枢機卿猊下の湯 (後)

「ですが猊下!」

「聞け助祭。戒律と同じものであるのならば遵守しなければなるまい」

「そんな……」


 オークはそれから富永さんに向き直る。

 彼に「事を荒立て申し訳なかった」と告げ、しっかりと頭を下げた。

 形だけではない心からの謝罪であることは誰の目にも明らかだ。


 何もそこまでする必要はなかったが、一件落着したようだ。


 若旦那はほっと胸を撫で下ろした。

 良かった。

 浴室の入り口から、デッキブラシを握りそっと様子を伺っていた番頭さんの出番がなくて、本当に良かった、と思った。



 枢機卿は暫くの間、湯船を見つめていた。


 だが意を決すると湯船に入る。

 そしてなるべく他の客から離れた場所に移動した。


 騒ぎを起こしてしまい、他の者たちからの視線が気になったせいもある。


 だが何より湯に浸かることそのものに抵抗があった。


 自分は貴族として生まれ、貴族としての教育を受けた人間だ。

 本心ではどこの馬の骨とも分からない下賤な者たちと同列に扱われるのは我慢がならなかったし、生理的な嫌悪感があった。


「猊下がここまでする理由、私には分かりません」


 隣では助祭が項垂れている。

 別に彼が悪いわけではない。

 代弁する者がいなければ、あの場で声を荒げていたのは間違いなく自分自身だっただろう。例え他意がなくとも下賤な者から湯をかけられるなど、屈辱以外の何物でもない。


「何故こうまでしてマツノーユに御執心なさるのですか?」

「……そういえば助祭にはまだ告げていなかったな」


 枢機卿がここに赴いた理由。

 それは外遊だ。

 教会に古くから知られ、現存する聖域、開祖ボンノーサイが訪れた聖泉の調査である。

 だがそれは嘘ではないが真意ではない。


「ニュウヨークマナーが守られねば、皆、気持ちよく湯に入れない」


 枢機卿は、若旦那の言葉を反芻する。


「あの者が言った言葉は実に正しい。教会の教義も同じだ。神の救いは、万人に等しくなければならない」


 今、世界には疫病が蔓延していた。

 黒霧の病の拡大は教会内でも問題視されており、一歩、大聖堂の外に出れば地獄のような光景が広がっている。

 日々、多くの信者たちが苦しみ死んでいた。


 無論、司教がいれば対疫の奇跡で治療が施せるだろう。

 だが彼らから治療を受けられるのはコネを持ち、大金のお布施を払える者だけ。つまり貴族軍人商人という限られた階層だけ。

だ。


 どれだけの言葉で取り繕おうと不公平がそこにある。

 一市民、一教徒では教会の恩恵にあずかれない。

 これが現実。

 これが教会の実態だ。


「我々はこの事実を何として変えねばならん」

「その通りですが……方法が……」

「ある」


 枢機卿は力強く断言する。


「疫病の原因が、人喰い蚤であることは間違いない。ならばその対策はひとつ」

「沐浴……ですが、それには何よりも問題が」


 助祭が俯き、口籠る。

 彼が何を言いたいのか枢機卿にはよく分かった。


 問題は『清貧』の教えだ。

 贅沢は罪、清潔は罪という教えがある以上、沐浴は習慣化できない。

 教会全体が、いや教皇が執拗に勧める、あの教えを、真っ向からそれを否定するわけにいかない。


「その為のマツノーユだ」


 助祭がはっと顔を上げる。

 こちらが意図していることがようやく理解できたようだ。


「ここは古い教会の言い伝えにある由緒正しい聖域」


 そのマツノーユが沐浴の場であるのならば、堂々と信徒たちに推奨できる。


「例え教皇と意見を違えることになっても、古くから教会で肯定されている事を否定はできないだろう。つまり正はこちらにあるのだ」

「そのようなお考えが……」


 マツノーユを識しる事。

 今、最も必要とされている習慣を学ぶこと。

 それが枢機卿が己に課せた使命だ。


 そして収穫は思っていた以上に大きかった。


 男女のしきりを設ける事で、性風俗の乱れを防ぐ事。

 掛け湯をし湯を汚さない事。

 綺麗な水を沸かす事。

 これらは間違いなく感染症の予防を想定した工夫だ。

 同じようにすれば例え病人が湯に入ってしまっても、他の者たちに病気が感染する可能性はを下がるはずだ。


「……」


 だがそれより何よりも自分を思い知らされた。

 口先では万人への救いを望み、青臭い理想を掲げている癖に、実際には権力を振りかざし、身分の低い者へ生理的嫌悪を感じる。

 自分は浅まく、矮小な人間だった。

 これから心を鍛えなおさねばならなかった。


「……だがその、何だ」

「……いや思った以上かもしれません」


 枢機卿は、助祭と顔を見合わせた。

 彼も表情を崩しているところを見ると、同じ気持ちのようだ。


「ニュウヨークは悪くないものだな」

「はい。こんなものとは思いませんでした」


 枢機卿はふうと息を吐いた。

 執務に次ぐ執務で強張っていた身体が、湯の温かさでほぐれ、滞っていた血行を巡らせていく。汗が噴き出し、適度な運動を行った後のような清々しさを感じていた。


 同時にそれまで感じていた居心地の悪さや、他人と湯を共有することへの嫌悪感がどうでもよくなってくるようだ。


「他人に湯をかけられたくらいで何を怒っていたのだろう」

「ええ私も騒いでいたのが恥ずかしくなってきました」


 枢機卿はそっと湯を掬う。

 元々ここの湯は異常なまでに澄んでいる。

 貴族が普段口にしている飲用水などよりもはるかに綺麗だ。

 そう考えると少し潔癖が過ぎたのかもしれない。


「猊下。聖典によれば、こういう時に言うべきしきたりの文句があるようです」

「ほう教えろ」


 助祭が耳打ちしてきたのは何とも奇妙な響きに文句だった。

 言葉自体には教義にある『極楽浄土』を指す意味があるようで、非常に御利益のあるように感じた。


 枢機卿は、ならばと目をつぶり、柏手を作る。祈祷を行う所作だ。


 願わくば、神の恵みが平等に降り注ぎますように。

 願わくば、人々の祈りが神に届きますように。

 そういう想いを込めながら低く、その言葉を呟いた。


「ハア、ゴクラクゴクラク」



「ややっこれはタイジュウケイだな」

「左様です、猊下。己の心の弱さを映し出す魔の秤」

「こっちのはドライヤアではないか」

「風を送り込み身嗜みを整える為の法具ですね」


 二人組が、いつの間にか湯から上がり更衣室に戻ってきていた。

 そして先程と同じように『聖典』を広げて、あれはこれは、と騒いでいる。


「……懲りないねえあの二人」

「そのようですね」


 若旦那は、番頭さんに仕事を任せて、様子を見ている事にした。

 先程は事なきを得たが、いつまたトラブルが起きるとも限らない。


 だが先程とは少し様子が違うようだ。

 今の彼らは落ち着いている。

 非常識なほど大声を上げていないし、通路の真ん中で並び道を塞ぐような事もしていない。

 何というか他の客たちへの配慮が伺えた。もしかしたら考えを改めてくれたのかもしれない。


「よお若旦那さっきはすまなんだね」


 富永さんが番頭台にやってくる。


「こっちこそ迷惑かけちまいましたね」

「いいんだよ。あの人たちも案外悪い人じゃないみたいだしね」


 富永さんはそう言って人の良い笑みを浮かべる。

 それから「いつものやつを三本」と言って蝦蟇口を開く。


「あいよ」


 彼には風呂上がりの習慣があった。

 だが幾ら何でも三本は多すぎる。最近はメタボリックなお腹を気にして一本だけに控えているはずだ。

 ならば残りをどうするのか。

 若旦那はそれを察して苦笑した。


「富永の旦那も人がいいねえ」


 富永さんはフルーツ牛乳を受け取ると、体重を計って遊んでいるオークと小男の元に向かった。


 少しのやり取りの後、恐る恐るフルーツ牛乳に口をつけたオークと小男は、予想通り驚きの声を上げる。


「神の賜物」とか「奇跡の飲物」とか「祝福あれ」などと大仰な言葉が聞こえてくる。

 二人は何度も褒め称えながら舌鼓を打ち、富永さんに感謝に言葉を告げている。


「どうやら万事が丸く収まったようですね」と様子を見ていた番頭さんが言う。


 若旦那は「良かった良かった」と頷きながら、どこかにまだ残っていたはずのパンフレットについて思い出していた。


 うん。だがまあ、あれはさっさと捨てるに限るだろう。


                        【枢機卿猊下の湯 了】

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