閑話 先代
「邪魔するぜえ」
その日、暖簾を潜ってやってきたのは客ではなかった。
カンカン帽に和服姿。
異世界人ではないその出で立ちの老人は顔見知りだ。
というか身内だった。
「何だ、じじいかよ」
「先代様に向かってお言葉だねえ」
彼はこの松の湯の前経営者。
若旦那の祖父だ。
異世界温泉巡りに行ったきり帰ってこない不良老人でもある。
「いつの間に帰ってたんだ」
若旦那は問うた。
祖父が暖簾を潜った際、向こう側の風景は変わらなかった。
つまり彼は此方側の商店街からやってきたという事だ。
「いつだっていいだろ。で番頭さんはどうしたい?」
「回覧板出しにいったよ」
「はあついてないねえ。ここに唯一くる楽しみなのに」
「孫に会えたんだから満足しとけよ」
「てめえのしけたツラなんざ見たくなかったぜ」
祖父がわざとらしく大きな溜息をついた。
それから上がりまち框でどっこらしょと腰を落ち着けた。いつもならひとっ風呂浴びる癖に、店には入ってこない様子から長居しないのだと察した。
「それにしてもこっちは暑いな。ちょっと歩いただけで汗だくだ」
「運動不足なんじゃねえの?」
「馬鹿言っちゃいけねえよ。あっちにゃ自動車どころか自転車もねえんだぜ。……おう。坊にしちゃあ気が効くじゃねえか」
瓶ラムネを受け取りながら、祖父は嬉しそうに減らず口を叩く。
外は炎天下。
汗をかいている老人を放っておいて、倒れられでもしたらこちらが困るのだ。
「まだ彼方でほっつき歩いてんのか?」
「おう面白い地脈を見つけたんでな。ドワーフに掘らせてる。二、三年したら湧いてくるだろう」
「異世界行った挙句、温泉掘るやつなんざ聞いたことねえよ」
祖父は温泉好きというよりは温泉狂いだ。
隠居した身とはいえ自由すぎる行動は、見ていて心配になる。
孫としてはもう少し落ち着いて欲しい。
「でその袋は?」
「ああ……これな」
祖父の手にはビニール袋が下げられている。
可愛らしい蛙のマスコットが描かれているので、近所に薬屋で買い物してきたのだとわかった。ペットボトルやらゼリーやらがのぞかせている。
「肝心のドワーフどもが倒れちまってな。仕方ねえから色々買ってきた」
「例の病気か」
「最近じゃ大陸じゅうに広まっちまってる」
黒霧の病といったか。
かつて番頭さんがかかったという疫病の似た症状の病気。異世界から来る常連客からもあちこちで流行っていると話を聞く。
「市販のやつで効くのかよ」
「知らん。だがな仁丹噛んでりゃ大抵の病気は治る」
「治らねえよ」
例え治ったとしても、目の前にいる老人だけだ。
この祖父が医者嫌いなせいで、若旦那自身は子供の頃に何度も酷い目にあっている。
風邪で何度死にかけた事か。
今なら虐待扱いで児童相談所行きかもしれないが、昭和ヒトケタ生まれにはこれが常識なのだ。
「心配すんな。ついでに冒険者時代に手に入れといた霊薬エリクサーも持ってきた」
「それで充分なんじゃね⁉︎」
霊薬は希少な魔法薬だ。
不治の病も治すとの噂だから、ドワーフたちは助かるだろう。
「一大事なら手伝うぜ?」
知り合いを呼んで、番頭さんに店を任せる事もできた。
数日程度なら問題ない。
「なあに心配いらねえよ」
だが祖父は首を横に振った。
「あっちの連中はタフなのばっかだ。病気の解決方法だってそのうちパパッと思いつくだろうさ」
若旦那も常連客から聞いてある程度状況は知っている。
気楽に言うがそう簡単にことが収まるとは到底思えない。
「……」
若旦那としては彼方のゴタゴタには極力感知しないつもりでいた。
だがいい加減何かすべきではないか。
何かすべきではないかというおかしな使命感にも駆られてくる。
祖父は喉を鳴らしながらラムネを一気に飲み干すと、ごっそさんと空瓶を床に置いた。
「なあ坊」
「何だよ……」
祖父が袖口で口を拭いながら、こちらを覗き込んでくる。
その目は老人とは思えないくらい生き生きとしていて、まるで子供のようだと思った。
「お前は風呂屋だ」
「知ってるよ」
「だったら風呂屋にしかできねえ事をやりゃあいい」
「風呂釜磨いたり、巻き割ったりをか?」
「それだって立派な仕事だ。その代り精一杯やれ。そうすりゃあ、まあ破風の龍神さんだって、きっと悪いようにゃしねえよ」
龍神というのは、破風――妻側にある木造の龍の飾りの事だ。
松の湯は古びた銭湯の例に漏れず、寺社仏閣の名残のある造りをしている。それにこの辺りは大昔、龍がいという言い伝えもあったので、祖父は守り神として信心していた。
「意味わかんねえ」
「じゃあ番頭さん宜しくな」
祖父はそれだけ言うとくるりと背を向け、『男』と『女』の文字の間にある『異世界』の暖簾をかき分け、去っていった。
相変わらずの祖父であった。
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