは、フェアリー・ゴッドマザーを凍らせた半身だよ」

「堕ちた魔女、元々の筋書きからして善から悪に転じた役割ね。カオステラーとの相性も良かったということかしら」

「最初から悪役なら簡単だよな。つまり、『勝ってしまえばいい』。それで元の物語は木っ端微塵だ」

「確かに、カオステラーになってしまえば一人では勝つのは難しいね。そうリヨンに思わせることが、最初の楔になったのかも」


 そしてカオステラーと思われる影は下がりながら踊るように旋回し、バルコニーから真明るい光りを放つ大広間へと戻って行った。


「さあ、どうする。騎士サマよ」


 いまだ遠慮を残し、リヨンは問う。


「これだけ迷惑かけた後で、心苦しいんだけど……キミたちの申し出ってまだ有効かな」

「何を言うかと思えば。もちろん」


 息を、整える。


「ボクは、魔女を倒す。どうか、力を貸してほしい」


 もう目は逸らさなかった。


「やーっと言ったな!」

「私ね、あなたがカオステラーじゃなくて良かったと思ってる」


 タオが破顔し、レイナは穏やかに笑む。

 驚いて目を丸くするリヨンに、エクスもまたにっと笑った。


「さあ行こう。シンデレラが待ちくたびれてる」



 ◇



 城の内部は兵士の姿のまま変えられたヴィランたちが巡回していた。物陰に隠れ、極力戦闘を避けながら進んで行く。

 内部の作りはエクスの知るシンデレラの想区と同じで、大広間へのルートだけはほとんど確定していた。

 程なく、二人の姿を見つける。


「リヨン、みんなも! 随分早かったのね!」

「いや、全然遅いですよ」


 割合、基準が甘かった。

 シンデレラは音を立てぬよう駆け寄ってくる。


「ごめんね。間違ってたらどうしよう、合っていてもこんな酷いことを言ったら嫌われるって思ったのだけど。リヨン、『勝手にボクを語るな』って怒ってくれなかったから」


 彼女は彼女なりに、要らぬお節介と暴走をしたのではないかと心配していたらしい。それでもきっちりやり終えているあたりが、信頼関係あるいは見透かされた結果だった。

 リヨンは苦笑する。


「図星だもの。怒れないよ」

「よかった、来てくれて」


 ふと横で、シェインが見ていた。


「いい顔をしていますね」

「ご迷惑をおかけしました。でも、もう大丈夫だから」


 きっと完全に、立ち直った、吹っ切ったわけではない。後悔の種類ぐらいは自分で選びたい。多分、そういう決意だ。


「でも、シン、じゃなくて、エラはなんでこんな無茶を?」


 エクスが聞く。いくらエクスの知ってる彼女とは別の存在とはいえ、流石に不思議だった。

 えへへ、と照れたように頬に手を当てる。


「私がヴィランになっちゃったら、流石にどうしようもなくヘタレなリヨンも覚悟を決めるかしら、とか思ったり」


 そこまで思い切って、盛大に啖呵を切ったというのか。最早お転婆だとか言えるような域ではない。主役ではなく主役の友人という役割が、彼女をそうさせたのだろうか。

 周囲の空気が引きつった。


「ここのシンデレラさん、したたかにも程がありますよ……」


 よく言った、シェイン。

 空気的にそんな感じだった。

 慌ててシンデレラが意を唱える。


「わ、私だってちゃんと、すごく、怖かったんだからっ。シェインちゃんが来てくれなかったら、泣いてたかも」

「ごめん、ごめんね!? ボクが悪かったよね!」


 そして切っ掛けであるリヨンの罪悪感に帰結する。

 ヴィラン化する想像をしてしまった。荒療治どころかいっそ再起不能だ。

 なんて女の子だ。我が親友ながら最悪だ。でも、そこまで突っ走らせた自分がさいあくだ!

 がくがくと顔色を青くするリヨンに、シンデレラはくすりと笑みをこぼした。


「ちゃんと恨みは、覚えて、、、おくね」


 その言葉の意味するところに気付きリヨンは、はっとする。


「もう、ずるいなあ!」


 まったく酷い悪友だった。



 


 比較的、和気藹々と歩を進めてしまったが、時間に余裕があるとは言えなかった。


「物語と同時に、時計とは別に時間まで狂うこともあるの。別な想区では、十二時を過ぎても魔法が解けなかった。だけど、ここも同じと考えるのはあまりにも危険ね」

「そうだね。いくらカオステラーに取り憑かれたとは言え、リヨンの剣が有効であることには変わりないはずだし」

「精一杯、やってみせるよ。怖じ気づいたらぶん殴って」

「まだ怖じ気づけるの!?」

「もうっ、話が逸れるから! 戻して。カオステラーの話に戻して!」


 そんな具合で、作戦会議もそこそこに。


「この扉を開ければ、大広間。準備はいい?」


 各々が返事をする。

 リヨンも大分、調子が戻ってきたらしい。その証拠に、ちょっと拗ねてみたくなる。


(褒められないのは、いいんだけど)


「せめて『がんばって』って、言って欲しかったなー……」


 最後の方が、少し声に出てしまった。慌てて口を抑える。まあ、聞かれてはいないだろう。小さな呟きだ。

 くい、と袖を引っ張られる。シェインだった。


「いつから隣に!?」


 まさか、聞かれてしまったか。と思えば、皆までこちらを見ていた。

 シェインが薄らと、どこかにまりと笑った気がした。


「がんばりましょう」

「やってやろうぜ」

「がんばるわよ」

「うん、一緒に」


 最後にシンデレラがにこにこと、リヨンの顔を覗き込む。


「がんばろうね」


 リヨンはじわり、赤面する。

 自虐めいた冗談でも、欲しがったのは自分だし、でも、面と向かって応えられると、


「ああ、かっこわるいっ」


 こんなのちっとも、らしくない!


「はは、いまからとびっきりを決めてやるんだろーが!」




 扉の先に待ち構えていたのは、たくさんの兵士。その姿のままに変えられたヴィラン。

 その奥、カオステラーは玉座にて待ち構えている。

 禍々しいお化けかぼちゃのドレスを身につけて、仮面の奥の瞳を蒼々と光らせながら、真っ赤な唇を裂けるほどに釣り上げている。

 堕ちた魔女、カオス・ゴッドマザー。


「さあ、ジム君とのコンビネーションをとくとみやがれです」


 栗色の髪をした、純朴そうな少年の姿でシェインが言う。

 弓を構え、きりりと目元と弦を引き絞る。


「ありったけの勇気、こいつに込める!」


 偉大な船乗りを志す少年、ジム・ホーキンズの弓術、【ジュブナイル・レイン】。


「船乗りの度胸をなめるな!」


 矢の雨は広範囲に降り注ぎ、兵士の姿をしたヴィランたちが瞬く間に勢いを削がれた。早くも満身創痍だ。もう然程、長く戦えはしないだろう。

 むふー。と、シェインが表情の起伏が少ないながらも、得意げな顔をする。大幅に戦力削減だ。


「い、いきなり!?」

「ぶちかませるようならぶちかませと言ったのは姉御じゃないですか」

「言ってない! もうちょっと考えて喋ったから!」


 だが概ねその通りだし、シェインの攻撃は有効だった。


「でもありがとう、シェイン!」


 壁は崩れた。カオス・ゴッドマザーへの道が開かれる。


「私とタオ、そしてリヨンでカオステラーに接近! タオは不慣れなリヨンのサポートに回って。くれぐれも、敵の魔法に気をつけて!」


 慌ただしく指示を出す。

 レイナは不思議の国のアリス、タオは忠義の騎士ハインリヒ。

 エクスは誰に繋げたのか、リヨンは後ろを振り返る。


「え、エクスなのかい?」

「そうだよ」


 赤髪長身、髭の似合う壮年の男性がそこにいた。どことなく、悪そうな顔をしているような気がする。

 聖女の騎士である魔術師、ジル・ド・レだった。

 リヨンは知らぬことだが、普段ジルとコネクトするのはどちらかというとタオである。というのも相まって違和感はひとしおなのだ。

 どのヒーローとも接続コネクトできるエクスには、時折思わぬ役割が回ってくる。

 ハードボイルド感の漂うジルの外見と渋い声で、口調はエクスのまま話されると、反応に困る。


「シェイン、それからエクスは、ふふっ、そのまま後ろで援護。回復役のエラを守って」


 似合わなさすぎて、指示中にちょっと笑われた。


「了解……って、笑うことないよね!?」


 エクスの異議は軽く流された。

 前後、二手に分かれ動き出す。

 なんとも緊張感がなくなってしまった。これでいいのだろうか。

 リヨンは戸惑う。仮にも、クライマックスというやつじゃなかろうか。

 既に自分は、渦中に飛び込んでいるのだ。

 難しい顔になるリヨンの背を、タオが軽く叩いた。


「ほら、笑えよサンドリヨン。

 お前が主役の舞台だぜ」


 ああ、そうだった。

 陽気に陽気に。

 サンドリヨンの目指した騎士に、薄暗いものは何一つとしていらないのだ。


「任せてよ!」


 高らかに。

 剣を、構えた。




「ようこそ楽しい舞踏会へ!」


 カオス・ゴッドマザーは自ら玉座を降り、出迎えるように浮遊する。


「さよならそしてご機嫌よう」


 甲高い声に呪文を乗せて、火焔を放つ。

 炎そのものがあたりを飲み込むことはなく、ただ破壊の跡だけが次々と生み出される。

 避けられない速度ではない。だが、触れてもいないのにあちらこちらが焦げ付くような火力だった。


「ハインリヒはディフェンダーだ。ちょっとやそっとじゃ倒れねー。上手く使えよ」


 盾にしろと言っているのだ。リヨンは頷く。

 本来の筋書きに予定されていた戦闘は、大仰なものではなかった。リヨンにやれることとやるべきことは多くない。

 剣に目を落とす。その材質が本当にガラスである、というわけではないはずだ。でもその名を付けられている以上、元が氷であるということを考慮しても、直接炎を浴びるというのは拙いだろう。

 ただでさえ強力な魔法なのだ。当たればひとたまりも無い。大理石の床に付けられた数々の陥没痕を目の端に捉える。

 まったく、ぞっとしなかった。



 攻め込んでから少なくない時間が経過した。

 戦局は未だ、変わらない。

 攻めて、防いで、避けて、凌いで。致命的なダメージはまだ食らってはいないものの、攻めあぐねていた。

 一刻一刻、時間とともに体力もまた消耗していく。


「手応えがおかしいわ……!」


 豪奢なドレスは既に見る影もないというのに、その身に確固とした消耗が見られない。

 前に戦ったカオス・ゴッドマザーよりも強力だった。前回とは違い、善性の者を落とす分のエネルギーが、最初から強化へと使われていたというのか。

 ダメージは確実に蓄積しているはずなのに、決め手に届かない。


 そうこうしている内に、城の至る所に配置されていたのだろう、折角数を減らした兵士ヴィランが続々と現れてくる。入ってきた扉は開かないようにしてある上に頑丈であるから、後衛のシェインたちが背中を狙われることはない。ただ、彼らだけでは手が回らなくなってきた。

 レイナがそちらの対応に移る。タオとリヨンは再び前に意識を集中させる。だが、カオステラーに注がれる戦力は減っているのだ。

 勝負を仕掛けてきたのは魔女だった。

 ほとんど溶けた自我が、遅くも確かにガラスの剣を、騎士をサンドリヨンと認識する。

 大盾を持つハインリヒに構うことを止めた。ドレスを引きずり、幽鬼の如き形相で杖の方向を変えた。

 敵は、狙いは、まず。


「よそ見してんじゃねぇ!」


 槍を放つ。柄に繋げられた鎖が音を立てながら、先端はカオステラーの腹部へと突き刺さる。

 やっと動きが鈍くなった。タオが身動きを取らせない。その背中を狙うモノはレイナがすべて切り伏せた。

 動きを止めたカオステラーの巨体に、矢と魔法が降り注ぐ。だがそれも一瞬。止めには絶対的に足りてない。

 魔女の怒りに火がついた。


「ぁぁああ嗚呼ァアッ!!」


 呪文はもう人語の体裁を成していない。

 杖が煌々と輝く。準備はほとんど、リヨンに照準を向けたあのときに終えていたのだ。魔法が放たれるまで、あと幾許も無いだろう。

 タオはぐっと力を込める。今、鎖を槍を離してなるものか。


 ──なあ、ハインリヒ。余裕だろう?


 問いかける。


 ──無論。


 そして爆炎が迸った。

 騒音、振動、瓦礫と黒煙の中。

 ひとときの、耳鳴りがするほどの静寂。


「いけ、リヨン!」


 カオステラーの背後。玉座の安置された段から剣を掲げ、赤の絨毯を踏み切った。

 大きな魔法を打った直後、もう一度迎え撃つことなど出来はしない。振り返ることすら彼らがさせはしない。リヨンが打ち倒すと信じて、囮を買って送り出してくれた。

 その信頼に応えるのみ。

 鐘の音が寂しく鳴り響く。

 かちり、大きな短針が歩みを進めた。

 宙を跳ぶ。大きく腕を振りあげる。

 魔法はとろりと溶け始めていく。

 だが願いは、意志は、まだ消えていない。


「届けッ!」


 【グラッシー・ウィル】、硝子の刃は心の臓を貫いて、鐘の音を掻き消すほどに悲鳴を轟かせながら。

 全ては幻だったかのように、魔女は露と消えていった。




 ◇





 時計の針は両手を広げていた。

 夕にも真夜中にも遠い時間。絢爛豪華な舞踏会は、まだ終わらない。

 シャンデリアの光に目が眩む。

 円舞曲ワルツは一曲、終わろうとしていた。

 自分が踊る人たちの間に突っ立っていることにやっと気付き、不審がる視線を浴びながらこの場を逃れようとよろめきながら進む。

 けれど壁に辿り着くのが限界だった。

 ひどく気分が悪い。

 なりは相応しくなくとも、この制服のおかげか少女は背景となり、人の心にさほど関心を抱かせずに済んでいる。ちいさな異物よりも、華やかなパーティのほうがずっと大事なのだ。

 このまま、誰にも見つけてもらえない。そんな気がした。


「全部、終わったんだ。これで良かったんだ」


 おまじないのように、そう唱える。気分は少し良くなった。

 魔女を倒して。

 そして皆は魔女の存在すら知らず。

 明白な結末はないまま、物語は円満に着地した。


 顔を上げる。目を擦ったのは灯りの数々が眩しいから。

 さあ、このまま大広間を出て、自分の部屋に帰ろう。きっと自分は『知らない人』になっているはずだから、町が浮かれているうちに荷物をまとめて出て行こう。別に透明人間になったわけでもあるまいし、貯金も戸籍も、積み重ねた経験と技能も残ってる。少し、新しい生活を始めるだけだ。

 大丈夫。誰に向けるでもなく、笑ってみせる。

 だって、誰も知らない英雄なんて格好良いじゃないか!


 静かにこの場を離れようと壁に預けていた背を離し、そしてはたと思い出す。

 彼らの姿がなかった。

 いや、そもそも。


 『彼ら』って、誰だ?


 震えは指先から伝線した。管弦の音色が耳鳴りを引き起こしたまま収まらない。

 無理矢理作った笑顔のままに硬直して、そのまま泣き出してしまいそうだった。

 今日はまだ、終わっていないから。今夜だけは、紛れはあれど、騎士だから。あんな醜態、もう二度と晒せるものか。

 ──その、一度目すら思い出せないというのに。


「そこのあなた、顔色が悪いけど大丈夫?」


 はっと顔を上げた。心配そうに覗き込む、ドレス姿の淑女レディ。艶やかな青色の髪を耳にかけて、透き通る碧眼で自分を見つめている。


「大丈夫……です」


 名前を呼びそうになるのを押しとどめる。困らせてはいけない。


「お気遣い、ありがとうございます。では、ボクはこれで」


 ごっこ遊びで繰り返した一礼。残念ながらこのきらびやかな空間には釣り合わず、みっともなく映るだろう。

 遠くない未来、次の王妃となる娘に別れを告げる。


「待って」


 いつかのように、彼女にその手を掴まれた。のろのろと振り返ってしまった。

 ほっとしたように、掴んでいた手が解かれる。


「初めて会ったばかりで、おかしなことを言うけれど。私、なぜだかあなたと仲良くなれる気がするの。むしろ今まで出会っていないのが不思議なくらい」


 少女はあらためて手を伸ばす。純白の手袋に包まれた細い手だ。


「いつかまた会えたら、その時は……ううん、今」


 手を、差し伸べていたのだと。そう認識が追いついて。


「お友達になってくれませんか」


 彼女にとって、その言葉がどれだけ重いかを知っている。

 もう何もかもが耐えられなかった。ぼろり、大粒の涙が堰を切って溢れ出した。


「え、わ、私、何か変なこと言っちゃった?」


 違うんだ、と首を振りながら泣きじゃくる。

 記憶の形は残らずとも、忘れられてはいなかった。

 それが例えようもなく嬉しくて。


 けれど、それ以上に、忘れてしまったのだ。

 狂った物語を調律する。かくして物語は元通り。全てはなかったことになる。

 当然、その狂った物語の中に、×××達がいたことも。

 それが、どうしようもなく悲しい。


 たったひとつ、間違った物語が正されるその前に結ばれた、今も胸に残る約束を抱きしめる。

 目に見えるものは何も、残らなかった。

 だとしても。

 十二時の鐘はまだ遠い。




 ◇





「夢があるんだ」


 静まりかえった広間で、大の字に倒れ込んだまま。リヨンが言う。

 星空の代わりに半分消えかかったぼろぼろのシャンデリアを見上げ、夢を語る。


「いつか、本物に。ボクが憧れたように、誰かの夢になりたいんだ」

「それって……」


 エクスは言い淀んだ。

 騎士になりたい。そう言えない理由は、もしかして。

 リヨンは頷いた。


「ボクの運命の書にはね。この後騎士になった、とは書いていなかったんだ」


 跳ね起きた。暗いもの全てを取り払うように。


「まあ、騎士になれなかったとも書いてなかったからね! せいぜい抜け道を探してみるさ」


 快活に言い切って、笑ってみせる。


「ふふん、今のボクは最高に諦めが悪いからね! 明日のボクはもう心が折れてるかもしれないけどね!」

「ええー……流石にそれはないんじゃ」

「いーや、ボクは自分が一番信用ならない。まったく、これから何度立ち直らなきゃいけないかと思うと頭が痛いよ」


 わざとらしい大きな溜め息だった。

 誰にも窘められないほどに、淡い強がりを塗り込めて。

 小さく願いを口にする。


「せめて騎士っぽい何かには、なれるといいな」


 一瞬、少女まで小さくなったようだった。


「なれるよ」


 そんなことを言ってしまったことに、驚く。

 いてしまった。何か、言わなくては。そんなことを思った。

 人の未来で人の運命だ。断定で言っていいようなものじゃないのに。

 一度出た言葉は戻せない。嘘のつもりだってない。


「たとえどんな筋書きでも、余白のない物語なんてないんだから」


 気休めにしかならないだろう。それでも肯定したかった。せめて応援したかった。これでおしまいなんて、そんな結末、エクスが見たくなかった。


「だから、きっと、君のハッピーエンドだってどこかに……!」


 リヨンの指が、口元に差し向けられる。


「ありがとう。でも最後まで言い切っちゃうのは、無粋だよ?」


 軽やかに、声を立てて笑うのだ。


「まあ、任せてよ。次に会う時までには、必ず、かっこよくなって見せるから!」


 手を差し出した。今日まで何にも報われないまま、剣を握り続けていた手だ。


「約束する。だから、どうか覚えていて」


 その手を、ぎゅっと握り返した。


「うん。ちゃんと、覚えておくから」




 調律が始まる。

 魔法は淡く解けていく。

 誰にも記録されず、確かに記憶された『灰被り、或いは硝子の騎士の想区』の物語は終わりを告げて。

 続く明日の物語をそっと想う。

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灰の少女とガラスの騎士 さちはら一紗 @sachihara

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