第20話

 次の日、カラオケは憂鬱だったが、それよりも嫌なことが起きた。

 亜希子が学校に来なかったのだ。出席をとるミスターは、笹井は風邪だと説明した。皆も夏風邪には気をつけろよと。僕はこのまま亜希子が学校に来なくなるような予感がして嫌だった。


 そして、その予感はあっけなく当たった。次の日もその次の日も亜希子は学校に来なかったのだ。

「風邪が長引いているらしいな」

誰に言うわけでもなくミスターは言った。でも僕は分かっていた。亜希子は風邪なんかじゃない。月曜日に僕と変な噂になったことが原因で学校に来なくなったんだ。

 ただ単に恥ずかしいからという理由で休んでいるわけではないだろう。何か原因があるのだ。その原因が分からない。亜希子と話すようになって、僕のことは色々と話したけれど、亜希子は自分の話はしてくれなかった。

 考える。何か亜希子にしてあげたのかと。正也とあずさとカラオケに行って騒いで、そんなことしている場合だったのか。

 でも、そんなの分からない。そっとして置いてあげたほうが良いのではないかとあずさは言った。それも分かる気がするし、一昨日はそうした方がいいと思った。それに、僕は何もしなかったわけじゃない。気にかけた。心配した。噂は誤解だと既にみんなには言っているし、そして、メールだって何回か送ってみた。

 でも、それだけ。それだけだ。返信は来なかった。返事が来ないというのは拒絶されているからに他ならない。そう考えると、それ以上のことは何もできなかった。何も出来やしないんだ。僕が亜希子に関わっても彼女には迷惑しか、かけないのかもしれない。

 松本は申し訳なさそうにしていた。僕が松本のせいじゃないよと言葉をかけると安堵したように頷いた。

 僕は自分の中から溢れる感情を持て余していた。僕のせいで亜希子が学校に来なくなったのではないかという不安と、そんなこと無い、本当に風邪なのかもしれないという気休め、嫌われてしまったのではないかという絶望感と、なんであの程度で学校に来なくなるのかという八つ当たりともいえる憤慨。僕は苛立っていた。行き場の無い感情は僕の心を膨らませたり萎ませたりした。

 夏の太陽はぎらぎらと輝きを放つ。梅雨の時期はあれほど太陽を待ち望んでいたというのに、今となってはただただ太陽が恨めしい。この苛立ちは太陽のせいなんだ。纏わりつく湿気と、温い風。これが僕を苛立たせているんだ。そう思い込むことで一日一日をやり過ごしていた。


「山井、ちょっといいか」

 ミスターが僕を呼んだのは、あの日と同じ放課後の廊下だった。

「笹井の事で話したいことがある」

 あの時と同じように、声を潜めてミスターは言った。違う点をあげるとしたら今度は立ち話ではなかったことだろうか。

 職員室の脇の会議室に通された。クラスの教室と同程度の広さの部屋にロの字にテーブルが並べられ、正面にはホワイトボード、壁には教育方針が張り出されている。これといって特徴がある部屋ではないが、あまり良い気持ちの場所でもない。僕たち生徒にしてみればこの部屋は、説教部屋として認識されているからだ。

 懐かしいな。去年は正也のせいで何度かお世話になったものだ。幸運なことに今年は正也とクラスが違い、あまり悪行に手を貸さないで済んでいるから、今日までここに呼び出されたことは無かった。

「笹井亜希子から何か聞いていないか?」

 椅子に座るよう促しながらミスターは言った。

「何かって?」手近な椅子に座りながら答える。

「山井は笹井と仲いいんだろ?」

 僕の机に湯飲みを置く。氷の入った麦茶。

「誰から聞いたんですか?」

「竹中。あいつ馬鹿だけどな、悪い奴じゃないんだぞ」

 ヤニ臭い竹中のにやけ顔が浮かぶ。ミスターはどこまで知っているのだろうか。それにしても教師が生徒に対して馬鹿などと言ってるのに嫌な気にならないのはミスターの人徳なのか。

「まあ、仲良かったのかな。わかんないです。自信を持って仲が良かったとは言えないです」

 今はメールも返してくれないし。

「そうか。なんかお前も何か抱えてんのか? なんでも相談しろよ。この俺に」

 相談か。一瞬、ミスターになら亜希子とのことも話してしまってもいいのかもしれないと思った。亜希子が学校では誰とも関わりたくないと漏らしていた事や、過去に何かあったことをほのめかしていた事も。

 でも、思いとどまった。僕はもう亜希子を一度裏切ってしまっている。学校では誰にも話しかけられたくない、と僕に言ったのに、僕はクラスメイトに話しかけるよう仕向けてしまった。これ以上、亜希子に失望されたくない。

 僕は首を横に振った。僕が亜希子について知っていることなんて他のクラスメイトと変わらない。傍目から見ても亜希子が誰とも関わりを持とうとしていないのは分かりきっているし、過去に何かあったから亜希子がそうなってしまっているのだということも少し考えれば分かることだ。

 では、亜希子の過去になにがあったのか。一番の謎だが、それを僕は彼女から教えてもらっていない。そうだ。僕たちはその程度の関係なのだ。

「この前の月曜日、なんかあったんだろ?」

 ミスターは不必要に明るく言った。月曜日。亜希子と一緒に学校に来た日。最後に亜希子を見た日。竹中にからかわれた日。変な噂が立った日。ミスターはどこまで知っているのだろう。

「なんで知ってるんですか?」

「これでも担任だぞ。お前らのことは大体知っているさ。新学期早々理科室の机を焦がした犯人も、誰かさんが竹中と喧嘩になりかけたこともな」

 自慢げに笑う。しかし、すぐに真面目な顔に戻る。

「なあ、笹井って特殊な子だと思わなかったか?」

「どういう意味ですか?」

「そんな顔をするな。別に悪意はないよ」

 僕の眉間にわずかに皺がよったのを、ミスターは見逃さなかった。僕の肩を叩き、訂正して笑った。

「大丈夫だよ、お前が笹井に対して特別な感情を持っているのは分かってっから」

「な、なに言ってんすか!」

「そんな照れなくてもいいじゃん。案外可愛い所あるんだな明信君は」

「帰ります」ムッとして立ち上がろうとする僕の鞄を掴みミスターがなだめる。

「違う違う。待て待て待て。冗談だよ冗談。あのな、教師ってな、クラスで唯一、生徒全員の顔を同時に眺めることができるポジションにいるんだよ」

「だからなんすか」

「いやな、だからな。お前らの気持ちの変化とかも、こう、なんて言うかな、とにかくわかるんだよ」

 ミスターは見えないワタアメの輪郭をなぞる様な奇妙な手の動きを見せて、気持ちが分かるということをアピールしている。

「しかも担任ともなると毎日毎日おんなじ顔を見なきゃいけないんだよ。お前らの不味いニキビ面を毎日だぞ。こりゃ一種の拷問だよ」

 ミスターは英語教師だからなのか、ひらがなよりもアルファベットで表記したほうがしっくりくるような発音で「はっはっは」と笑った。ごまかし方もアメリカ人っぽい。アメリカ人の知り合いはいないが、ホームコメディのそれと同じような印象を受けた。そして、笑った後に僕の顔色を伺い、僕が帰る気が無くなっているのかを確認した。

「ま、座れよ、な」

 僕が椅子に座ると安心したのか、うんうんと何度か頷いた。

「最近な、山井が笹井の事を気にかけているのがわかるんだよ。なんて言うのかな。親鳥が雛を見守るような、生暖かい視線な」

「やっぱり帰る」

 再び立ち上がろうとする僕の腕を慌てて掴んできた。

「違う違う、表現を誤った。そう、友達だ。友達を思いやる視線なんだよ。そうだろ? 友達が他の連中に嫌がらせを受けていないか気にして見ているようなそんな優しい視線なんだよ。違うか?」

 たぶん、間違ってはいないのだろう。確かに亜希子に視線が行ってしまっていたのも事実ではある。でも、それをミスターに気づかれていたとは。適当そうに見えて、案外そうでないのがミスターなのだと再認識する。

「笹井みたいなタイプの生徒も中々いないからな。みんなもどういう風に接していいか分からないんだろう。山井もちょっと前まで皆と同じような視線を笹井に送っていたぞ」

「まぁ、そうだと思う。何考えているかわかんない奴だって思ってたんで」

「でも、仲良くなったんだ」

「小さい頃に仲良かったんすよ。幼馴染って言うんすかね。昔は苗字も違ったし性格も今と違って明るくて友達も多かったから、同じクラスになっても全然気づかなかったんです。でも、プリント持って行った時からちょっとずつ話し始めて、先週の日曜日に思い出したんですよ。笹井さんが幼馴染の子だったんだって」

「そうか。やっぱり山井にプリント配達を頼んだのは正解だったよ」

「よく言うよ」僕がぼやくが特に耳を傾けるわけでもなく、ミスターは満足げだった。

 だったら言うけどな、と前置きしてミスターは口を開いた。

「お前なら口外しないと思うから言うんだけどな」

 僕の表情を伺いながらミスターは言葉を選んでいた。

「昨日な、笹井が、学校を辞めたいって連絡してきたんだ」

 驚いてミスターの表情を見る。いつも冗談ばかりの男だが、今回ばかりは冗談を言っているようには見えなかった。

「え?どういうこと?」

 混乱したまま聞く。亜希子が学校に来なくなって三日。このまま学校に来なかったらどうしようと考えていた僕の不安をそのまま具現化したような言葉だった。

「退学したいってことだよ。昨日の夜に連絡が来たんだけどな。山井、何か聞いていないか?」

 聞いていない。何も。亜希子が学校を辞めたいだって。なんでだ。僕のせいだろうか。学校では誰とも話したくないと言っていた亜希子に、皆との接点を設けてしまったから?

 黙っている僕を見て、ミスターは言ってよかったのかなという戸惑いを見せた。

「心当たりは無いか……。俺も急な連絡だったんでびっくりしてな。とりあえず親御さんと三人で話し合おうって言ったんだけど、もう決めましたって聞かないんだよ。完全に心を閉ざしてんだよな。まいっちゃったよ」

 僕のせいでこんなことになってしまっているという後ろめたさが圧し掛かる。前傾姿勢で聞いていたが、ミスターの話を聞くうちに萎れたアサガオみたいになってしまった。亜希子は僕に対しても心を閉ざしてしまったのだろうか。それとも、初めから心など開いていなかったのだろうか。僕が勝手に勘違いして余計なことをしてしまっただけじゃないのか。その証拠にメールだって返してくれないじゃないか。

「笹井さんは僕に学校なんて行きたくないって言ってました。中卒が嫌だから通っているだけだって。だから、本人が辞めたいというんなら、それを止める権限は誰にもないんじゃないすか。仕方ないですよ」

 仕方ない。その言葉は誰でもない自分自身に向かっていた。自分には何も出来ないのだ。どうしようも出来ないことって世の中にはたくさんある。仕方ないんだ。

「あのな、山井」

 語りかけてくるミスターの声はやたら柔らかかった。僕は思わず顔を上げる。青ひげの男が微笑んでいた。

「お前、地下鉄って好きか?」

 予想外の言葉にきょとんとする。

「地下鉄ですか?」

「そう、地下鉄」

「あんまり考えたこと無いですけど。嫌いでも、好きでもないっす」

 ミスターは僕を気遣って話題を変えたのだろうか。なぜそんなことを言い始めたのかはわからなかったが、小さい頃、まだ小学校に上がる前、電車の運転手になりたかったことを微かに思い出した。男の子はたぶん一度はそう思うものだし、それは女の子がケーキ屋さんか、お花屋さんになりたいのと同等のありきたりな思い出だろうから、わざわざ口には出さず黙って聞いていた。

「俺はな、地下鉄が嫌いなんだ。大学生になって田舎から出てきたんだけど、東京で一番驚いたのは地下鉄だった。地下鉄の駅って何処も似ているだろ。風景が無いからだよな。電車に乗っても窓の外は闇。上り電車も下り電車も景色なんて変わりやしない。一定時間車内で揺られて、ドアが開けば目的地にハイ到着。それってむなしくないか」

 そんなことは考えたことも無かった。電車は電車。地下鉄だろうが路面電車だろうが僕にとっては移動手段でしかない。

「田舎にいた頃は電車の窓から、白いヘルメット被った中学生がこぐ自転車とか段々になった田んぼなんかを眺めているのが好きだったんだ。電車だって一時間に数本しか来ないから、朝遅刻しそうになると駅まで必死に走ったりしてな。その点都会は凄いよ。乗り過ごしたってすぐ次の電車が来るんだから。そうだ、東京に出てきて驚いたことがもう一つあった。なんで都会の人ってあんなに急いでいるんだろうな。東京の人って歩くの早いんだよ。そんな気しないか?」

「そうかな。あんまり意識したこと無いけど。でも、沖縄とかって待ち合わせ時間が家を出る時間らしいっすよね」

 どうでもいい話。だけど、そんな話をしていると気が紛れる。

「山井はずっと東京に住んでるのか?」

「そうっすね、引っ越したこともありますけど、都内です」

「じゃあ、あんまりこの感覚は分からないだろうな。文化の違いだもんな。こっちって朝のラッシュとか凄いじゃん。みんな何をあんなに急いでんだろうって思うよ。分刻みで電車が来るんだから、そんなに急がなくたっていいじゃんな。窮屈な都会であんな暗い地下鉄にぎゅうぎゅうに詰め込まれてたら気も滅入るよ。自殺者が増えるのもわかる気がする」

 自殺者は年間三万人を超えているらしい。新聞の片隅に書いてあるのを見た。

「自分が何処に向かっていて、現在何処にいるのか。そういうことが大切なんだよ。楽だからって地下鉄なんか乗ってたら、間違えて違う電車に乗ったって気づかないぞ」

「僕、そんな電車とか乗らないんで大丈夫です」

 何が大丈夫なのか僕自身にもよくわからないし、意味のわからないことを口走っている自覚はあった。でも、ミスターは特に気に留めるわけでもなかったから、僕の返答はミスターにとっては的外れなものでもなかったのかもしれない。

「山井はチャリ通だっけ?」

「はい」

「そうか、なら分かるだろ。自転車漕ぐのって疲れるけど、気持ちいいもんな」

「まあ、天気がよければ」

 自転車部を作ろう。なんて言い出すんじゃないだろなこの人。話が右往左往していて何処に向かっているのかわからない。それこそミスターの言う地下鉄みたいだ。

「自転車漕いでると坂道もあるじゃん。辛い上り坂。だけど上った後はそのうち下りになるんだからな。我慢するしかねえよな。漕いでいれば景色は変わる。季節や天気、その日の気分でもな。年取ったら体も弱って自転車にも乗れなくなるんだから、若いうちは何処でも自転車に乗っていけよ」 

「はあ、結局これ、なんの話なんですか」

 このままよくわからない話が続くのかと思い、尋ねてみた。

「なんの話だろうな。俺もよくわからん」

 ミスターはあっけらかんと言った。

「なんすか、それ」拍子抜けして笑ってしまった。

「さっきお前が言った、笹井の言葉。中卒が嫌だから高校に通っているってのが気になったのかも知れんな」

 節約しろと言われているのだろうか、部屋の中は電気が点けられていなかった。しかし、日差しは強く、その必要も無かったのだが。

 ミスターは立ち上がった。窓際に向かい薄手のカーテンを開ける。眩しそうに空を眺める。

「高卒の資格が欲しいだけなら通信制だってなんだってあるだろう。それを彼女は普通科の西高に入学した。自分の意思で。それって電車で行けば楽なのに、あえて自転車で目的地に行くことを選んだってことじゃないか。笹井の過去に何があったかは知らん。彼女にとってこの学校に通うのは、上り坂を一番重いギアでよろよろ走っているような辛いものなのかもしれない。でも、彼女はこの方法を選んだんだ。苦しい坂の向こう側に気持ちの良い下り坂が待っていると、そう思ったんじゃないかな」

 亜希子の顔を思い浮かべる。この一ヶ月でいろんな彼女の顔を見てきた。泣き顔、笑顔、憎悪に満ちた顔、寂しそうな顔。

「そんな笹井が、今自転車を漕ぐのをやめようとしているんだ。方向転換してしまったら早いぞ。何せ今までずっと上り坂だったんだ。後ろを向けば楽しいくらいの下り坂だ。一気に駆け下りて、すぐに見えなくなってしまうかもな」

 窓の外を向いたままミスターは言った。太陽が雲に隠れたのか、部屋は少し暗くなった。

「電話でもメールでもいい。あいつの話を聞いてくれないか。別に俺に伝えなくていい。伝えてくれたら一番いいんだけど、友達同士の内緒話まで聞こうとは思わないからな。結果なんて本当はどっちでも良いのかもしれない。それで学校を辞めるのが仕方ないと山井が思うんなら、俺も仕方ないと思おう。最後は結局本人の意思だからな」

 ミスターは振り返り頷いた。逆光で青ひげが目立たないからか、ちょっとかっこいい教師だな、なんて思ってしまった。上手く丸め込まれただけの気もしないでもないが。

「……わかりました。聞くだけ聞いてみます」

 僕はそう答えていた。

 僕は亜希子の言葉で姉の死と向き合うことができた。僕は感謝している。なら、今度は僕が亜希子を変える番じゃないのか。そうだよ。今度は僕が亜希子を変えるんだ。昔の明るいあっちゃんに戻ってもらうんだ。亜希子だって今の暗いままで良いと思ったのなら僕とあんな風に話さなかっただろう。彼女だって心のどこかで自分も変わりたいと思っているはずなんだ。


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