第21話

 自転車は車道を走る。シャツの第二ボタンまで開け、ズボンを膝の位置で捲り上げていたって暑いものは暑い。車が通り抜ける度に排気ガスと熱風が僕を撫でていく。捲り上げたせいで何重にもなったズボンがより一層暑い。

 線路を左手に、立ち漕ぎでもぜんぜん進まない地獄のような長い長い坂道を上っていく。登校時には下り坂で気持ちが良いからプラマイゼロだ。遅刻ぎりぎりでかっ飛ばして走るときは電車と同じ速度で並んで走ることだって出来る。見通しもいいからそんなに危なくないし。ただ、もし、坂の勾配が逆だったらと考えると恐ろしい。朝からこの長い坂を上ることになっていたら、僕は自転車通学を諦めていただろう。

 家にたどり着いた僕は汗も拭かずに、CDを鞄に放り込んで再び自転車に跨った。真上にある太陽は日陰を許さない。湧き出る汗を拭い街路樹の道を進む。物の数分でメゾン中町が見えてきた。

 メールでは返事をくれないかもしれない。電話では顔が見えないから話しづらい。それならば、直接家に行ってしまえばいいのだ。姉と亜希子の家に遊びに行くときだって連絡もいれず直接家に訪問していた。こういう時、姉ちゃんならやっぱりそうするだろうな。無神経だったからなあ、あの人は。

 だけど、アパートの駐輪場に自転車をとめ、階段を上り亜希子の部屋に近づくと、やっぱり緊張してきた。なんて言おうか。邪険にされないだろうか。嫌われたらどうしよう。僕は姉とは違って繊細なんだ。

 廊下をうろうろしていたが、他の部屋から出てきたおばさんに不審な目で見られ、慌ててチャイムを押してしまった。

 反応は無い。もう一度押す。反応は無い。何故か安心している自分がいる。このまま出てこなかったら仕方ないと諦めて帰れる。って馬鹿か、何しに来たんだよ。この意気地なし。

 大丈夫だ、最悪CDを返しに来たって言えば話してくれるだろう。家に帰って取ってきたのは亜希子に借りた金比羅団のCDだ。裸一貫で突撃という男らしいことが出来ないのが恥ずかしいが、保険は必要なのだ。杞憂で終わればそれに越したことはない。いいんだ、これは用意周到と言うんだ。

 と、また自分に言い訳を始めそうになり首を振る。意を決し、もう一度チャイムを押そうとした時、インターホンを取る音がした。

「はい」

 やばい。出た。って当たり前だ。チャイム押しているんだから。

「あ、あの山井です。山井明信です。あの、亜希子さんいますか?」 

 声だと亜希子なのか、あのお姉さんなのかわからない。

「山井……、明信くん?って明信?」

 ガチャガチャとインターホンを切る音。そして静寂。直立不動で待っていると、部屋の中からどたばたと物音が聞こえてくる。しばらくすると慌てて玄関に走りよってくる足音。

 なんだ、なんだ。勢いに圧されて後ずさりすると、ドアが勢いよく開いた。部屋の中から血相を変えて出てきた女性は亜希子でもナオミさんでもなかった。


 亜希子に良く似た瞳。でも目じりには皺がある。亜希子と同じくらいの身長。でも亜希子より少し丸い体。そう亜希子の母、久恵ちゃんだった。


「あ、明信?」


 久恵ちゃんは随分驚いた表情をしている。


「あ、久しぶり……です」

 久恵ちゃんに敬語なんて使ったこと無かったけど、久しぶりに会うと、どんな口調で喋ればいいのか迷った。

「ホントに明信? 久しぶりじゃないの!こんなに大きくなって!」

 どこにでもありそうな常套句でひとしきり驚いてから、久恵ちゃんは目を丸くした。  

「あれ、でもなんでウチに?」

 首をかしげる久恵ちゃんは昔に比べて、やっぱりちょっと老けたような気もするけど、相変わらず綺麗だった。

 懐かしさがこみ上げてくるけど、今は再会を喜んでいる時ではない。

「あの、あっちゃんが、学校辞めるって聞いて……。今あっちゃんいます?」

 僕の言葉にちょっと目を伏せた久恵ちゃんは少し黙った。

「ちょっと待っててもらっていい?」

 久恵ちゃんは神妙な面持ちでそう言うと部屋の中に引き返した。でも、扉が半分閉まったところで動きを止めた。久恵ちゃんは何か考えているようだ。

「いいか……。明信だし。入って。うん入って」

「いいの?」遠慮がちに聞いたがあっさり「いいわよ」と言われ。玄関に足を踏み入れた。玄関には亜希子の学生靴と、この前履いていたスニーカーがちょこんと置かれていた。


 リビングに通され、初めて来た時に座ったソファに座る。リビングには亜希子の姿は見当たらない。


「お茶入れるね。紅茶でいい? あ、コーヒーのほうがいい?」

 台所から久恵ちゃんが聞いてくる。


「いや、紅茶で大丈夫。てか突然お邪魔しちゃってごめんね」

 久恵ちゃんの口調は昔と何も変わっていない。僕も釣られて昔のように話してしまっていた。


「いいのよ。明信だったらいつでも歓迎よ。そうよね。亜希子と同じ高校だったんだよね。亜希子も何か言えばいいのに」


 憤慨しながら綺麗なティーセットをお盆に載せてテーブルにやって来た。湯気の出る丸いティーポットを傾けると艶のある紅色の液体がカップに注がれた。

「アッサムティーだからミルク使ってね」

 流石久恵ちゃん。ミルクもちゃんとちっちゃいおしゃれなカップに入って出てきた。やっぱり僕の家とは違う。うちじゃ朝食の珈琲だって湯呑みで出てくるんだから。


「ありがとうね。亜希子のこと心配してきてくれたんでしょ」


  正面に座りやさしく微笑む久恵ちゃんはやっぱり亜希子の母親なんだ。当たり前のことだけどなんだけど、改めてそう思った。

「心配って言うか。なんか俺があっちゃんに悪いことしちゃったような気がしたから謝りたくって。あっちゃんいるの?」

「ええ。でも部屋からは出て来たくないみたい。引きこもってるわよ。この二日間」

 昼間は久恵ちゃんも仕事に出ているから、亜希子が昼間何をしているのかわからないらしい。ただ、部屋から出ていないということはわかると言う。

「電気も点けないで服も着替えないで、ぼさぼさの髪してるわよ。明信には見せらんないわね。あの格好じゃ」

 亜希子の様子を想像する。引きこもりと聞いて頭に浮かんだのはこの前夕方のニュースでやっていた太った男性だった。ゴミだらけの部屋で一日中パソコンをいじっているのだ。

 亜希子はそんな子じゃないと想像を打ち消す。でも、引きこもっていたら、そのうちあのテレビの人みたいになってしまうんじゃないかなあ。そうして次第に社会に適合出来なくなってしまうんじゃないかな。

「あっちゃん、なんであんな風になっちゃったの? 昔はもっと明るかったじゃん。姉ちゃんと俺をよくいじめてくれたのに」

「昔はアキちゃんの後をトコトコ付いてまわっていたものね。あっ……」

 久恵ちゃんは自らの言葉で一瞬表情を強張らせた。悟られないようにすぐに表情を崩したが、僕は見逃さなかった。

「久恵ちゃん、俺の姉ちゃんのことは知ってるの?」

 久恵ちゃんの瞳が泳いだ。

「……うん。聞いたわ、お母さんに。残念な事故だったわね……」

 この久恵ちゃんの様子は、僕が姉を殺したという事実に向き合っていない頃の母親と同じだった。残念な事故。そうやって僕を気遣ってくれているんだ。

 でも、僕はもう逃げないと決めたんだ。今は向き合うんだ。向き合えるんだ。そして、それは亜希子のおかげだった。彼女のおかげで僕は自分自身から逃げなくなったんだ。

「久恵ちゃん。きいて」 


 僕はこの五年間のことを話した。姉の事故のこと。元から姉がいなかったかのように振舞っていたこと。中学で亜希子が転校してきて、高校も同じところに進学したというのに、亜希子があっちゃんだと気づいていなかったこと。久恵ちゃんはうんうんとうなずいて聞いていた。話し終わる頃には久恵ちゃんの瞳は少し潤んでいた。

「晶子ちゃんのことは陽子さんから聞いていたわ。こっちに戻ってきた時にね」

 ごめんなさいね、とつぶやいて久恵ちゃんは鼻をかんだ。陽子とは僕の母の名前だ。そうだったのか。母と久恵ちゃんは引っ越した後も交流があったのか。母は僕には何も言わなかったが。なぜだろう。言ってくれればいいのに。

「辛かったんだよね。明信も」

「逃げていただけなんだよ。現実と向き合わずに」

 同情されると背中がむず痒くなる。

 母と久恵ちゃんは結構頻繁に連絡をとっているのだろう。

「あっちゃんがさ、気づかせてくれたんだ。あっちゃんのおかげで、現実と向き合えたんだ俺」

 亜希子は僕を救ってくれた。亜希子はそんなことはないと否定するかもしれないが、僕はそう思っている。

「あれ、そういえば、あっちゃんはうちの姉ちゃんの事故のこと知らなかったみたいだけど」

「ええ。亜希子には言えなかったのよ」

 久恵ちゃんはごまかすように紅茶を口に運んだ。

「あっちゃん、なんか昔に嫌なことあったんでしょ? 俺にも教えてくれないんだけど」

「亜希子から何か聞いたの?」

 僕の目を覗き込んでくる。心の中を読み取ろうとする目。

「色々あったって言ってた。でも、それが何なのか教えてくれなかったよ」

「そう」吐息を吐き、久恵ちゃんは座りなおした。

「何かあったって、そう亜希子が言ったのね。それだけでも、やっぱりあの子は明信のこと信頼しているってわかるわ」

 久恵ちゃんは微笑んだ。

「そうなの?」

「そうよ。今までは亜希子も忘れよう忘れようってしてたからね。でも、忘れたくても忘れられないものもあるじゃない。自分自身で折り合いをつけなきゃいけないのよ。悲しいけどね。親の私でもなんにもしてあげられないのよ」

 何が亜希子を変えてしまったのだろう。

「ねえ、教えてくれない? あっちゃんに何があったのか。俺、あっちゃんのおかげで姉ちゃんのこと、ちゃんと向き合えたんだ。俺もあっちゃんのために何かしてあげたいんだよ」

 久恵ちゃんは微笑んだまま答える。

「ありがとう。明信、いい男に成長したね。モテるでしょ」

「そんなことないよ」苦笑する。

「でもね、私は何も言えない」

 久恵ちゃんは笑顔のままだったが首を横に振った。

「本当に申し訳ないけど、亜希子にも聞かないでくれる? もしかしたら、この先ずっと言わないかもしれないけど」

「そうだよね」

 口元だけで笑ってみる。

「でもね、色々あったって明信に言うくらいだから、いつかは話すつもりなんだと思うわ」

 どうだろうか。言ってくれるのだろうか。僕には確信はなかった。

「でも、あっちゃんが学校来なくなっちゃったのは俺が原因みたいなもんなんだよ」

 僕の弱気な発言を久恵ちゃんは強く否定した。

「明信のせいじゃないわ、絶対に。それは安心して」

 その時、扉を隔てた廊下の向こうからドアノブを回すような音が聞こえた。僕がそちらに目を向けると久恵ちゃんが立ち上がった。

「亜希子よ。ちょっと待ってて」

 スリッパを鳴らして久恵ちゃんがそちらへ向かう。久恵ちゃんが部屋を出て行き、僕は耳を澄ませる。

「亜希子、明信が来てるわよ……、出てこない? ……いつまでも部屋にいたって仕方ないでしょ」

 聞こえてくるのは久恵ちゃんの声ばかり。くぐもった亜希子の声は微かに聞こえるが、何を言っているのかまではわからなかった。

 不思議、とまでは言わないが、意外だったのは久恵ちゃんの声色が叱咤するような激しいものではなく、優しく諭すようなものだったことだ。昔は大声で亜希子を怒鳴ったりしていたのに、今日は気を使っているみたいだった。

 話が終わったのか久恵ちゃんが戻ってくる。僕の不安そうな顔を見て久恵ちゃんは安心させるように微笑んだ。

「のど渇いたんだって。意外と元気そうな顔していたわよ」

 それはよかったけど、やっぱり僕の前には出てきてくれないんだな。少し寂しい。

「元気なら良かった。じゃ俺そろそろ帰るよ」

 カップに残った紅茶を飲み干す。

「ごめんね、来てくれたのに」

「ううん、いいよ」

「今度はご飯食べに来なさいよ。娘相手だと料理作っても張り合いなくってね」

 玄関先で久恵ちゃんは笑う。僕も靴を履きながら笑い返す。

「じゃあ今度またお邪魔するね」

 別れ際くらいは元気なふりをして「またね、バイバイ」なんて言って僕は家を出た。

 自転車に乗って、しばらくしてから思い出した。

 あ、CD返すのを忘れてた。



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