第32話「私を見ないで」

 全校生徒が下校する時間が訪れた。

 自国は午後五時、一斉に生徒は締め出される。

 それは、明日が文化祭当日でも変わらない。二日間の日程と後夜祭こうやさい私立萬代学園高等部しりつばんだいがくえんこうとうぶの、最も華やかで騒がしい土日が始まろうとしていた。

 だが、日陽ヒヨウいづるの気持ちは晴れない。

 追い出しのチャイムが鳴る中、心ここにあらずだ。

 そんな彼を隣で心配そうに覗き込んでくるのは、幼馴染なお隣さんこと楞川翔子カドカワショウコだ。


「いづちゃん、ちゃんと玲奈レイナ先輩と話したらぁ?」

「ん、それが……全然取り合ってくれないんだ。僕、避けられてる」


 玄関には西日が差し込み、斜陽の中で誰もが家路につく。

 だが、下駄箱げたばこまで来ていづるは、今日何度目かの溜息をこぼした。

 同じ家に住んでいるので、帰宅後もチャンスがある。だが、同じ食卓を囲んで同じ風呂に入っても、避けられているという現実に直面するだけの日々は続いていた。

 確かにいづるが悪い、誤解を招くようなことをしていたのは落ち度だ。

 それでも、一切の弁明を拒否し、いづるごと拒絶する玲奈も玲奈だ。

 そうは思うが……やはり、彼女を裏切ったのはいづるなのだ。

 そうこうしていると、翔子が「あーっ」と声をあげる。

 顔を上げたいづるの前に、腕組み仁王立ちになった一人の少女がたたずんでいた。


「いづる様っ! なにやら最近、浮かぬ顔ですわ……どうされたのかしら」


 そこには、燃えるような夕日より真っ赤な髪を立て巻きロールにした、古府谷文那フルフヤフミナが立っていた。今日も今日とて、堂々たる存在感である。

 彼女はいづるに向かって、強い歩調で歩み寄ってきた。

 思わずいづるは、玲奈との関係がこじれた現況でもある彼女を恨めしく思う。

 そういう気持ちが自然と、つい文那へとがった言葉を投げつけてしまった。


「文那先輩、なにか用ですか?」


 だが、文那は小さく笑って下駄箱に寄り掛かる。


貴方あなたを笑いに来ましたの……そう言えば貴方の気が済むのかしら?」

「……笑えない状況になってますけどね」

「ええ、わたくしの耳にも噂が届いてますの! ……わたくし、はっきり言ってチャンスですわ。そして、チャンスは最大限にかす……それがわくしの流儀ですの」


 そうは言いつつ、普段と違って文那は身を寄せてこない。

 いつもいつも、本当にいつもいつも、彼女のスキンシップは過剰で密着度が高い。押しの強さでグイグイくるのが文那なのんだが、彼女は夕焼けの中で意味深な笑みを浮かべているだけだった。

 逆光でよく見えないが、きっと彼女は言葉通り笑っているのだろう。


「……文那先輩のせいで、玲奈さんに誤解を与えてしまった。あ、いや……傷つけたのは僕で、そのことを挽回できていないのも僕自身か」

「いづる様、一つ勘違いをなさってますわ」

「勘違い?」

「ええ、とても大きな勘違いを」


 あうあうと緊張感の中で、翔子が落ち着かない様子だ。

 だが、そんな彼女を真ん中に挟んで、いづるは文那の言葉にさらされ続けた。

 普段なら、文那はこれぞ好機とばかりにいづるにまとわりついてくる筈だ。それが自惚うぬぼれだとわかっていても、現状は不思議である。現に彼女は、チャンスだと言ったのだ。いづると玲奈が仲違いを起こしたまま、擦れ違い続けている現状を見て。

 文那はまるで、いづるを試すように言葉を続ける。


「あの日、いづる様と過ごしたのはわたくし……わたくしといづる様は一緒でしたわ。どうして一緒の二人の片方、いづる様だけが責任を感じてますの?」

「じゃあ、文那先輩は――」

「勿論、まっ! たく! ぜんっ! ぜんっ! 悪いと思ってませんの」

「……なんの話をしてるんですか、いったい」


 思わず苛立ちが声のトーンを変えてしまう。だが、いづるはそれを制御する平常心を失いつつあった。それなのに文那は、普段にもまして堂々として傍若無人ぼうじゃくぶじん唯我独尊ゆいがどくそんのマイペースを貫いている。

 文那はやはり、どこか玲奈に似ていた。

 そして、玲奈とは違う別人である。

 玲奈との距離感が生んだ喪失を、文那が埋めてくれると思うなら……それこそいづるは、自分で自分のことを軽蔑してしまうだろう。今までつちかってきた友人たちとの友情にも、合わせる顔がない。

 そんないづるに、文那の声が少しだけ優しくなった。


「わたくし、今ならいづる様をとりこにする自信がありますわ……軟弱者なんじゃくものって、かわいいんですもの」

「っ! 僕は、軟弱者なんかじゃ」

「あの日の共犯者は、いづる様……わたくしの共犯者は、幼馴染の恋路を心配し、それを阿室玲奈アムロレイナが引き裂こうとしているのを心配していた。そういう人でしたわ」

「あ、いや、あれは……引き裂くっていうより、むしろ逆で」


 そこまで話したら、間で聴いていた翔子が「おおーっ!」と手を叩いた。

 彼女はようやく、自分の初デートが事件に関わっていることを知ったようだ。


「ひょっとして、いづちゃん……あの時、わたしと真也シンヤ先輩のデートを」

「あ、うん……ごめん」

「そっかぁ、玲奈先輩だけじゃなかったんだあ」

「あれ? えっと……知ってた?」

「あんなの、バレバレだよう~! ふふ、あの格好にサングラス……ちょっとーねー、思い出してもぉ……ふふふふふ! ……でも、玲奈先輩は心配してくれたんだよねえ」


 ほんわりと喋る翔子の言葉尻を、文那が拾う。

 沈む太陽の最後の残滓ざんしで、赤い影は表情を見せぬまま喋り続けた。


「いづる様……わたくしが愛する共犯者は、どんな時も諦めない不屈の精神を持ってたはずですわ。そして、優しい……優し過ぎるから打たれ弱い。でも、打たれて弱いままで終わる方ではないと、わたくしは信じてますの」

「文那先輩……」

「戦って、いづる様。わたくしの手に捕まらぬようあらがいなさいな? それでも阿室玲奈に見捨てられたら、わたくしが全身全霊を賭けて愛してあげてよ」

「戦う……僕が。抗う」

「ええ。こんな終わり方でいいというなら、……わたくしはいづる様のことを嫌いになれない。でも、そんなわたくしをいづる様はきっと。だから」


 翔子も黙ってしまった。

 すでに無人になりつつある校舎の玄関で、いづるは握る拳の中に熱を感じる。

 思い出す度にいつも、いづるの側には玲奈がいた。

 彼女を普通の女の子として扱い、自分の好きな人だと伝え、恋と愛とを知った。

 その全てを諦めるとしても、まだいづるはなにもしていない。

 なにもさせてもらっていないのだ。


「……僕は確かに軟弱者かもしれない。……」

「ええ、いづる様!」

「そうだよ、いづちゃん!」

! このまま終わるのは嫌だ。ここから先は玲奈さんが選ぶとしても、僕がどうなるかより、今は玲奈さんの傷付いた気持ちにこそ向き合わなきゃいけない!」


 大きく翔子がうなずいた。

 文那は下駄箱に寄りかかったまま腕を組み、外を向いた。

 夕闇が迫り、陽の光は消え去った。

 ようやくはっきり見える文那の肩は、何故か小刻みに震えていた。

 翔子がポケットからハンカチを取り出した、その時だった。

 いつもの勝気で強気な声がりんと響いた。


「……まだ生徒会室にいると思いますわ。行くなら急ぐ! 言ってくださいまし、いづる様! なにも考えずに走れ、ですわっ!」

「うん……翔子! 悪いけど一人で先に帰ってて! 僕は……玲奈さんと一緒に帰るから」


 返事も待たずにいづるは走り出す。

 ここ最近は文化祭の準備で忙しく、玲奈はいつも帰りが遅かった。天驚軒てんきょうけんでのアルバイトも休ませてもらってる。生徒会の仕事は多岐に渡り、その多くが副会長である玲奈の目を通してから決済されるからだ。

 最後に一度だけ、いづるは振り返った。

 背を向けた文那は、翔子に付き添われてゴシゴシと顔を擦っている。

 だが、いづるの視線を感じたのか振り向かずに叫んだ。


「行きなさい、いづる様! わたくし、こんなことでは諦めませんわ……あの女、阿室玲奈と正々堂々雌雄を決して、阿室玲奈と結ばれたいづる様を奪ってやりますの! だから」


 いづるは自然と、文那の背に一礼した。

 そして、再び校舎の中を走り出す。

 既に大半の生徒が出払ってるし、今年は徹夜で準備をするクラスはなさそうだ。ここ最近は風紀も厳しくなったし、生徒会ではなるべく前日徹夜組が出ないようにスケジュール管理を徹底していた。

 そう、玲奈は忙しくアチコチを手伝っていた。

 副会長として巡回し、各クラスや部活、同好会を査察していた。

 同時に、作業の遅れてる場所では自ら参加して手伝っていた。

 副会長である以上に、彼女は率先して自分から動くことをいつも選んでいた。

 そんな玲奈に、いづるは今まで言い訳を並べようとしていただけだ。

 だが、今はそれよりなにより伝えたいことがある。


「玲奈さんに必ず伝えてみせる、もう一度、もう一度だけでいい……ちゃんと話すんだ。だから――」


 初めていづるは、人ならざる存在に願って祈る。

 望みをたくすのではなく、己の力だけを望む。

 祈ればそれは、絶望した時に呪いへと変わる。

 結果に関わらず、いづるは今の気持ちと行動に正直でいたいのだ。


「神様――もし、本当におられるのでしたら……決着は僕の手でつけます。どうか手を、お貸しにならないで――」


 いづるに信仰心はないが、信じる心を注ぐ人がいた。

 神を信じてはいないが、その人こそが女神だった。

 だから……その存在に甘えて犯した罪を今、精算する。

 暗闇が迫る校舎を、いづるは生徒会室まで全速力で走った。

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