枢機卿猊下の湯 (中)
◆
「おお中は意外に広いではないか」
「猊下、あそこに巨大な絵画が」
ペンキ絵ですね。
浴室に入ると二人組の態度は一変して、上機嫌になった。
「何という雄大さ。実に荘厳であるな。恐らくは大山脈に連なる霊峰だろう」
「大聖堂にもないような傑作です」
富士山です。
「おい、あれを書いたものの名前は?」
近所の美大生だね。
「ビダイセイ。さぞや高名な画家なのだろうな」
「猊下、このタイル張りの床もなかなかよくできております」
「おお何とも美しい」
彼らはどうも美術品に目がないようだ。
ペンキ絵を眺め悦に浸ったり、床のタイルを撫で回したり、なかなか御満悦の様子だ。
「むむっ」
「ややっ」
今度は何だ。
「あれはよもやヤクトウでは!?」
「そうですとも。あれこそ浸かればあらゆる病気が治り若返り効果すらある名湯です」
「いや流石にそこまでは……」
「何を言う聖典に書いておるぞ」
小男が聖典――パンフレットを開き、指差してくる。
紹介分には確かに『若返りの効果あり』と書いてある。それ以外にも『万病に効果あり』『子宝に恵まれる』『美人になれる』等あることない事、効能をうたった挙句、隅の方に小さく『※個人的な感想です』と追記されていた。
「……あのじじい盛りやがった」
「早速入ろうか」
「楽しみですな」
「ちょっと待った!」
このまま湯船に入れるわけにもいかない。
子供のようにはしゃぐ二人を宥め、目的の場所に連れていく。
「旦那方、湯に入る前にこちらを御利用下さい」
「なんだそれは」
「掛け湯だよ」
「おおカケユ」
「おや御存知でしたかい」
「無論、水を流し、罪を洗い清める有難い湯だ」
うん、もうそれでいいや。
「そしてこれはニュウヨークマナーだ」オークがぽつり呟いた。
「教会の戒律と同じくらいに重んじるべき大切な心得だと、聖典にある」
「ええ。誰もが心地よく湯に浸かるためのルールです。ちゃんと守って下さいね」
オークと小男はこれまでになく神妙に、力強く「命に代えても」と頷いた。
いや守ってくれるのはうれしいんだけど何その反応。
一体、パンフレットに何と書いてあったのか知るのが怖い。
「おお壺からこんこんと湯が湧出している」
「この透明度。一体どうなっているのでしょう
「旦那方もういいから、後ろにお客さんがつかえてるから」
始終この調子である。
以前にハーフリングを教育していた番頭さんの苦労が偲ばれた。
おっさん二人でも手こずるのだから、あの時の大変さはこの比ではないだろう。
「まあ湯に浸からせとけば大丈夫だろう」
入浴は意外に体力を使う。
良い気分で上がった頃には、もう口数も減っていい感じに大人しくなっているに違いない。
だがそう高をくくっていた矢先に、問題が起きたのである。
◆
「貴様どういうつもりだ!! 猊下に湯がかかったではないか!!」
ちょっと目を離したすきに、小男が怒鳴り声を上げていた。
相手は常連の富永さんだ。
どうやらカランの前を通った際、湯がかかったらしい。
富永さんはこちらの住人だ。
商店街で花屋を営んでいる、銭湯好きのごく普通のマイホームパパである。
彼は「すいません」と大人な態度で頭を下げていた。
だが小男の怒りはおさまらず「汚らわしい」「下賤な者め」などとヒステリに喚いる。
ちなみに湯を受けたのはオークの方で、彼はじっとその場に佇んでいる。
何を考えているのかは分からなかったが、ぽっちゃりした身体を真っ赤にし小刻みに震わせていた。
何にしろ仲裁しなければならない。
「まあまあ旦那、お湯くらいでガタガタ言いなさんな」
若旦那は間に割って入り、小男にはっきりと告げる。
「ここは銭湯だよ。そんなことで汚い汚くないのを言っていたら湯船には入れませんぜ?」
それを聞いて「なっ」と絶句する小男。
「まさか我々とここにいる下賤な者らと湯を共にさせるのか!?」
そう驚いた声を上げる。
こちらが驚きである。まさか一人ひとつの湯船が用意されていると思っていたのだろうか。
「まあ宜しければですがね」
「けしからん。全くけしからんぞ。非礼を詫び、直ちに我々だけの湯を用意しろ!」
「……」
本来なら双方の気分をできるだけ害さないよう持て成すべきだろう。
どちらに非があってもお客さんはお客様。それが接客業のあるべき形だ。
だが今回に限ってはそれはやめだ。
別に常連の肩を持ちたいからだけではない。
何よりもまず湯屋としての道義をしっかり通すべきだと考えての事だ。
「旦那」
若旦那は腕組みをし、ぎろりと睨みをきかせる。
「あんたが他所じゃあどんな偉いさんかは知りませんがね、ここじゃみんな同じ。ただの裸んぼだ。偉いも偉くないも、賢いも賢くないも、老いも若いも、エルフもドワーフもハーフリングもリザードマンもオークだって関係ない。皆、体の垢を落として同じ湯船に浸かるのがルールなんだ。それが嫌ならご退場下さいな」
「くっ下賤な者が……その口を後悔させて……」
「待て!」
それまで黙っていたオークが口を開いた。
拳を固めていた小男を手で制し、こちらに鋭い視線を向けてくる。
「若旦那とやら」
「何でしょう」
「それが、貴君の言うニュウヨークマナーなのだな?」
そう問うてくる。
オークからの双眸からはただならぬ気迫が感じられた。
返答次第ではただではすまさないと言外に告げている。
「……」
若旦那は思った。
こちらの返答が気に食わなければ大変なことになるかもしれない。
この後でオークは何人もの部下を引き連れてくるかもしれない。
嫌がらせだけならまだしも、暴力行為に及ぶつもりなのかもしれない。
だが絶対にここで怯んではいけない。
もし店主である自分が、彼らにおもねるような返事をすれば、彼らを特別扱いするような事になれば、それで歪む。
入浴マナーは上っ面だけのただの言葉に変わり。
この場所は銭湯ではない、別の何かになり果てるだろう。
「誰もが、心地よく湯に浸かるためのルール。それが入浴マナーです」
「……分かった。非はこちらにあるようだ」
オークから意外な言葉がこぼれた。
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