姫騎士の湯 (中)


 アンジェリカが通されたのは驚くべき広間だった。

 極上の陶器のように艶を帯びた石細工の床、取っ手を捻ると水と湯が沸き出る水道設備、高級な香水よりも香しい石鹸、洗髪専用の化粧品、そして多種多様の湯が張られた巨大浴槽などなど。

 あちこちに貴族が所有するような贅沢品で溢れかえっていた。


 ここは王族や貴族が身体を洗い潔める場所なのだろうか。


「身体を洗われましたら、お風邪を召される前に、湯船に入ることをお勧めします」

「……」


 女が促した先には、巨大な桶があった。

 そこからはもうもうと白い湯気が立っており、並々と湯が注がれているのが分かった。


 確かにあそこに入れば身体は温まる。

 だた女の言葉に従うわけにはいかない。

 弱みにつけ込まれたくない以上にそうしてはならない理由に気づいたからだ。


「おい、もしかしてここは公衆浴場ではないか?」

「左様です」


 やはり。

 アンジェリカはこの『マツノーユ』がどういう場所なのか理解し始めていた。

 かつて雪月花の国にも存在していたものなので知識としては知っていた。


「だが公衆浴場は営業を禁じられているはずだ」

「何故でしょう?」

「それはつまりだ。……男女で裸になればそういうことが起きると決まっているからだ」

「申し訳ありませんが仰っている意味が分かりません」

「こ、混浴と言うやつなのだろうここは?」


 雪月花国にかつて存在した公衆浴場は、蒸気で汗を流し、湯で身体を洗い、時には果物で喉を潤すことのできる市政の公共施設だった。

 だが男女で同じ湯に入る為、次第に娼館を兼ねるような一面を見せるようになり、風紀が乱れ、結果犯罪や皮膚病の温床となった過去があったのだ。

 それからは教会や国の法で固く禁じられ、取り締まりの対象とされているはずだった。


「御安心下さい。松の湯は健全で健康な公衆浴場でございます」

「そういう問題ではない。すでに国が禁じているのだ。もし営業しようものなら、国外追放だけでは済まぬぞ」

「ここは貴方の国ではなく東京都葛飾区です」

「……」


 アンジェリカは転移の魔法陣を通ったことを思い出した。

 成る程、ここが雪月花の国ではないのであれば、このような施設が存在していることは納得ができる。


「……だが何故、陛下はこんな場所に出入りしていた」


 アンジェリカは信じられない気持ちでいっぱいだった。


 彼女の知る公爵は公正公明な人物だ。

 教会の敬虔な信徒であり、戒律を何よりも重んじ、民衆に、貴族に、何よりも自分に厳しさを敷いてきた。だからこそ多くの者たちから信頼を勝ち得てきたのだ。


 近衛騎士団の一員として近くで、その姿を見てきた自分には、その人となりが嘘ではないことは十二分に理解しているつもりだ。

 それが自ら戒律を破るような真似を行っていたとは……。


「お前はジントニウスという人物を知っているか」

「常連様のおひとりですが何か?」

「彼は死んだ」


 そう告げると女は僅かに顔を伏せると耳をすまさなければ聞き取れない声で「人はとても儚い」とだけ呟いた。


「私が訪れたのは、陛下が、彼がこの公衆浴場に通っていた真意を突き止める為だ」

「真意とは?」

「それは貴様が知っているはずだ。彼について洗いざらい教えろ。隠し立てをすればただでは済まさん」


 アンジェリカは武器の代わりに桶をとり構える。

 何故、自分をここに向かわせたのか、何を伝えたかったのか。どんな手を使ってでも、この女から聞き出すつもりだった。


「であれば、やはり湯に入ることをお勧めします」

「どういう意味だ?」

「ジントニウス様がここでなさっていた事はただそれだけ。同じようにすれば何か分かるのではないでしょうか?」

「……」


 バントウの言葉に従うのは正直尺だったし、戒律や法を破ることはしたくはなかったが、今は何よりも公爵の事を知りたかった。

 彼がどういうつもりで足を運んでいたのか、なぜ自分をここに向かわせたのかを知る必要があった。


 ――何故なら私は。



 アンジェリカが両手ですくった湯は、塵も濁りもなく透明だった。

 これほど綺麗な水を、こんなにも大量に集め、すべてを湯に変える為に、一体どれだけの手間暇がかかるのだろう。


 今の雪月花の国に入浴の習慣はない。

 川などで水浴びをするのも、子供か動物だけで下賤と見なされている行為だと認識されている。

 普段は教会で配布している香水で清めるだけで、ごくたまに水で濡らした布で、身体を拭うのがせいぜいだった。


「……ふう」


 だがこの入浴という行為は案外悪くない。

 身体が清潔になるだけでなく、温まるのだ。凝り固まっていた筋肉が解れていき、全身に血が巡り、疲労が流れていくのが体感できた。


「お湯加減は如何でしょうか?」

「ふ、ふん……実に不快だ」


 バントウが声をかけてきたので、アンジェリカははっと我に返り、姿勢を正した。

 このままでは相手の思う壺である。

 公衆浴場の存在を肯定する事はできない。

 もし教会で禁じられているものを肯定すれば、堕落者の烙印を押され、世間から爪弾きにあうだろう。


「口ではそのように仰られてますが、身体は正直なようです」


 桶の外から女――バントウは僅かに目を細めこちらを見透かすようにそう言ってくる。


「ゆるみかけた口元と、赤くなった頬がすべてを物語っておいでです」

「くっ……何と卑劣な!」


 目を瞑り、抵抗を試みる。

 耐えろ。どんなに心地良くとも表情に出してはいけない。

 決して自分は湯に浸かりたいわけではない。これは公爵の御心を知る為の試練。

 アンジェリカはそう己に言い聞かせた。

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