第33話本当の夜

二人はやっと食欲も満たされて、ホッと一息ついていた。リビングのふわふわの椅子に深く腰かけていると、思わず知らず眠気が襲って来る。ふと見ると、星路が横で、あやめの肩を抱いたまま、うつらうつらとしていた。起こすのがかわいそうで、その寝顔を見つめているうちに、あやめもついつい寝入ってしまった…いろいろあった…本当に疲れた。

最後に見た時計は、まだ夜7時だった。

「あやめ。」

星路の声が呼んでいる。あやめは、遠くから聞こえるようなそれに、最初は微睡んでいたが、ハッとして目を開けた。ここ、ソファの上じゃない。

「せ、星路。」あやめは、言い訳がましく言った。「ごめんね、ついうたた寝しちゃって。そこそこの時間になったら、起こすつもりだったのに。」

時計は、もう夜中のニ時を過ぎている。私ったら、星路と一緒に七時間も寝てしまった。いつもなら0時に寝て7時前には起きるのに、これじゃあ睡眠時間がこれで終わってしまったようなものだわ。

当然のことながら、夜中なのでまだ外は真っ暗だ。すっきりと起きてしまって、このまままた寝れるかどうか疑問だと思っていると、星路が言った。

「オレは、ちょうどよかったと思ってるんだ。」星路が真面目な顔で言った。「なあ、あやめ、今夜こそ本当に結婚しよう。」

あやめは、途端にドキドキした。ああ、そうだった。あれがまだだった。でも、今度こそ結婚したんだから、覚悟しないと。

あやめは、赤くなって来る頬を隠すように下を向きながら、頷いた。星路はそれを見て意を決したようにあやめを抱き上げると、寝室へと向かった。

いつものキングサイズのべッドが出迎えてくれる。星路と二人でその上に沈みながら、あやめは星路の口付けを受けた。星路が、部屋の灯りを落としたのが分かる。きちんと考えて順を追っている星路に、あやめは感謝した。何しろ、自分も何も知らないし、知っているのは雑誌とかのそういうコーナーや小説の中ぐらいのものだし、同じようにそんな文献から学んでいるであろう星路が、その文献と同じように進めるのが安心出来たのだ。違うように進んだら、翻弄されてしまう。分からないから、さすがのあやめも怖かった。

星路は言った。

「とにかく、オレは知らない。お前も知らない。だから、何かおかしいと思ったら、お互いに言おう。分かったな?」

あやめは頷いた。

「うん。」

そうして、あやめは星路の腕に抱かれて、その夜を過ごした。

そして二人は、本当に心も体も愛するということを、やっと知ったのだった。


目が覚めると、朝日が窓のカーテンの隙間から差し込んでいて、夜が明けているのを知らせていた。ベッドサイドの時計を見ると、もう9時だった。あやめは、気だるい体で寝返りを打とうとして、拘束されているように感じて見上げると、星路があやめをガッツリ抱き締めて眠っていた。

あやめは、自分も星路も服を着ていないのを見て取って、頬を染めた。そうだった、私達、昨日…。

「ん…」

星路が、あやめの動きを感じ取って目を覚まそうと動いた。あやめは焦った。いったい、どんな顔をしたらいいの。

あやめが心の中で右往左往しているうちに、星路は瞼を持ち上げてその青い澄んだ目であやめを見た。そして、あやめを見とめると、微笑んだ。

「あやめ…おはよう。」

あやめは、まだ顔が赤いまま、その目から視線をそらすことが出来ずに答えた。

「お、おはよう、星路。」

星路は微笑んで、まだじっとあやめを見ている。あやめはますます恥ずかしくなって、星路の胸に顔をうずめた。

「ごめん…まだ恥ずかしくって。」

星路は、そんなあやめを抱き締めながら笑った。

「なんだ、恥ずかしいって?もう全部見ちまったんだし、いいじゃないか。結婚したらいいと言ってただろう。これで風呂も一度に入れるから、風呂の間離れてなくていいな。」

あやめはびっくりして星路を見上げた。

「え、一緒に入るの?」

星路は眉を寄せた。

「どうして別々に入るんだ?」

本当に疑問のようだ。あやめは、説明してもきっと分からないだろうし、それが当然だと思ってるんだからと、仕方なく頷いた。

「そうね。一緒に入ろう。」

星路は満足げに頷いた。

「これで他の男に何も言わせねぇ。それに、悟の奴にも結婚してるんだからって言えよ。お前、どうもはっきりものを言わない時があるだろう。言わなきゃ分からないこともあるんだからな。」

あやめは、そこは反省した。

「うん。ごめんね、ちゃんと言うから。」

珍しく素直に頷くあやめを見て、星路は軽く口づけると、伸びをした。

「あ~また腹が減った。人ってのは燃費が悪いな。リッター何キロだ。」

あやめはプッと噴き出した。

「もう、いやあね星路、人は車じゃないんだから。」と、脇に落ちた服を拾い上げると、サッと手を通した。「じゃあ、朝ごはんを作るわ。待ってて。」

星路は黙って頷くと、あやめを見送った。これが、人の幸せ…。

星路は、寝室に入って来る日差しを見ながら、それを噛みしめた。


そうして、約三か月の間、星路とあやめはほとんどをこちらの世界で過ごした。

悟が退院して復帰して来るまでの間、事務所は閉めていたのだ。そして、悟はNPO法人の枠組みを考えると言って、一度従業員を解雇と言う形で解放していた…きちんと、三か月分の給料は渡してくれた。

そしてまだ思案中の悟に度々呼び出されては、図書館やその他行政機関をめぐる手伝いをするために、あやめと田島だけは悟の事務所をボランティアで訪ねた。それでも、仕事のそれと比べると僅かな間で、あやめは星路との新婚ライフを存分に楽しむことが出来た。二人であちらの森を探索したり、街を詳しく見て回ったり、やっと夫婦らしくなって来たように思っていた。

そんな毎日の間に、あやめの左手の薬指には、銀の指輪が光るようになった。悟が、それを見て顔をしかめた。

「…あやめちゃん、もしかして、それって彼氏居ますのアピールか?」

あやめは、首を振った。

「もう、悟さんったら。これは結婚している証ですわ。星路が、あちらの店で選んでくれました。れっきとした結婚指輪なんです。」

悟は、わざとその手を握った。

「そんなことは気にしない。オレだってこうして独り身に戻ったんだし、あやめちゃんだって可能性はあるだろう。違うか?」

「え…、」

悟の顔が近付いて来る。あやめが固まっていると、星路の声が割り込んで、ぐいとあやめを引っ張った。

「こら、悟!何度言ったら分かる!これはオレの嫁だ!」

星路が、人型になってぜいぜいと息を切らせていた。慌てて人型になって、駐車場から走って来たのだろう。最近では、星路は玉をダッシュボードに入れて置けと言う。そうすることで、こうして自分のいいようにこっちでも人型になれるからだ。

悟が、星路を見てふて腐れたように横を向いた。

「なんだ、星路。いつもいつも邪魔をして。普通、職場にまで付いて来る夫は居ないぞ。」

星路は唸った。

「良識のある上司だったら、オレだってここまで割り込みゃしねぇがな。お前、オレが車だと思って結婚なんてままごとだとか思ってるんだろう?スカイラインが言ってたぞ。」

悟は不機嫌に呟いた。

「…あいつ、寡黙だったのに、最近はよくしゃべるようになっちまって。」

悟は、スカイラインと毎日話すようだ。星路はその青い目で悟を睨み付けながら言った。

「あのなあ、あやめが問題ない時は、きっちり毎晩人らしいことはやってるし、一日だって欠かしたことはないぞ!オレのこの体の、どこに欠陥があるってんだ!」

あやめは絶句した。何て事を言うの!

悟は、まじまじと星路を見て、はーっとため息を付いた。

「分かったよ。体格のことを言われたら敵うもんか。オレもジムにでも通ってそれぐらいの体格を目指してやるからな。覚えとけよ、星路。」

星路はフンと横を向いた。

「さ、あやめ、もう終わったろう?帰って、今日はあっちで飯食いに行く約束だ。行くぞ!」

あやめは、星路に引きずられるようにそこを出て行く。悟が星路の指にも、同じ指輪が光っているのを見て、またため息を付いた。オレは困難な恋愛ばっかりするなあ…。

「じゃあ、悟さん、また来週来ますから!」

悟はあやめに頷いて、それを見送った。


そうして、あやめはまた、あちらの世界で星路と夫婦として暮らしていた。

こちらの物達のことは心配なので、一週間に二度は戻って回りの車達に何かないか聞いている。そのうちにまた、悟が本格的に事務所を開いたらこちらメインの生活になるのかもしれないが、まだ考えていなかった。

ただゆるゆると、こうして星路と共に居られるのが、あやめは幸せだった。

思えば、ほんの五年前、星路が自分に話し掛けたのが、全ての始まりだった。心の底から星路を愛している…そして、愛されている。

あやめは、その幸せに酔いながら、今日もまた星路の胸に寄り添って、共にあちらの世界の街並みを歩いたのだった。

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時速200キロの恋人 @koikikoikoi

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