■名前:楊 昊(ヤン ハオ)

■性別:男性

■居住:A級地区

■職業:軍人

■市民番号:※※※※※※※※



 楊 昊(ヤン ハオ)が猫について思う時、出てくるものは多い。まず猫は人間の言う事を聞かず、自由で、素直でない。本来群れる種類の動物でないから仕方のない事だが、時にふてぶてしさをも感じてしまう。子供の頃猫に引っ掛かれた記憶があるし、夜中の喚声が人間の声に似ている事が不気味で怖かった。黒猫に横切られた翌日に買ったばかりの自動二輪が盗まれた経験もある。何より彼の妻が猫好きで、猫と見るやそれに夢中になるから年甲斐もなく苛立ちを覚えた事もあった。猫は勝手に外に出て危ない目に合うし、ある日突然居なくなる事もある。彼は猫に若干苦手意識を持ちながら、世の人が魅力を感じる事に頷ける気もしていた。


 塀の上を歩く野良猫と擦れ違った昊は、暫し立ち止まり物思いに耽っていた。燃費の悪そうな安物の自動二輪が走り去る音で静かに我に返り、再び歩き出す。白い塗料の剥げかかった横断歩道を渡り、錆びついた信号機を越え、長らく修理されていない立体交差の下、速度を緩める事なく進む。昊が中央配属になった時に貰ったA級市民区の家に帰るのと同じく、綺麗なスーツを着て鞄を持っていたのは単なる横着だった。高級市民が何のようだと言わんばかりな好奇の視線に晒されるが、なんとか無視でやり過ごす。昊はいつもの自分の家に帰るようにして、肉親の住む家に向かっているだけなのである。大型貨物車が通ると、頭上の道路が軋んだ音を立てた。

 そこを潜り抜ければ商店街だ。僅か酸味の混じった油の匂いの中には、仄かに揚げ物の気配が感じられる。耐えず回り続けて雑音の混じる、無数の換気扇の音と熱気。人々は惣菜や生の食物を求め集い、声を張り上げる店主の濁声や女性達の笑い声が響く。


 中央物見組と外郭基地から揶揄されるわりには最近色々と忙しかった為に、弟の家に行くのは数ヶ月振りだった。手土産におかずか何か買って行こうか、と思いを馳せるが、やめる。今日は張り切って夕飯を作るからと、何やら楽しそうな声で通信魔儀越しに言われたのが頭に浮かんだのだ。結局商店街には入らず、門の手前で直ぐに右へと曲がる。煩い雰囲気の造形は壊れては直しを繰り返されて、所々照明の切れたままの様に懐かしさを覚える商店街の看板。帝国情報部の監視妖精型魔儀が中空を巡回しているのも、帝国都市にとってはいつもの日常風景である。何処からか流れる踏切警報器の音が、狭い中で犇めき合って縦に長細い住宅群が、闇が増し行く夕暮れの空に沈んで行く。微かに見え始めたのは、偽りの星。


 A級市民区に住む昊は許可を取って、C級市民区にある別の家に帰る事がある。主にそこに住む弟の様子を見る為であった。安アパートの敷地内に入ると、大家の老婆がこの時期の日課である夕涼みで外に出ているから、彼女に挨拶をして一言二言世間話をする。毎回同じ事だ。その後で、弟の住んでいる日当たりが良い二階の部屋に外階段を使って向かう。近づくにつれて良い匂いが増してくるのが分かる。これは香辛料だろうか。料理屋で長らく働いているだけあって、彼の料理は美味しい。辛味のある料理だと、昊としては嬉しいところだ。

「お邪魔しまーす」

 快活が売りの彼にしては疲れの滲む動作で、少し気の抜けた声を放ちながら見慣れた玄関に足を踏み入れる。いつものように廊下に腰を下ろし、いつものように革靴を脱いでいると、いつもはない小さな気配が左後方から素早く接近して来た。意に反して、身が固くなる。

 家族より先に、アーモンド型をした青い眼球と目が合う。毛だらけの小さな体、同じ色をした尻尾、全てが真っ白で綿の塊のようだ。白の中心に巻かれた赤い首輪が鮮やかに目に立つ。伏目がちにこちらを見上げ姿勢を低くし歩み寄って来る、警戒心丸出しの行動。おもむろに髭を手前に持って行くと、耳を広げながら突然の来訪者である昊の情報を探り始める。猫は昊が動かないでいる隙に、更に近寄って鼻腔を忙しなく動かし、床に置かれた手の匂いを嗅ぎ始めた。最早体の一部と馴染んだ左手薬指の指輪を、生暖かく湿った鼻先でつつかれる。三角形をした耳は一部欠けていて、喧嘩の経験もあるのが推測できた。至って澄まし顔の猫に反して昊の表情筋は、驚きに引っ張られて少し動いた。

「猫か……」

 スリッパの音が控え目に床を叩きつつ此方に迫って来ても、昊は体を捻った体勢のまま固まっていた。そこに緊張する空気を蹴破って、弟の声がかけられる。

「昊兄おかえり!」

 先程まで料理をしていたのか、エプロンをしたままだ。声色や表情を見るにすこぶる機嫌が良いらしい。彼は慣れた手つきで猫を抱え込み、白い片手を上げて招き猫の真似事をさせる。飼い主を信頼しているのか元々大人しい性格なのか、猫は人形の如くされるがままになっていた。

「オニイチャン、オカエリー。シンシンダヨー」

 妙に甲高い声を放ちつつ弟は猫の手を揺らした。猫の気持ちを勝手に代弁する無邪気な姿を、昊は何とも言えない顔で眺める。



 楊 昊には、年が十二離れた弟がいる。彼は父親違いの家族で、名を風(フォン)といった。髪は栗毛色で柔らかく、二重瞼の大きな瞳は良く見ると緑色をしている。昊と違ってセンスがいい。何故かたまに女性ものの服を着ているが、不思議となかなか似合っている。短く切られた黒髪、吊り目がちな一重瞼に焦げ茶の瞳を持つ昊とは特徴に殆んど関連性がないので、初対面の人間からは須らく肉親でないと思われる程である。お互い別の場所で暮らしていたせいか、考えや習慣も随分違っていた。


 昊が軍人として出世をしA級市民区に転居可能になった時も、風はC区に残る道を選んだ。彼曰く、この『ごちゃごちゃ汚いけど何だか暖かい区画』が好きだそうだ。突然この界隈へやって来た自分を受け入れてくれた近隣の人達への情もあるだろうし、深い事情を聞く事はせず雇ってくれた中華料理屋の店主に対する恩もあるだろう。そんな事情も汲んで無理矢理ついて来させる事はしなかったが、できればA区の家に一緒に移って欲しかったと昊は思っていた。A区の方が治安が良いし、自分の職場が近いし、いざと言う時の設備も整っている。何より、一度辞退するともう申請の機会はなかったのだ。ともかく、そこに留まるのは許可しているが、猫を飼い始めたなどと聞いていない。

「何故猫がいるんだ」

「ごみ捨て場に倒れてたから可愛そうだと思って。飼い主もいないみたいなんだよね。って話さなかったっけ」

「何も聞いてないな」

「はぁ? 昊兄飼っていいって言ったじゃん」

 想定外に冷たい兄の態度に興奮し始めた風の言葉で、昊は思い出した。忙しい時期の連絡だったので記憶が定かでないが、猫がどうのとか言って来た日があった気がする。確か自分は職務の事で頭が一杯になっており、弟はいつまでもだらだらとして明確に話さないしで、碌に飲み込まない内に適当な返事をしたのだ。その適当な返事がこんな結果を招くとは。昊は額に片手を当てて項垂れ、小さく笑った。

「……悪い、やっぱり言った気がする」

「まさか今すぐ捨てて来いとか言わないよね」

「俺はそんな鬼ではないし、ここはお前の家だ。最後まで責任を持てるよな」

「勿論だよ」

 猫は風の側に身を寄せていて、再び昊へ近づく事はしなかった。猫という種に苦手意識を持つ昊の心が伝わってしまったのかもしれない。

「名前は、シンシン?」

「星星(シンシン)。青い目の中で光がキラキラしてて、お星さまみたいでしょ」

 言われて見れば星空のような瞳をしている。昊が魅入っていると、猫は突然体の向きを変え目を反らしてしまった。何か悪い事をしてしまったのだろうか。

「ほら昊兄、いつまでも座ってないで、冷めない内に食べてよ。せっかくこの可愛い弟が、お兄様の為に作ったんだからさ」

 風は戯けた様子で芝居がかった台詞を吐くと、台所へと戻って行った。少し遅れて猫がその後を追う。もう料理は完成しているようだが、配膳する作業なら昊も手伝えるだろう。

「手伝おうか」

 首元でしっかり閉まっているネクタイを外しボタンを少し開けると、息苦しさから解消される。可愛い趣味の弟の室内に、以前はなかった猫の物がちらほらと確認できた。居間に荷物を置いてから台所へ向かえば、猫が弟の足元に纏わりついて頻りに鳴いている。おこぼれが欲しいのだろうか。これからは小さな家族を蹴らないように、足元に注意しなければならない。

「今日は麻婆豆腐作ってみたんだ。おじさんに教えて貰ったやり方やってみたから、前のより美味しいよ」

 弟の後ろから台所を覗き込むと、それ以外にも料理が並んでいた。知らない間にどんどん腕を上げるものだと思う。後はこれを机に並べるだけらしい。

「あ、うまそう」

「駄目」

 掴めそうな物に標準を定めて摘まみ食いを試みた昊の右手は、風の無慈悲な平手によって阻止される。昊は大人しく料理を運ぶ事にした。香りにつられて来た猫が瞳を輝かせつつ身を乗り出すので、昊はすかさず摘まみ食いは駄目だぞと視線で牽制する。猫も昊も、もうすっかり腹が減ってしまっていた。


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