「また何か困ったら、頼ってほしいな」

 そこで夢が途切れた。

 目覚まし時計が騒いでいる。


「夢、だよね……」


 走った後のように鼓動が速い。全身に汗。鳥肌が立っている。

 イヤな夢だった。赤い色がなまなましくて。


 夢の中で倒れていた人たちは誰だったんだろう? 顔はちゃんと見た。でも、血の色があまりにも強烈で、それ以外のイメージがかすんでいく。


「ただの夢よ。忘れよう」


 わたしは、騒ぎっぱなしの目覚まし時計に触れた。レトロなアラームが黙り込む。


 ベッドから起き出して、勉強机へ。三日月ストラップを付けたケータイを拾い上げる。スマホじゃなくて、カパッと開くタイプの古いケータイだ。


 四月十五日、午前六時四十分。

 新着メールが一通。送信者は、やなぎちゃん。


 寧々ちゃんのメールは、いつもデコレーションがキラキラで元気だ。今日は、頬の赤い黒熊のイラストが付いている。


〈お嬢おはよー! いつものとこでOK!?〉


 毎朝わたしは寧々ちゃんと待ち合わせて、一緒に登校する。


〈おはよう。寝坊しないで起きたよ。また後でいつもの場所で〉


 わたしは手早く返信して、ケータイを閉じた。


 スマホにすればってよく言われるけど、機械の操作が極端に苦手なわたしは、これしか使えない。おかげでいつも、ちょっとした変わり者扱いだ。


 机の隣の小さな鏡台に向かって、わたしはブラシを手にした。


 長い黒髪と、生まれつき青みがかった瞳。子どものころからインドア派のおかげもあって、肌は白い。


 この間、新学期の健康診断があったのだけれど、数字は残酷です。身長は伸びてなくて、体重だけ増加。小柄で、BMI指数的には非常に健康的な体重だ。ああ……。


 鏡に映る自分を見ながら髪をかし始めて。

 次の瞬間、ブラシを取り落とした。


「嘘っ? ないっ?」


 首筋に触れる。

 鎖がない。


 ペールブルーのネグリジェの胸に手のひらを当てる。ぱたぱたと、あちこちさわる。

 やっぱり、ない。


 肌身離さず首に提げているはずなのに、せいじゅうしゅがない。


 あれは単なるネックレスじゃない。普通の宝石飾りなんかじゃない。青獣珠にはチカラが秘められていて、わたしはそれを預からなくてはならなくて。


 なくした? そんなわけない。昨日の晩は確かにあった。


「何で? どうして?」


 ベッドに飛び込む。布団をめくって、枕をがして、手あたり次第にさわって回る。やっぱり、どこにもない。


 パニックに陥る寸前だった。


 ――ここに、いる――


 呼ばれた気がした。


 わたしは振り返った。青いものが目に入る。クローゼットの前のハンガーラックに掛かった真新しい制服の足下に、青い何かがある。


 わたしは慌てて駆け寄った。


 ひとまずホッとした。青獣珠があった。

 青獣珠は、わたしの親指の爪より少し大きいくらいの直径の、青い宝珠だ。深い湖みたいに、澄んでいると同時に光を吸い込むようで、奥を見通すことができない。


 でも、今ここにある青獣珠は、わたしが知っている姿ではない。


「ツルギの柄?」


 刃のない剣の、持ち手の部分だけ。柄頭の部分に、青獣珠がめ込まれている。


 ツルギの柄は青っぽい金属でできている。グリップの形は、すんなりとわたしの手のひらに馴染んだ。つばには植物の模様が彫刻されてる。


「どうしてこんな形に? 寝る前まではペンダントだったのに」


 握ったツルギの柄がトクンと鼓動した。声のような波のようなものが、わたしの頭に流れ込んでくる。


 ――因果の天秤に、均衡を。役割を果たせ、預かり手よ――


「役割? わたしが何かをしなければならないの? そのために青獣珠が姿を変えたの? というか、あなた、しゃべるの?」


 うなずくように、青獣珠がチカリと光った。リアクションはそれだけで、少し待ってみたけれど、しんとしている。


「ねえ、あの、どういうこと? とりあえず、持ち歩けばいい? でも、この状態で? 持ちにくいんだけどな。ペンダントに戻ってくれない?」


 青獣珠は反応しない。人格とはいえないまでも、意志を持っているくせに。

 仕方ないな。ポーチに入れて持ち歩こう。


 コンコン、とノックの音が聞こえた。扉の向こうから声がする。


すずらんお嬢さま? お目覚めでしょうか?」


 メイドさんの声。ああもう、父も母も過保護なんだから。一人で起きられるって、何度も言っているのに。


「おはよう。起きてます。着替えてから食堂に行く、と母に伝えて」

「かしこまりました」


 わたしはため息をついた。


 生まれてこのかた十五年、お嬢さまをやっています。この家は少しばかり普通ではないのです。我があんぽう家は由緒ある名家なのです。昔は爵位もありました。


 でもね、わたし、安豊寺鈴蘭は自分の力で、自立した女性になりたいの。


 わたしは制服を見る。

 肩章があって、堅いデザインのブレザー。赤いリボンも地味めの形。ちょっと軍服っぽいから、一部の女子からはかわいくないと不評だ。


 でも、わたしはこの制服が好き。だって、わたしにとって自己主張の証だから。


 じょうよう学園高校は、自由な校風と専門性の高い各コースが有名な私立学校だ。わたしはこの四月から進学科の一年生になった。


 ほかでもない襄陽学園に入学したのは、わたしの自立の第一歩だった。


 志望校を決めるとき、わたしは初めて母に反発した。母の出身校の女子高は名門で、そこに行きなさいと言われた。だけど遠いし、厳格な校風だ。わたしはイヤだった。


 襄陽学園は創立十年に満たない学校で、まだ歴史にも実績にも乏しい。けれど、だからこそわたしはとても惹かれた。学校の歴史と実績を創っていく手助けをしたいと思った。


 わたしには今、好きな人がいる。襄陽学園の二つ上の先輩だ。


 去年の八月、襄陽学園のオープンキャンパスで、生徒代表としてステージに立ったのが先輩だった。カッコいいと思った。あの日から、恋はそっと始まっていた。


 見つめるだけ、遠くから憧れるだけの相手だった。それで終わるんだと思っていた。


 でも、出会ってしまった。生徒数の多い襄陽学園の広い校舎で、学年も違うのに、唐突に声をかけてもらった。その瞬間の胸の高鳴りは、忘れられない。


 初恋。運命。

 思い出すだけでドキドキする。胸がくすぐったくて、口元が笑ってしまう。


 わたしは、ツルギの柄の姿をした青獣珠を抱きしめながら、胸に手を当てた。


「今日は会えるかな?」


 昨日の晩は月がキレイで、思わずお願いしてしまった。「明日は彼に会わせてください」って。



***



 襄陽学園はこの町の真ん中あたりにある。


 町には大きな港があって、飛行機の空輸が発達するより前は、すごく栄えていた。今でも、港には大型の貨物船がたくさん停泊している。


 学園よりも港に近いエリアは繁華街。反対側は住宅地で、だんだん上りになってる。


 わたしの家は、住宅地の丘のいちばん上にある。まわりにはお屋敷が並んでいて、我が家もご多分に漏れず、かなりの豪邸だ。


「行ってらっしゃいませ、鈴蘭お嬢さま」

「行ってきます」


 門衛さんに挨拶して、坂道を歩き出す。毎朝のこととはいえ、大袈裟なお見送りにはちょっと疲れてしまう。わたし、たぶん本当はお嬢さまの器なんかじゃないんだ。


 坂を下りたところのコンビニの前に、寧々ちゃんは今朝も先に着いていた。


「おはよう、寧々ちゃん。待たせてごめんね」


 寧々ちゃんはスマホから顔を上げた。

 黒髪のショートカットに、オレンジ色の前髪エクステ。小麦色の肌で目がくりくり大きくて、ニッと笑ったら、やんちゃな印象だ。ミュージカルのピーターパンみたいな感じ。


「おはよ、お嬢! あたしもついさっき来たとこだよ」


 コンビニの自動ドアが開いた。ありがとうございましたーって声。店内から出てきたのは、オレンジ色の髪の男子だ。


「あ、わりくん、おはよう」

「おす、安豊寺、おはよーさん!」


 彼はわりたかひろくん。尾張くんとも中学時代からの付き合いだ。


 尾張くんはコンビニの袋からおにぎりを取り出すと、あっという間に包装を剥がして、ガフッと大口で噛み付いた。


 寧々ちゃんが尾張くんの頭をはたいた。


「朝ごはん、食べてきたんでしょーが。何でそんなにがっついてんの?」

「せいちょうき」

「口ん中モゴモゴしながらしゃべるな!」

「うるへー」

「しゃべるなってば!」


 尾張くんは男子の中では背が低くて、中二くらいまではすごく気にしていた。いつの間にか開き直って、冗談のネタにしているけれど。


 寧々ちゃんはわたしと同じくらいの身長で小柄だから、尾張くんとのバランスは悪くない。仲良くじゃれている様子は微笑ましい。


 二人は幼なじみで、高校も同じ襄陽学園。付き合っているわけじゃないらしいけれど、両想いなのは間違いない。いいなぁ、寧々ちゃん。好きな人とずっと一緒で。


 寧々ちゃんがわたしのそでを引っ張った。


「行こっか。順にぃは、今朝は別行動だし」


 尾張くんのおにいさん、順一先輩。弟とは逆に背の高い人で、けっこうモテる。新しい彼女さんと一緒に登校するのかな?


 わたしと寧々ちゃんが並んで歩く。その後ろを、尾張くん。


 中学時代から、変な組み合わせだって言われてきた。尾張兄弟と寧々ちゃんは「オレンジ頭の不良」なのに、そこに加わるわたしは「お嬢」。


 中学に上がったばかりのころ、わたしは軽いいじめを受けた。お嬢さま気取りとか、さすが優等生とか、聞こえよがしの陰口を言われていた。


 あれはわたしがよくなかったんだ。みんなの鼻に付くことをしていたのに、自覚していなかった。


 クラスで孤立しかけたわたしに、寧々ちゃんは遠慮なく指摘した。


「お嬢、それ普通の中坊は持ってないよ。人に見せないほうがいい。じゃなきゃ、また浮くよ」


 財布の中のカードに、海外ブランドのリップクリームや日焼け止め。セカンドバッグもブランドもの。


 母から与えられたそのままを何の疑問も持たずに使って、それが悪目立ちしていた。どうすればいいのって、わたしはおろおろするばかりで、自分で店に行って選びなよって、寧々ちゃんに呆れられて。


 そんなふうに始まった関係が、もうそろそろ三年になる。


 高校も同じところを選んだといっても、わたしは進学科で、寧々ちゃんと尾張くんは普通科だ。クラスの雰囲気は全然違うみたい。学校まで歩く時間は、情報交換の貴重なチャンスだ。


「ねえ、お嬢。瑪都流バァトルって知ってる?」

「バァトル? ううん、知らない」

「襄陽学園が拠点の暴走族なんだ」

「暴走族? 不良グループってこと?」


「ただのグループじゃないんだよ。幹部の人たちはみんなバイクに乗れて、ケンカがめちゃくちゃ強いんだ。隣町にガラの悪い連中がいるでしょ? あいつらとまともに戦えるのは、この町では瑪都流だけなんだよ。カッコいいの!」

「そ、そう。でも、暴走族って……」

「あたしとタカ、瑪都流に入ろうかなって言ってるの。あ、もちろん順にぃも一緒に」


 寧々ちゃんはスマホで瑪都流を検索してみせた。表示された検索結果に、わたしはまた戸惑う。


 瑪都流という、いかめしいグループ名に添えられた肩書は、暴走族ではなかった。


「ロックバンド?」

「そう。幹部の人たちがバンド組んでて、そのバンド名が瑪都流」

「何にしても、寧々ちゃんたち、また不良とか暴走族とかに関わるの?」

「だって、入ってたほうが安全だもん」


 寧々ちゃんたちは少し前まで別のグループに所属していた。ケンカで停学処分になったことがあるし、髪型や服装の乱れは毎日のこと。窃盗やクスリみたいな、本格的な犯罪は何もしなかったみたいだけれど。


 尾張くんが説明した。


「おれらの前のとこ、幹部が警察にパクられてさ。そのまま自然解体。おれら、野良になろうと思ってたんだけど、隣町の連中が調子乗ってんだよ。バラけたメンバー、片っ端から狩られてんの。で、瑪都流に保護してもらえたほうが助かるわけ」


 寧々ちゃんが口を尖らせて息をついた。


「お嬢も気を付けて。あたしらと一緒にいるでしょ? 隣町のやつら、そのこと知ってるかもしれない。あいつらも暴走族を名乗ってて、バイクも使うから機動力があって、狙われたらヤバいよ。学校帰りも一人にならないようにして。巻き込んでごめんね」


 わたしは慌てて手を振った。


「謝らないで。わたしが勝手にくっついてるんだもの」

「お嬢って、見るからにお嬢だから、ほんと気を付けなよ? できれば帰りも一緒に動きたいんだけど、あたし、部活がガチだからねぇ」


 寧々ちゃんはアーチェリー部だ。小さいころからやっていて、腕前は超高校級。何度も全国大会に出ている。


 部活も本気、ケンカも強いし、明るくてサバサバしている。だから、寧々ちゃんは女の子にモテる。


「忠告ありがとう、寧々ちゃん。わたし、自分でも気を付けてみるね。それにしても、襄陽学園って本当にいろんな人がいるんだね。暴走族もいるなんて知らなかった」


 でも、わたしには縁がないかな。


 学校が近付くと、同じ制服の人たちが増えてくる。徒歩通学だったり、駅のほうからの流れだったり。


 広い広い敷地を持つ襄陽学園の、ぐるりと囲う塀の一角が見えたときだった。前のほうに、見付けた。


先輩!」


 スラリと背が高くて、栗色の髪で、後ろ姿だけど間違いない。ふみのり先輩だ。寧々ちゃんがわたしを肘でつついた。


「お嬢、挨拶しに行っちゃえば?」

「ええっ?」

「そんなにビビらないの」

「だ、だって」


 寧々ちゃんにニヤニヤされて、わたしは顔が熱くなってしまう。


「会えますようにって願掛けしてんでしょ?」


 寧々ちゃんがわたしのカバンを指差した。持ち手には、幸運のお守りがぶら下げてある。三日月形の銀製のプレート。


 最近、女子の間で流行りの「恋に効く天体アミュレット」シリーズだ。わたしは三日月のモチーフを選んで身に付けている。


 後ろから聞こえていた足音が、わたしたちを追い抜いていく。女子が二人、パタパタ走って行った。


「文徳センパーイ!」

「おはようございまーす!」


 二人は伊呂波先輩に声をかける。


 先輩が足を止めて振り返った。いつもの笑顔。先輩に追い付いた女子二人は、すごく嬉しそうに先輩と話し始める。


 わたしは心を決めた。


「よしっ、わたしも行ってみる!」


 カバンを胸に抱えて走り出す。もともと足が遅いうえに、カバンが重い。すぐに息切れしてしまう。それでもわたしは伊呂波先輩へと走る。


 わたしが追い付くより先に、伊呂波先輩がわたしに気付いてくれた。軽く右手を挙げる仕草が、キラキラしている。


「おはよう」


 爽やかな笑顔の先輩の前で、わたしはやっと足を止めて息を整えた。


「お、おはよう、ございますっ」

「そんなに走って、どうしたの? 何か急ぎの用事?」

「あ、いえ、その……」


 伊呂波先輩を見付けたから思わず走ってきました! って言えたらいいんだけれど。


 先に走って行った女子二人は、校章の色を見るに、一学年上みたいだ。先輩女子二人は、クスクス笑った。


「文徳先輩、鈍感ー! その一年ちゃんも、うちらと一緒ですよ? ね、そうでしょ?」


 共犯者って感じの笑顔を向けられる。ライバル、じゃなくて。


 伊呂波先輩は、自分の栗色の髪をくしゃくしゃした。赤みがかった茶色の目が、優しく微笑んでいる。


「あんまりおれをからかうなよ。最近、何をするにも期待されすぎてて、クリアするのも必死なんだぞ」


 伊呂波先輩は生徒会長だ。去年のオープンキャンパスで登壇して挨拶をする姿は、一瞬でわたしの目に焼き付いた。入学式でも登壇していた。やっぱりカッコよかった。


 背が高くて、凛とした美形。進学科で、成績はトップクラス。スポーツもできる。何をやっても完璧。ほとんど超人っていえるくらいだ。


 ふと、わたしは伊呂波先輩の大荷物に気が付いた。左肩に引っ掛けた、黒い大きなケースだ。もしかして、ギター?


「伊呂波先輩って、楽器をされるんですか?」

「ああ、バンドやってるんだ。ギターだよ」

「バンドまでやってらっしゃるんですか! 素晴らしいです!」


 伊呂波先輩が白い歯を見せて笑った。社交辞令的な笑顔じゃなくて、今のは本物の笑顔だ。


「楽しそうなことを全部、やってみてるだけだよ。実際、バンドはとても楽しい」

「いいですね。充実した高校生活、うらやましいです」

「鈴蘭さん、だったよね? まだ学校には慣れない?」


 いきなり名前を呼ばれて、びっくりした。ますます胸がドキドキする。


「す、少しは慣れてきました。でも、戸惑うことがまだ多くて。あ、だけど、校舎内の配置は覚えました! もう迷いません」


 わたしと伊呂波先輩の出会いは、わたしが校内で迷ったせいだった。


 昼休みに職員室に用事があって、五校時の移動教室は職員室から直接向かおうと思った。そうしたら、自分の場所がわからなくなって右往左往。そこを偶然、伊呂波先輩が助けてくれた。


「また何か困ったら、頼ってほしいな。そういうのも、生徒会の仕事だから」


 そう、仕事だ。

 わかっている。伊呂波先輩は誰にでも親切だ。わたしにだけ優しいわけじゃない。だけど、わたしはそういうところが好き。公平で、大人っぽくて、すごい人だ。


「わたしも生徒会に入りたいです。次の選挙の時期までに、学校のことを覚えます。伊呂波先輩とは一緒に仕事できないけど」


 伊呂波先輩は三年生。任期はあと半年だ。


「おれの代わりに生徒会を盛り上げてよ。よろしくな」

「はい!」

「それと、伊呂波先輩って呼び方なんだけど。弟とおれと、まぎらわしいんだ。文徳って呼んで。おれも下の名前で呼ばせてもらうし」

「文徳先輩、ですか」


 ふみのりせんぱい。すごく距離が近い気がしてしまう。響きがくすぐったい。


 そっか。下の名前で呼ぶのが文徳先輩のスタンダードなんだ。だから、さっき、わたしのことを鈴蘭って。


 突然。


「おい、兄貴」


 その声は、空気をまっすぐ貫いた。

 大声ではなくて、むしろ、ささやきに近い。けれど、ピシリとよく通る声だった。


 声の主は数歩先にいた。その姿に、わたしは思わず息を呑む。


 銀色の髪、金色の瞳。両耳にはリングのピアス。長めの前髪に隠れがちの、不機嫌そうな無表情。切れ長な目、スッとした鼻筋、薄い唇は、作り物みたいに整っている。


 着崩した制服の、見るからに不良だ。


 不良っぽい銀髪の人がわたしを見た。金色の目には温度が感じられない。この人が、文徳先輩の弟? 確かに顔立ちはよく似ている。背は、文徳先輩のほうが高い。


 銀髪の人はクルッと背を向けた。


「兄貴、遅い。先に行くぞ」


 低い声なのに、響く。クリスタルの結晶みたいな声だと、なんとなく感じた。男の人の声を透明だと感じたのは初めてだ。透き通って、尖っていて、冷たい。そして、とてもキレイだ。


 文徳先輩が肩をすくめた。


「あいつがおれの弟のあきら。普通科の二年だよ。愛想がなくて、悪いな。おれのバンドのヴォーカルなんだけど。歌うとき以外はずっとあの調子なんだ」

「歌う人なんですね。声、印象的ですもんね」


「あ、わかる? あいつの声、いいだろ? 兄弟なのに、声は全然違う。あいつだけ、ほんとに特別な声してるよ。おれ、あいつの声が好きでさ。よかったら、聴きに来てほしいな」

「機会があったら、ぜひ。文徳先輩がギターを弾くところも見たいです」

「ありがとう。まあ、そのうちね。じゃあ、おれ、煥を追い掛けるから」


 チラッと手を振った文徳先輩が、軽快に駆け出した。


 文徳先輩が煥先輩に追い付いた。あ、やっぱり文徳先輩のほうが背が高い。二人とも脚が長いな。


 笑いながら煥先輩に話しかける文徳先輩の横顔は、生き生きとして楽しそうだ。生徒会長としての堂々とした姿もカッコいいけれど、あんなふうに普通に楽しんでる姿もいい。何もかもがカッコいい。


 朝から幸せな気分だ。体がふわふわする。


「お嬢、よかったじゃん! 名前、覚えてもらってんだね!」


 いつの間にか、寧々ちゃんが隣にいた。

 尾張くんは、いつになく目を輝かせている。


「煥先輩、カッケェよな。すげぇ強いんだぜ。強すぎて、銀髪の悪魔って呼ばれてんの」

「銀髪の悪魔? 強いって、ケンカのこと?」

「当然。それに、バイク乗っても速いって噂だ。すげぇよな」


 男子の「すごい」の基準はよくわからない。ケンカが強いことって、ステータスなの?


「暴力は好きじゃないな」


 思わず本音をこぼした。

 博愛主義者を名乗るつもりはないけれど、暴力で相手を屈服させるのは道徳に反する。いじめと同じだと思う。そういうのは嫌い。


 尾張くんがオレンジ色の髪を掻いた。


「あー、そうだったな。うん、変な話して、悪ぃ」


 オレンジ色をした尾張くんの髪は、校則で認められている。去年から、襄陽学園では髪の色が自由だ。文徳先輩が生徒会を率いて先生方に掛け合って、髪の色を含むいくつかの規制を撤廃したんだって。


 わたしは髪を染めることには興味がないけれど、文徳先輩が掲げる「自立」というモットーは素晴らしいと思う。自立こそ、わたしの目標だ。


「頑張らなきゃ」


 文徳先輩に振り向いてもらいたい。今はまだ、たくさんのファンの中の一人。だけど、いつか特別な一人になりたい。


「お嬢、ほら、突っ立ってないで。ボーッとしてたら遅刻するよ」

「あ、うん」

「あーぁ。ついにお嬢にも好きな人ができちゃったか。あたし一筋だと思ってたんだけどなー」


 寧々ちゃんがいじけたふりをする。わたしは寧々ちゃんの腕に自分の腕を絡めた。


「そんなこと言って、寧々ちゃんだって尾張くんがいるでしょ?」

「タカより断然、お嬢が好き!」


 寧々ちゃんが高らかに宣言する。尾張くんが思いっきり顔をしかめた。


「おまえら、いい加減なこと言ってんじゃねぇよ!」


 生徒玄関で寧々ちゃんたちと別れた。靴箱のところでクラスメイトと一緒になったから、数学の宿題のことを話しながら教室へ向かう。


「おはよう」

「あ、おはよ」


 気楽な挨拶が飛び交う。


「安豊寺さん、さっき、文徳先輩と話してなかった?」

「話してたよ」

「ずるいー!」

「えへへ、ずるいでしょ?」


 襄陽学園の進学科にしてよかった。価値観が似ている人が多い気がする。似てなくても敵じゃなくて、違う価値観に対して大らかだ。自分に自信があるから、ブレないのかな。


 中学時代はこうじゃなかった。わたしのことを嫌いな人は最後まで嫌っていて、寧々ちゃんの目を盗んでの嫌がらせが絶えなかった。


「数学の課題、解けた?」

「一つわからなかったよ」

「だよねー。高校の数学、ヤバすぎるって」

「ヤバすぎるね。進学科だもんね」


 恥ずかしながら、わたしは数学が苦手で、授業開始から一週間にして、もうふぅふぅ言っている。


 頑張らなきゃね。文徳先輩みたいに。

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