シャル・ウィ・ダンス

渡り烏

第1話

 どうしてこんなところにいるのか、分からなかった。ただ呼ばれるままにフェンスを乗り越えた。

 ポケットの中でぬるくなった缶のスープをあけて、口をつける。

「一緒になろうよ」

 誰かに囁かれたように感じて見回すが、人なんているはずもなかった。

「大変だったね。楽になるよ」

 そうかもしれない。水面を覗き込むと、黒い水面に月明りが反射して揺らめいている。

 きれいな景色と自分も一緒になりたかった。でも、誰かが私を引き留めていた。

「あなたは、誰?」

 分からない。でもきっと私の大切な人、そんな気がした。

 だから私は、スープを少しずつ飲みながら、『一緒になる』ことを先延ばしすることにした。

 私が誰なのか、教えてくれる人を待ってみようと、甘えてみることにした。




「自殺か?」

 暗闇の中で灯る街の明かりが減り、一家団欒のこたつも冷えきっている頃。

 橋の上に一人立つその少女は、ひどく場違いだった。この時間では都会であっても橋を通るのは風ばかりで、人どころか車が通ることも珍しい。

 それが、フェンスの外にいるのならなおさらだった。

 空になったコーンスープの缶を手で温めていた少女は、顔にかかっていた黒髪を耳にかけて、橋の上を振り向いた。

 誰もいないはずの橋の上に青年が一人、フェンス越しに少女を見つめていた。長い黒の上着が乾いた風にあおられてはためいている。

「……止めないでください」

「まだ止めてもいないのに、そう言われてもな」

 少女のどこかぼんやりした言葉に呆れたように返しながら、その青年は身軽に身長ほどのフェンスを乗り越えた。上着がめくれあがり、表の黒と白の裏地が一瞬入れ替わる。

「この橋、最近自殺するやつが増えてるんだって?」

 橋のフェンスに手をかけて体を乗り出し、橋の下の流れを覗き込む。体を引き戻し、言葉を切って彼女のほうを振り向いた。

「もし死ぬつもりなら、その前に一つ手伝ってくれないか? それが済んだら、好きにしてくれ」

「…………」

 少女は青年の顔をしばらく見つめてから、音もなく流れる川を見下ろした。光の乏しい夜の景色の中で、川面が街灯の明かりを反射する。揺れる川面がまだら模様に街頭の光を反射して、何かの合図をするように明滅していた。

 まだ十代後半らしい彼女は、白い息を吐きながらしばらく目を伏せていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。

「……すぐ、終わるなら」

 小さくつぶやくような言葉に、青年は上着の中に手を入れた。

「助かるよ。ありがとう」

 そして、腰のあたりから銀色に光る拳銃を取り出した。レンコンのような円形の部分があり、西部劇でみるような旧来のものだと分かる。

 手紙でも渡すような気軽さで、少女へ銃の握り部分をさし出す。

「あの……」

「俺も殺してくれ。死ぬついでに」

 思いもかけない言葉に、少女は突き出された握りの部分に視線を落とした。差し出されたままの銃に、のろのろと片手を伸ばす。

 青年から受け取った本物独特の銃の重さを、少女は全身を縮めるように受け止めた。少女の手から離れた空き缶が、くるくると回転しながら小さく消えていく。

 青年の言葉に戸惑っている少女を見て、彼は小さく笑って肩をすくめた。

「引き金は分かるだろ? これだけ近ければまず外れない。頭でも狙って撃てばいい。反動でお前も落ちるかもしれないが、別にいいんだろ?」

 落ち着いた調子で説明しながら、青年は上着の内ポケットからパイプを取り出した。四十センチほどもありそうな長い木製のもので、吸い口から火皿にかけて精緻な模様が彫られている。葉を入れる金属部分も細長く、全体はバランスの悪いL字型のようだった。

 擦られたマッチの頭が燃え上がり、炎がパイプの口をあぶると白い煙が立ち上った。

 ゆっくりと長く吸い込み、顔をしかめて煙を吐き出す。

 もう一度煙を吐き出してから、橋の下を流れる川につばを吐き出す。

 何回かふかふかと煙を吐いて、風に煙を乗せて遊んだ後、青年はちらりと背後に視線を投げた。パイプを口で支え、銃を手に固まる少女の手を両手で包みこむ。

「ごくろうさん」

 銃を硬く握り締める少女の手を温めながら、指をはがしていく。手際よく銃を取り返し、慣れた手つきでレンコン状の弾倉を横に振り出す。

「さて、手伝いのことだけどな、俺の仕事を見て、報告書におおよその経過を書いて、サインをしてほしい」

「え、あの……」

 目を泳がせる少女をそのままに、青年はパイプをふかしながら、言葉を続けた。

「要するに証人だ。やってくれたら、バイト代も出すよ」

「だから、あの……」

「こんな準備万端で、殺して欲しいなんて奴はいないだろ。弾は入れてない」

 空洞を少女の方へ見せ、胸ポケットから取り出した、先端が白い弾丸を弾倉へ入れていく。

「先端は塩でできてる。きれいだろ?」

 少女に見せてから最後の一発を弾倉に込め、手首を振ってもとの状態へ戻す。銃をベルトに戻し、フェンスに手をかける。

「さてと、そろそろ橋の上に戻ろうか」

 コートの青年は先ほどと同様に身軽にフェンスを登り、少女に手を貸して引き上げた。橋の上に戻り、青年は先ほどと同じように橋のフェンスに背を預ける。

「とりあえず、これを持っててくれ」

 青年はゆっくりとフェンスを下りてきた少女に、二つ折りの携帯電話を手渡した。

「もし俺に何かあったら、まず、橋の外まで走れ。それから、登録されてる番号に連絡して、『鏑木が失敗した』って伝えてくれ。後は向こうが勝手に質問するから、それに答えればいい」

「あの、逃げるって……」

「もしもの時は、な。今のところ、それは一回もない」 

 少女の不安そうな顔をよそに、青年――鏑木仁は肩をすくめて、ゆったりと煙を吐き出した。

「悪いな、邪魔して。本当は相方がいるんだが、恋人を探しに行っててな」

「え……恋人、ですか?」

 鏑木の言葉に若干の引っ掛かりを覚えて首をかしげる少女に、鏑木は小さくため息をついて見せた。

「一応言っとくが……マジだぞ。『仕事のついで』らしいけどな」

 鏑木が深くタバコを吸い込み、煙を吐き出す。束の間風の収まった澄んだ空気に、白いもやのように煙が漂った。

 のんびりとパイプをふかす青年の横で、少女は指先の赤くなった手をこすり合わせた。

「あの、仕事って、どんなことなんですか?」

「そうだな。そろそろ仕事に移るか」

 鏑木はパイプを口から離し、少女の前に差し出した。鼻先を微かに甘い香りが通り抜ける。

「ところでこのパイプ、実は特別な物なんだ。アメリカ先住民が使う、伝統のやつでな」

「そう、なんですか?」

 説明の意図がわからず、少女はあいまいに頷いた。

「『大いなる神秘』と交信するときに、これを使うんだそうだ。分かりやすく言えば、『神との対話』ってところか」

 説明に相槌をうって頷き、彼女はふと周囲を濃い霧が覆い始めていることに気づいた。首をめぐらせて周りを確認するが、まだ霧が流れてきたばかりなのか、川の上に霧は見えず、ビルの明かりもきれいに見通せる。

「そういうわけで、俺たちは普段見えないものを見たいときに、こいつを使う。ほら」

 鏑木がパイプでさした先で、いつからそこにいたのか、猫背の男性が立っていた。線が細いせいなのか、身体はどこか曖昧で、不安定な印象を受ける。その男性は身じろぎもせず、うつろな瞳でただ二人を見つめている。

 ただ二人を凝視し続ける男の視線の気味悪さに、少女が半歩身を引き、フェンスに背が当たる。青年は男性のことは気にせず、再び長いパイプを深く吸って一瞬息を止め、ゆっくりと吐き出した。

「さて、俺の仕事だが。簡単に言えば掃除だ」

 吐き出された煙は風に散ることなく男性に向かっていき、その体に吸い込まれるように体にまとわりついた。白いだけだった煙に、映像が映し出されたように色がつく。

「こういう、未練たらたらで『こっち』から動かない連中を──」

 パイプを少女の手に押しつけ、ベルトから銃を引き抜いて男に向けた。男性の手が何かを求めて青年に向けて伸ばされる。弾倉がゆっくりと回転し、カチリ、と小さな音を立てて撃鉄が固定された。

「──『あっち』に送り返すわけだ」

 男性が一歩踏み出した瞬間、乾いた破裂音が空気を震わせた。反射的に、少女の体が痙攣するように跳ね上がる。

「ところで、幽霊とかは信じる方か?」

 頭が地面につきそうなほど大きく体をそらせた男性に銃を向けたまま、青年は視線だけを少女に向ける。

「どっちでもいいんだが、ちゃんと見とくといい。手伝いもそうだが──」

 鏑木は縮こまっていた少女の肩を軽く叩き、フェンスから体を離して一歩踏み出す。

「──幽霊退治なんて、そう見られるものでもないからな」

 彼の言葉に応じるように、男性がのけぞらせていた体を起こした。顔に開いたこぶし大の穴に周囲の霧が集まり、顔が元の形に戻る。

「あんたも自殺だろ? 何で他の連中も巻き込むんだよ。さびしいのか?」

 鏑木の問いかけに、男は何も答えない。反応自体も鈍く、聞いているかも分からない。

 男は数秒間鏑木にあいまいな視線を送っていたが、やがて何かをつかもうとするように、再び腕を前に伸ばした。

「おっと」

 鏑木が少女を引き寄せるのと同時に、男の腕が本来の長さを無視して伸び、金網をすり抜けた。

「気分の落ち込んでるやつをこの橋に引き寄せて、背中を押してたのか。やることなら、他にいくらでもあるだろうに」

 引き寄せた少女を背後へかばいながら、あきれたように肩をすくめる。彼の親指が撃鉄を引き上げ、それに合わせて弾倉が一発分回転する。

「いいか、俺が合図したら、橋の真ん中まで行け。そこでうずくまってろ」

 肩越しに言葉を投げてから、銃を男に突きつける。

「いくら世話を焼きたいからって、下手に若い娘にちょっかい出したらセクハラだぞ」

 鏑木がステップを踏むように、滑らかな動きで右へ移動した。背後に隠されていた少女の姿が再び見えた瞬間、煙を空中に引きずって、男の腕が伸びる。

 伸長した腕が少女に接触する直前、破裂音と共に超音速にまで加速された弾丸が、男の右腕を根元から吹き飛ばす。切断された腕が風に吹き散らされ、霧散する。

「ほら、行け」

 緊張感の欠けた声から一瞬遅れて、少女が走り出す。再度少女を求めて手を伸ばす男の左腕を塩の弾丸が撃ち抜き、突き抜けた弾丸が金網と火花を散らした。

 衝撃に身を泳がせる男にさらに二発、弾丸が頭と腹から煙を撒き散らす。上半身の四割近くを弾丸に削り取られ、男の体がゆっくりと後ろへ倒れた。残りの体を、吹き過ぎた風が削り、崩していく。

 やがて、男の体は風に切り崩され、ただの煙に戻った。

 鏑木は橋の上を見回し、銃を握ったまま橋の中央で頭を抱えるようにうずくまる少女に近づいた。

 亀のように縮こまる少女を見て、小さく笑う。

「律儀だな」

「あの、終わったんで──あわわ」

 立ち上がろうとした少女の頭を、鏑木の手が押さえつけた。間の抜けた声を上げる少女に一瞬目を落とし、小さく息を吐く。

「まだしゃがんでろ。周りの煙が残ってる。終わってない」

 少女の足元に空になった銃を置き、鏑木は周囲に目を配りながら、脇の下から似た形の黒い銃を取り出した。

「あの、弾は入れないんですか?」

「捨てた薬きょうを回収し忘れて、もし警察に通報されると厄介──」

 鏑木が言葉を切るよりも早く、少女の顔を白い布が覆い、視界を奪った。繊維が切れるような、短く鈍い音が三度。

「案外、器用なことしてくれるな」

 鏑木が立ち上がりながらコートの裾を強く払うと、金属質の澄んだ音がアスファルトの上ではねた。

「でもな、伊達でこんな格好してるわけじゃない」

 言いながら、もう一度コートをつかんで幕を引くように大きく振りぬく。

 短く鈍い音と共にコートに複数の穴が穿たれ、鋭利に光る数センチほどの釘の先端が顔を出した。

「なんで道路ってのは、こう色々と落ちてるんだろうな」

 文句を言いながらコートを払い、次の攻撃を警戒して橋の先へ目を凝らす。その時、橋の上にもやのようにかかっていた煙のカーテンが、ふっと薄くなった。

 澄んだ空気を通して星が瞬き、骨の芯にしみるような風が、唸り声のように響いて通り過ぎる。

 その風に流されるように、白い塊が一つ、ゆっくりと向かってくる。近づいてくるにつれ、その表面にうっすらと浮かび上がる、初老の男の顔が見て取れるようになる。

 鏑木が銃を向けると、その人魂は鏑木を避けるようにゆらりと九十度方向転換し、橋の下へ姿を消した。

 そして数秒後、橋の左右から二つの人魂が現れ、鏑木の頭上に円を描いて飛び回った。くるくると数回円を描き、再び橋の下へ隠れる。

 そして、再び橋の左右に加え前方から、それぞれ煙を引きながら現れた人魂が鏑木の頭上に集まった。メリーゴーランドのような、のんびりとした動きで円を描く。

「この際、夏にお化け屋敷でバイトでも始めたらどうだ?」

 のんきに肩をすくめて、鏑木は頭上を回る人魂を見上げた。腕を組んで肩の力を抜き、頭上のサーカスを眺める。それを見計らったように、橋の左右から同時に二つの人魂がゆっくりと姿を見せた。

 音もなく金網をすり抜け、橋の上を移動する。這うようだった速度を急激に上げて、上を向いたままの鏑木の死角から襲いかかる。

「あ、危な──」

 横から見ていた少女が咄嗟に叫んだ言葉は、残りを大きな破裂音に飲み込まれた。

「その手は桑名の焼きハマグリ、ってな。古いか」

 笑う鏑木の左右で、中心を打ち抜かれた人魂が悶えるるように身を震わせた。銃口から逃れながら周囲から煙をかき集め、穴をふさいでいく。

 いつの間に抜かれたのか、左手に握られた三挺目の黒い拳銃が、鏑木の手の中で光を反射する。

 鏑木が交差させていた腕を下し、頭上を回る人魂を仰ぎ見る。

「さあ、みんなで仲良くシャル・ウィ・ダンスといこうか」

 左手を高く掲げ、頭上を回る人魂へ合図するように引き金を引く。かすった弾丸が煙を抉り、人魂がふわりと空中で三方向へ分かれた。

 散らばった五つの人魂は鏑木を中心に円を描いて飛び、それぞれ別の方向から同時に鏑木を包み込む。

 鏑木は一歩後退しながら前方に射撃、前方の一体を牽制。同時に、体を沈ませて後方から来る二体をかわす。さらに、前方から突進してくる二体を闘牛士のように身を翻し、やり過ごす。

 頭上から降下してくる一体へ発砲、左側面から迫る別の一体を跳躍で回避する。

 着地した瞬間、鏑木の体勢が大きく崩れた。転がっていた釘を踏んだ左足が大きく流れ、バランスを崩す。前方から若い男の顔を持った人魂が、螺旋を描くような軌道で突進してくるのを視認し、かわしきれないと判断、腕を交差して防御体勢をとる。交差させた腕の中央にぶつかった人魂は鏑木の体を宙に押し上げ、数メートルはじき飛ばした。

 鏑木は受身を取って後方に回転し、足をつくと同時にコートを翻し、飛んできた釘を受け止める。

 周囲に目を走らせ、左右から来る二体を前転で回避し、膝立ちの状態で銃を顔の高さまで持ち上げる。左、右と順に照準を合わせて引き金を引き、少女にゆらゆらと近づいていた二つの人魂を半分ずつに吹き飛ばした。

 はじかれるように人魂が二方向へ散った隙を利用し、低い姿勢のまま少女に駆け寄る。一体を飛び越して避け、身を翻す。

「浮気する気か?」

 笑みを浮かべて言いながら腕を左右へ広げ、射撃。さらに背後から突撃してくる人魂へ銃を向ける。

 銃弾をかわすように螺旋軌道を描く人魂を銃口で正確に追い、半歩下がりながら引き金を絞る。

 撃鉄が跳ね上がり、一発分回転した弾倉を叩く。かちん、とささやかな音が響き、衝撃でわずかに銃口が震えた。

 弾丸の発射されなかった銃口に一瞬目を落とし、伸ばしていた腕を引き戻しながら、バックステップで人魂をかわす。

「ラストか」

 小さくつぶやいて向かってくる人魂を避け、少女から離れる。その言葉が聞こえたのか、少女は微かに体を震わせながら、顔を上げた。

 先に鏑木を排除すると決めたのか、人魂は一つも散ることなく彼の周囲を囲うように飛び回り、体をぶつけようと試みる。五つの人魂の攻撃を踊るようにかわしながらも、鏑木の背中へフェンスが近づいていく。

「あくまで突き落としたいのか? 変化がないな」

 少し笑うようにつぶやいて、左手の銃を置き、前方から来る人魂を横転で避ける。

 フェンスまで二メートルほどのところで、五つの人魂が扇状に広がり、鏑木の逃げ道をふさいだ。そのまま個々がわずかに高度をずらし、いっせいに突進する。その包囲は跳躍するには位置が高すぎ、くぐるには低い。

 鏑木は回避する隙間なく、包み込むようにして向かってくる人魂に一瞬笑いかけ、身を翻した。

 フェンスまでの距離を自ら詰め、同時に左手でコートの裾を軽く払う。滑らかな動作で左手を腰の後ろへ。

 人魂が黒いコートの背中に触れた瞬間、幕が上げられるようにコートがめくれ上がった。

 フェンスを駆け上がった鏑木の体が、空中で反転する。五つの人魂の泣き顔と、鏑木の視線が交錯する。

 腰から引き抜かれた銃身は二段。上下に並ぶ太く短い銃身が、腕の延長線上へ伸ばされ、街灯の光を鈍く反射する。

 轟音と共に吐き出された散弾が、標的を失い、狭い範囲に集まっていた人魂に無数の風穴を開けた。路面で砕けた塩の塊が、きらきらと輝きながら四散する。

 五つの人魂は抉り取られた煙を撒き散らし、勢いのままフェンスを抜け、音もなく風に吹き散らされた。

「奥の手が最後ってのは、お約束だろ?」

 器用に足から着地し、漂ってきた煙の残骸を息で吹き飛ばす。

 鏑木は風に流れていく煙を確認して立ち上がり、散弾銃を腰の後ろへ収めた。

 いつの間にか視界を遮っていた煙は消えてなくなり、澄んだ空気が橋の上を吹きすぎていった。

 心配そうに周りを見回す少女の頭の足元から、置いていた拳銃を拾い上げる。

「あの、終わったんですか?」

「多分な。確認は必要だが、ほぼ終わりだ」

 少女の手からパイプを受け取り、燃え残った葉に火をつける。

 右手の銃はそのままに、拾った拳銃をガンベルトに納め、少女を背にして歩く鏑木の口から、ゆっくりと煙が吐き出される。

「すぐそこに車を止めてある。家まで送って行ってやるよ。必要なら──」

 数歩進んだところで、鏑木は足を止めた。吐き出された煙の一部が、風に逆らってゆっくりと背後へ流れた。

 即座に体を回転させながら、散弾銃を抜き放つ。

「往生際の悪い野郎だ」

 太い銃口の先で、少女は虚ろに立ち尽くしていた。

 ぼんやりと生気を失った目は何も映しておらず、体の周りに煙がうっすらと漂っている。煙は彼女の首筋に集まり、うなじに取り憑く人の顔へつながっていた。

 ろくに体を維持できないのか、人魂の輪郭はあいまいで、吹きすぎた風にゆらゆらと揺らめいている。もう放っておいても、消滅するのは時間の問題に見えた。

 鏑木は引き金に指をかけ、照準を定めた。だが、撃てない。散弾の性質上、いかに精密な狙いをつけようと、弾が散ることは抑えられない。銃身を切り詰めた状態では、なおさら散弾は大きく広がる。この距離で撃てば、確実に少女を巻き込む。

 鏑木が撃てないことを知っているように、うなじにしがみつく顔は、フェンスに向けて彼女の体をゆっくりと歩かせていった。少女の手がフェンスにかかり、足が持ち上がる。

 鏑木は構えていた銃をゆっくりと降ろし、咥えたままのパイプから煙をくゆらせた。

「今もまだ死にたいなら、そのまま飛び降りて死ぬといい」

 緩慢な動きで体が引き上げられていき、少女の手がフェンスのふちにかかる。

「だが、もし生きたいなら、どうにかしろ。お前に張りついてる、その逝き損ないの好きにさせるな」

 少女の上半身がフェンスよりも上へ引き上げられ、フェンスの上端を靴底が踏みつける。

 体が前に傾こうとして、止まった。前に傾こうとしながら、その体は一歩を踏み出そうとしない。何かが押し合うような、脆い均衡が少女をフェンスの上に留める。

 少女の目から涙が一筋こぼれた。血の気の失せた唇が小さく開き、言葉が漏れる。

「私……私、いやだ……」

 ほとんど聞き取れないほどの声が、風に乗って流れる。鏑木の口から長く吐き出された煙が、ため息のように重く垂れ下がった。

「殺す覚悟も殺される覚悟もできてないやつが、自殺なんて考えるんじゃない」

 鏑木は誰にも届かない声で言葉を風に流し、撃鉄を引き上げた。

「さあ、聞いたろ。しつこい奴は嫌われるぞ」

 人魂と銃口が直線を結び、引き金に指がかかる。

「失せろ」

 跳ね上がった撃鉄が弾丸を叩き、銃口から伸びた光が一瞬鏑木の顔を照らし出した。瞬間的に音速を超えて加速された弾丸が、鋭い破裂音を残して人魂を貫く。

 残された煙が一瞬ゆらゆらと揺れ、形を失って少女の体から流れ落ちた。

「いい加減、ゆっくり休みな」

 鏑木は拳銃をくるくると指で回してから、慣れた手つきで腰のベルトに納めた。

 フェンスの上で放心している少女へ近づき、首をかしげながら声をかける。

「おい、パンツ見えてるぞ」

「……えっ!?」

 少女は慌てて手のひらで尻の部分を隠し、履いているのがジーンズだと気づいて、少女はわずかに顔を赤らめた。次の瞬間には自分のいる位置を思い出し、顔を青くする。

「早く降りろ。流石に、落ちたらどうにもならない」

 面倒くさそうな鏑木の声に、少女はそろそろと慎重にフェンスを下りてくる。

 橋に足がついた途端、少女の膝が折れ、その場にぺたりと座り込んだ。

「あ、あれ……なんで」

 あきれた顔で肩をすくめる鏑木を見上げ、立ち上がろうとして尻もちをつく。

「まったく、しょうがないな」

 鏑木は軽くため息をつくと、散弾銃を腰に納めて上着を脱いだ。それを少女にかけ、震えている体を軽々と背中に負ぶった。一度体をゆすって背負う位置を調整する。

 歩調に合わせて揺れる背中で、少女は鏑木の体温を感じて理由の分からない気まずさに顔をうつむけた。腿に当たる拳銃の感触に、ふと浮かんだ疑問がそのまま少女の口から漏れた。

「さっき……」

「どうした?」

「あの……さっき、何で弾が残ってたんですか? 確か、弾が切れたって……」

「ああ。片方から最後の一発を抜いといたんた」

 鏑木は落ちていた拳銃を回収し、ベルトに戻した。体をゆすって少女の位置を直す。

「そうすれば、最後の一発がわかりやすいだろ。最後の一発が分かれば、撤退か、仕留めるかの判断基準になる。今回は特にやってないが、予備の弾をこめるときにも、タイミングを計りやすい」

「あ、そんなにちゃんと……」

「おい、なんだ、『そんなにちゃんと考えてるんだ、意外です』みたいな言い方は」

「え、いや……そ、そんなことは」

 考えていることを絶妙に言い当てられ、鏑木には見えないと分かっていながら、少女は慌てて首を横に振り、顔を引きつらせて口ごもった。

「お前、意外に失礼なやつだな」

 ため息混じりに答えてから、鏑木は肩越しに少女を振り返った。

「生きるってのは大変なんだよ。死ぬのと違ってな。それくらい考えて、当然だろ」

 鏑木の言葉にわずかな痛みを感じながら、少女は本当に聞きたかったことを自覚して、迷いながら口を開いた。

「あの、もう一つ聞いても、いいですか?」

 少女の声から何を感じ取ったのか、鏑木は何も答えなかった。返ってきた沈黙に、言うかどうかを数秒逡巡してから、しかし少女はゆっくりと息を吸い込んだ。

「あの、もしあの時……私が、死のうと、したら……」

 少女の言葉は徐々に小さくなり、最後まで続かなかった。鏑木は何も答えないまま歩いていき、やがて、橋と道との境で立ち止まった。ほんのわずかに、少女を振り向く。

「自殺しようとしてる連中はな、大抵は死にたいわけじゃない」

「え……」

 静かな言葉が、風に流される。強く吹きつけた風に、上着が大きくはためいた。

「とりあえず、『今』から逃げたいだけなんだよ。だけどな、それに気づくのは死ぬ直前、それこそ、死ぬほど苦しい思いをしてからだ。だから、未練たらたらで成仏しないやつも出てくる」

 鏑木は少女を背中から下ろし、橋の上に立たせた。少女を振り返り、黒い瞳を覗き込む。

「本当に死にたいやつなら、銃を渡す前に死んでる。迷ってるぐらいの奴なら、銃を渡せば大体は正気に戻る。だから、お前は本当に死にたいわけじゃなかったんだよ」

 それだけ言って、鏑木は橋と路面をつないでいる金具をまたいで、路肩に止めてあったセダンの運転席の扉を開いた。

「早く来い、もう自分で歩けるだろ」

 立ち止まったままの少女にそれだけ言って、返事も待たずに体を車内に滑り込ませる。エンジンのかかる音に合わせて、車体が微かに震える。

 少女はそのまま少しの間立ち止まってから、ゆっくりと橋の上を振り向いた。風の吹き過ぎる景色が、何も変わらずにそこにある。

 少女は肩にかけてあった、大きすぎる上着をゆるく体に巻きつけてから、そっと一歩を踏み出した。

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