第2話 「好きなひとが居るんです」


 すっかり陽が傾いてしまった。

 黄昏時という言葉がよく似合う金色の図書室は、気が付けば無人になっていた。いつもはカウンターに居る図書委員も、今は司書室に籠っているらしい。ただでさえ静かな空間が、自分の鼓動が聞こえそうなほどの静寂に包まれている。


 私はあまり本を読む方ではないが、週に一回はこうして図書室へと訪れる。本を読み借りするというのもあるが、目的は他にもある。


 入り口から一番遠い、窓際の席。

 いつも、穂垂が座る席。

 私が決まって腰を下ろすのは、その隣の席だ。

 なんて邪。

 わかっていた。

 けれども、彼女を取り巻く空気の欠片が僅かに残されているような気がして。


 すうと深く息を吸い込む。

 古書独特の香り。

 初めて彼女を見たあの瞬間が甦る。

 彼女の横顔に、目が眩んだ、あの――


 はっと我に返る。

 太陽は更に高度を落としている。


 帰ろう。


 私は読みかけの本を元あった場所へと戻し、荷物を纏めて図書室を後にした。



 * * *



 昇降口を抜けて、駐輪場への近道にと中庭を抜けようとしたそのとき、不意に耳に飛び込んできたものは。


「好きなんだ。付き合ってくれないかな、」


 ついてない。

 もしかしなくても、私は告白シーンに出会してしまったらしい。

 邪魔をしてはいけないと、音を立てずに引き返そうとした瞬間


朽木くつきさん」


 耳を疑った。

 朽木と言えば、彼女の


「ごめんなさい」


 この涼やかで、清かな声は、


 穂垂。


 私は息を潜めて、校舎の外壁に張り付いた。立ち聞きなんてはしたない行為、本当はしたくないけれど。私にとっては一大事なのだ。申し訳なく思いながらも、耳を澄ませた。


「好きなひとが居るんです。なので、先輩の気持ちにはお応えできません。すみません」

「そっか……ごめんな」

「いえ。僕のことを好いてくれて、ありがとうございます」


 足音が遠くなる。先輩とやらはもう行ったようだ。深く息を吐きつつ校舎に身体を預けた。背中の毛穴という毛穴が開き、冷や汗が噴き出す。


 好きなひと、居たんだ。


 予感めいたものはあった。

 穂垂は私に振り向かない。

 この恋は、咲くこともなく散る。

 そんな、予感が。


 胸が締め付けられるように痛む。

 諦めていた恋だった。けれど私は、確かに、あなたに恋をしていた。

 ぱきり。

 踏んだ小枝が小さく悲鳴を上げた。それは、何処か私に似ていた気がした。


「やあ。綾部くんじゃないか。どうしたんだい、こんなところで」

「朽木、さん」


 顔を上げると、彼女が居た。

 心の中でしか、名前を呼べないひと。

 穂垂。


「もしかして、聞かせてしまったかい? さっきの」

「ご、ごめんなさい! 私、悪気があった訳じゃなくって……」

「構わないよ。僕は気にしない」


 大きな目を僅かに細めて、彼女は言った。


 穂垂は文学の中の少年のような言葉を遣う。美しい少女の容貌に似合わぬはずのその言葉は、何故か妙に釣り合いが取れていた。

 古めかしい少年の言葉は、年頃の少女の柔らかな甘みを孕んでいる。


「朽木さん、」

「なんだい」

「……好きなひと、居たのね」

「ああ、うん。居るよ」


 涼やかな顔で、彼女は頷いた。

 私ではないことは確かだろうと、何処か遠い場所でぼんやりと思う。


「君の知っているひとだよ」


 彼女は歌うようにその言葉を紡いでみせた。


 心臓が痛い。

 聞かなければよかった。


 諦めていた恋心に、自分で止めを刺すなんて。


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