魔術師の首輪

南枯添一

第1話

 グラスをカウンターに戻して、ふと顔を上げると、目の前に魔術師が立っていた。

 その男をなぜ、魔術師と思ったのかは分からない。黒の燕尾服にシルクハットまで抱えていたからか、端正すぎてお面のような顔に、バカ丁寧な人を喰った笑みを浮かべていたからか。

 魔術師は一礼をして、「御退屈ですか」と尋ねた。

 つまらない芸に付き合わされてはたまらない。そう思わないではなかったが、退屈しているのは確かだった。だから、彼は肯いた。

 魔術師は再び一礼をして、今度は若い女性に声を掛けた。彼女もカウンターに、彼からは少し離れて座っていた。

「御退屈ですか?」

 女性は慌てたようだった。まだ二十歳にはなっていないだろうと思えるほど若く、身なりや雰囲気は清楚で、こんな店にいること自体が何かの間違いのようだった。

「え…ええ」

 彼女は戸惑いながら肯定した。鼻とか口を描く描線が少し固すぎるきらいはあるものの、まずは十人並み以上の美少女だった。その大きな目で瞬きを繰り返しながら、

「あの…なにか?」

 魔術師は再び取り澄ました一礼をして、懐から、鎖につながれた銀細工を取り出した。それは円周に沿って宝石の埋め込まれた環で、何か巧妙な仕掛で、淡いブルーの球体がその中央に、支えもなく浮いているように見えていた。

「お嬢さん」

 言いざま、魔術師はその環を少女の顔の前にかざした。青の球体は酒場の薄暗い灯りを集めて、キラキラと輝いて見えた。少女の視線はその輝きに吸い寄せられて動かなくなった。

 当然のように魔術師は環を揺らし始め、はっきりとは聞き取れない呪文を唱えた。少女の目から元あった理知的な輝きが薄れ、虚ろな孔の如くになった。

「お嬢さん。あなたはもう、人ではありません。獣です。お嬢さん、あなたはこの男性に欲望を感じていましたね。人としてのルールは今あなたの中から消え失せました。これからはその欲望に忠実な、野生の獣となるのです。ほら、もう人間の言葉なんて、あなたには分からない。うなってご覧なさい」

 少女は鼻翼を膨らますと、大きく、「ううう」とうなった。それは先ほどまでの、魔術師の言葉に戸惑っていた少女の淑やかな物腰からは、想像もできない荒ぶり方だった。

 魔術師が手を振ると、少女は自身のスツールを離れた。前屈みになって、低いうなり声とともに彼の傍まで来た。膨らませたままの鼻を彼の身体に付けて、盛んに匂いを嗅いだ。

「こらこら」

 たしなめるようにつぶやきながら、魔術師は少女の首に首輪をはめ、その先を彼の手首につないだ。

 そうして、魔術師はまたも一礼をし、彼の方はグラスをかざして、答えた。

「お嬢さんの欲望を満たしてあげようとお考えなら、どうぞ、この首輪をお外しになって下さい」

 なるほど、そう言う趣向か、と彼は考えていた。

 この娘はこの店のコなのか、それとも街娼の類いなのか。そうは見えないが。まあ、退屈の虫を退治するのは到底無理だが、少なくとも無聊は慰めてくれそうだ。

「君は何を呑む?」

 彼の掛けた言葉にはうなり声が返ってきた。

「いいんだよ。もう」

 重ねて、そう言ってみたものの、少女の方はバカな小芝居を終りにする気はさらさらな無いようだった。首輪につながった鎖を相手に噛みついている。これさえなければと、彼を睨めつける。

 彼はため息を吐いて杯を重ねた。

 少女は変わらず、鎖に噛みつき、彼の匂いを嗅いで、うなっている。

 ふと、彼の心に不安が兆した。少女の演技は度を超している。それに彼女の目は本当に魂を抜かれた人形のようで、あまりに真に迫っている。

 まさか、本当に?

 彼はバーテンダーに、今ここに魔術師、いや、燕尾服の男を見かけなかったかと訊いた。

 半ば覚悟していた「否」と言う返事ではなかった。その男なら、あっちへ行ったとバーテンダーは店の奥を指差した。

 スツールを降りた彼は首輪につながる鎖を外そうとして、手首を見て、その先が手錠になっていることに、そのとき気付いた。これでは少女も連れて行くしかない。

 言葉だけでなく、二本足で歩くことも忘れてしまったらしい少女を、彼は抱き抱えるようにして進んだ。

 店の奥まで来ると、黒い壁が彼らを遮ぎった。彼は、手探りで黒い壁に、細い切れ目を見つけた。

 切れ目の中の壁も黒く、通路は二人が並んで歩けないくらい狭かった。天井近くに豆電球のような、小さな灯りが言い訳のように光っている。

 彼の手を振り払って、四つん這いとなった少女は鼻を突き出すようにして、周囲の匂いを嗅いだ。

「魔術師の匂いを感じるかい?」

 たわむれに掛けた言葉に応じるように、少女はまるで猟犬のように彼を先導し始めた。狭い通路が二股、三股に別れる度、少女は決然とその一本を選んだ。

 通路はどこまでも続き、時に上がり、時に下りを繰り返して、アリアドネーの導きも無しに、ミノタウロスの迷宮に迷い込んだテーセウスの心持ちに彼がなりかけたとき、通路の果てに灯火と動く影が見えた。

 魔術師の姿が、その灯りの中に一瞬見えて、通り過ぎた。

 彼は駆け出そうとしたが、少女が邪魔になった。人は四つ足で俊敏に動けるようにはできていない。

 ダメだ、逃してしまう。そう思ったとき、なぜ、こんなことに気付かなかったのか、と天啓が降りた。

 彼の手首の方は手錠だが、少女の首輪はホックで留められているだけだ。こちらを外せばよかったのだ。彼はそうした。

 けれど、彼は忘れていたのだが、首輪を外すことは少女の欲望を開放することだった。「そう言えば、あいつは欲望としか言わなかったが」彼は最後にそんなことを思った。

 そうして、少女は彼を臓腑はらわたからむさぼり始めた。

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