姫騎士の湯 (後)
「おいバントウ」
「何でしょうか?」
「今一度問う。陛下は、ジントニウス様は、ここで何をしていた?」
「何をとは?」
「あの方が、自らの愉悦だけを優先するわけがない。何か深いお考えがあったに違いない」
アンジェリカが問うと、バントウは考える素振りを見せる。
「……そういえば愚痴っておられました」
「愚痴……?」
「義理の弟さんと仲良くしたいけど立場上厳しくせざる得ないとか、教会の連中が全然言うことを聞いてくれないとか、そういうお話を常連の方々にされていました。いわゆる飲み屋のサラリーマン状態ですね」
確かに国はここ数年、危うい状態にあった。
城内でも教会でも派閥争いが激化し、内戦すら危惧されていた。
他国で流行している疫病対策の一環として、国内で免罪符を販売しようとする教会にジントニウスが異を唱えた事もその原因の一端だ。
「それからこうも仰っていました。『自分のところにも公衆浴場があればいい。そうすれば誰とでも腹を割って話せる機会が増えて、もっと平和になるんじゃないか』と」
「……そうなのか」
公爵は努めて平静だった。
何が起きようとも、決して憂いを見せることなく、悠然と采配を振るっている。
アンジェリカの目にはそう映っていた。
だがそうではなかった。
公爵はきっと思い悩んでいたのだ。
だがそんな一面を誰にも吐露する事ができず、するわけにもいかず、この場所を捌け口にしていたに違いない。
アンジェリカは公爵の内心に思いを巡らせて、そっと湯船へ溜息をこぼした。
◆
きゅうううう。
身体を拭き、新品のように綺麗になった甲冑を着込んでいると、ふいにお腹が鳴った。
「こんな時でも腹は減るんだな……」
飲まず食わずで森を駆けてきたのだから仕方ない。
何も収穫がないまま長い帰路を辿り、城へと戻ることを考えると非常に憂鬱だった。
だが結局、公爵の真意は分からずじまいだ。
公にはできない元首としての人となりを知ることはできたが、何故、彼が自分にこの場所を教えたのか、その理由は突き止めきれないまま。
我ながら情けない気分だった。
「よおアンジェリカお嬢さん」
ワカダンナという男がやってきて、見慣れぬ何かが差し出してくる。
瓶に入った白い何かと、透明の袋に入った茶色い塊だ。
「牛乳とアンパンだ。ジンの旦那が風呂上がりによく口にしてたものだよ」
「……」
どうやら食べてみろと言っているらしい。
見慣れぬ食べ物に一瞬だけ躊躇した。
だが、ここまできて変なやせ我慢をするのもおかしな話だと思い、素直に受け取る。
「かたじけない頂こう」
「牛乳は、口を塞いでる型紙を捲って飲むんだ」
言われたとおりに飲み口を空け、恐る恐る口をつけた。
よく冷やされた動物の乳のようだ。
驚くほど獣臭くなくすっきりした後味で、喉を潤すにはぴったりの飲み物だった。
「……美味い」
「そうだろ。風呂上がりの牛乳は格別だからな」
透明の袋を破り、中身を取り出した。
どうやら、これは麺麭のようだ。
だが焦げ目がなくこれほど綺麗に焼けているもの、有り得ないほどふんわりとした食感も初めてだった。
そして二口目――強い甘味が口のなかに広がる。蜜や砂糖とは違う、これまでに味わったことのない独特な甘みだ。
「この黒い粒は何だろう?」
「餡だよ」
「あん?」
「要は豆を甘く煮詰めたものだな」
「成程」
どちらかといえば食事というよりは子供向けの甘露に近い物のようだ。
たが、すっきりした飲み口のギュウニュウとの相性は非常に良く、どちらかといえば甘い物が苦手な自分でもおいしく食べることができた。
「ふ……あの方でもこういうものを口にすることがあったのか」
「あの人すげー甘党だよ」
「そうなのか?」
「おれが餡蜜とか食ってると寄越せって言ってきてさ、一口だって言ってるのに全部食っちまうんだよ。ひでーおっさんだよ」
公爵が甘味の類を好むなど耳にしたことはなかったし、普段の食事でもそのようなものを口にすることは殆どなかったはずだ。
「できれば知りたかった……。こんなものを食べて喜ぶ可愛らしい一面があるなら、吐き出したい愚痴があるのなら、自分にも教えて欲しかった……」
だが、それは叶わぬ思いだ。
「ジンの旦那には娘さんがいたらしいな」
「……」
「公にできない娘さんでさ、親らしい事が全然できない。一度でいいから牛乳とあんパンを食べさせたい。……ってよく言ってたな」
アンジェリカはようやく公爵が自分にこの場所を教えた意味を知った。
「……そうか! ……そういう事だったのか!」
気がつくと、目からぼろぼろと涙がこぼれだしていた。
だが情けない事に食欲を止めることができず、嗚咽したままアンパンを租借し、ギュウニュウで飲み込んだ。
今は亡き父の愛情に感謝しながら。
(姫騎士の湯 了)
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