第弐話 踏み躙られる者
月が見えている。
おかしい、と
満月だったはずの中天の月は、その位置をほとんど変えることなく上弦の月にその姿を変えている。
それに見えているのは月だけだけではなく、満天にぶちまけられた宝石の如き星々の瞬きが全天に輝いているのだ。
逆にいっそ明るく見えるほどの空から地上に近づくほどに、宵闇はその濃さを増している。
見上げる空ではなく、己の周囲は闇に覆われている。
己は宗右衛門町のど真ん中で、小型トラックにすっ飛ばされたのだ。
美しいを通り越して下品なほどのネオンが空からの星の光など掻き消し、雑踏の騒音がすぐ隣の人間が発する言葉すら聞き取り辛くする場所。
虫の音がりいりいと響き、颯々たる風の音が聴こえるような場所ではなかったはずだ。
月が見えるという事は、己は仰向けに倒れているという事になる。
背に感じるやわらかい感覚は土と草のものか。
これも大阪のど真ん中ではありえることではない。
仰向けに月を見上げながらこれはどうしたことかと考えたが、止めた。
これは多分、考えてもわからぬことだと思ったからだ。
考えてわからぬ時は、まず動いてみることだ。
ここで仰向けに月を眺めていても何も変わるまい。
幸いにして身体の痛みはなく、己の意思に従って自由に動くようだ。
あれだけの勢いで小型トラックにすっ飛ばされておきながら不思議な事だ。
鍛えている自信はあるが、あれで無事だと思えるほど人間の身体について無知な
ある意味、相手の身体を壊す事を目的とする『武の術理』を修めるものは、人間の体というものについて詳しくならざるを得ない。
それは医学的な意味ではなく、どこにどれほどの打撃を加えればどれだけ鍛えていようが壊せるか、と言った救いの無いものではあるのだが。
小型トラックに轢かれて意識を失い、意識を取り戻したら見知らぬ場所で寝ている。
狐に化かされたような話だ、と思いながら
念のために全身の各部を、鍛錬を始める前と同じように確認してみるがどこにも異常は感じられない。
慣れた感覚である打ち身すらも無いとは、自分が思っているよりも意識を失ってから長い時間が経っているものか。
大阪からここまで移動させる時間だけではなく、負った怪我が治るだけの時間が経過していると見るべきか。
だがそれも、毎日身体を鍛えている
小型トラックにすっ飛ばされた怪我が治るくらいの時間が経過しているのであれば、間違いなく自分の身体はもっと
肉体的なピークを超えてからは、鍛錬による維持をしなければすぐそうなる事を
それが無い。
それどころか、
これはいよいよ本当に狐に化かされでもしたかも知れない、と
御爺ちゃん子だっただけはあり、考え方が日本昔話な
さてどうしたものか。
そう思った矢先、かすかに人の声らしきものが聞こえてくる。
何を言っているかまでは解らないが、諍いのようにも聞こえる。
「やめろ、姉ちゃんに変なことすんな!」
森を通して整備されている道の脇、少し開けた草むらで二人の男が一人の少女を組み敷いている。
それを止めようと同じ年頃に見える少年が声を張り上げているが、馬車の中から出て来れないようだ。
まだ
「クッソ、なんで動けないんだよ!」
別に縛られている訳では無いが、嵌められている首輪の効果で身動きができないようだ。
どういう仕組みかはわからないが、それをつけられた人間は他者の意のままにされる効果があるのだろう。
「大人しくしとけ、坊主。別に殺そうってわけじゃない。ちょっと
馬車のすぐ脇で、少女を組み敷いている男の一方がニヤニヤと下卑た声をかける。
本質的な意味を理解していない少年の側で行為に及ぼうという、救いがたい低俗さがその声には滲んでいる。
はだけつつある服は立派だが、人間としての品位は最低の屑だ。
「姉ちゃんを食べる気か? 止めろ、
その言葉に、少女を組み敷いている男二人が下卑た笑い声を立てる。
「ぎゃはははは、ほんとにガキなんだな坊主。大丈夫だよ俺達が味見してもお姉ちゃんは無くなったりしねえさ」
「ははは、ちっと血は出るかも知れねえけどな。まあ大人しくしとけ、せっかく魔力があるってんで、
その言葉に少年は一瞬言葉につまる。
それは事実であるからだ。
この世界に覇を唱えているのは、
世界の大部分が、人類では太刀打ちできない
魔法防壁を発動させうる『魔力』を持った人類は極少数であり、そのため
『魔力』を持つのは圧倒的に
一匹二匹ならまだしも、群れに目をつけられれば蹂躙されるしかない状況でだ。
この世界においての『人類』の立場は、そんな脆弱なものに過ぎないのだ。
それでも
『魔力』を持った人類は常に不足しており、それを探し出す組織が成立することは自然の流れであった。
その組織に属する二人の男が
だが二人が
それを反故にされたのでは、何のために村を出たのかがわからなくなる。
反射的に少年が黙ってしまうのもやむを得ない事なのだった。
当然水面下では、子供である姉弟にはわからない恫喝もあったのは当然だ。
村の大人たちは、自分達を下位種族としか見ていない
それほどに見た目が美しい姉弟である。
日頃は
それでも『魔力持ち』を勝手に殺すことはただの下っ端管理官に出来る事では無いし、何時死ぬかわからぬ村落での暮らしを続けるよりもまだマシだと判断したのだろう。
自分自身こそが今組み敷かれようとしているのに、騒がない姉の方はそれを理意解しているのかもしれない。
意志持つ存在というものは、ただ生きていればいいというものではないのだ。
今まさに、この姉弟の尊厳は踏み躙られようとしている。
「じゃ、じゃあ僕を味見しろよ! 僕なら少しくらい血が出たって平気だし、姉ちゃんは女の子なんだぞ。僕でいいじゃないか!」
無垢な少年の叫びを聞いて、下種な男達が笑い転げる。
目を背けたくなるような光景だが、これこそがこの世界の現実でもある。
二人の管理官はそれなりの年齢で、
「確かに坊主なら替わりにしてもいいかもな」
「姉ちゃんの味見が終わって、まだ体力が残ってたら坊主も味見してやるよ」
少女を蹂躙することを止めるつもりはサラサラ無い。
だが男にしては美しすぎる、まだ年端もいかない少年を試す事も楽しいかもしれないと思う屑二人だった。
銀の髪に金の瞳。
整った容姿は
姉弟共に、そういう欲望を刺激するには十分すぎるほどの美しさを持った『銀狼種』
「ライ、馬鹿なこと言っちゃだめ。そこで大人しくしていなさい? お姉ちゃんは平気だから、もうそれ以上騒がないのよ?」
震える声を押し殺して、姉がライと呼ばれた少年に声をかける。
こんなくだらないことの犠牲は、自分一人で充分だとでも言わんばかりに。
「だ、だってリコ姉ちゃん……」
「いうこと聞かない子は、お姉ちゃんは嫌いです。……わかったね?」
必死で自分の感情を押し殺し、可能な限り優しく、そして厳しい声で
「はい……」
両親が居ない自分達を育ててくれた村への、物資支給を止められるわけにはいかない。
まだ自分たちが何をされようとしているのかも理解できない、何も知らない可愛い弟を、こんな馬鹿なことに巻き込むわけにも行かない。
避け得ない悲劇であるのであれば、それは最低限で済ませるべきだとリコは判断する。
「管理官様、私は初めてなので痛がってしまうかもしれません。ですけど精一杯お応えしますから、せめてもう少し離れたところではいけませんか? 弟に心配をかけたくないのです」
屈辱を顔に出さないようにして、精一杯可愛らしく懇願する。
自分の見た目を理解した上で、それを可能な限り利用するしかもう手は無い。
自分の
だがそんな覚悟も、一瞬で踏みにじられる。
「へっへ、弟に声を聞かれたくねえってか……ダメだ、ここでするんだ。心配かけたくなきゃ自分で声を抑えろよ」
「気持ちよさそうな声なら、弟も心配しねえんじゃねえか? がんばれよお姉ちゃん」
精一杯の懇願も、屑の嗜虐心を満足させることにしかならない。
この屑どもは自分を徹底的に陵辱した後、自分の目の前で弟もおもちゃにするだろう。
それが一瞬で理解できる、下卑た顔と声だった。
死んでしまったほうが、まだましかもしれない。
そう思っても、嵌められている首輪はそれすら許してはくれない。
全てが終わった後では、死ぬ気力さえなくなっている気がする。
悔しくて涙が出た。
どうして自分たちはここまで踏みにじられなければならないのか。
答えは簡単だ。
力が無いからだ。弱いからだ。
何をされても殴り返せぬものは、好きなように
たとえ屈辱に塗れても生きる事を選ぶのが正しいのだろうという事は、頭では理解できる。
だけどリコはこの瞬間、己の死を願うほどに絶望した。
伝説にしか聞いた事が無い、それらを統べる魔神だって構わない。
今すぐここに現れて、自分と弟ごとでいいからこの最低な
この二人の事だけで、
この二人が最低の屑であるというだけだ。
絶望して涙を流す自分を見て満足そうに笑うこの二人を殺してくれるなら、それこそ何を捧げたって構わない。
本末転倒でもいい。
神でも悪魔でも、勇者でも魔王でも、
誰でもいいからせめてこの二人だけは……
まだ誰にも触れられた事の無い無垢な肢体へ手を伸ばし、汚い口を自分のそれへ近づけてくる男を、せめて心だけは屈服するものかと睨み付けながらそう思う。
だけど怖い。
悔しい。
悲しい。
本当は誰でもいいから助けて欲しい。
そんな都合のいいことが起こるはずが無いという事は、この短い人生でいやというほど思い知っている。
両親が帰って来なかった時も、夜明けまで神様に祈ったけどなんの効果もありはしなかった。
当然だ、この世は残酷なのだから。
だから今、自分はこんな目にあおうとしている。
だけど。
「た、助けて……」
最後まで意地をはることができず、思わず目を閉じて懇願の言葉を口にしてしまう。
それは目の前で自分を陵辱しようとしている男共に対してのものではない。
だがきつく閉じた瞳からあふれる涙を目にし、その言葉を聞いた男達の嗜虐心はより一層刺激される。
最低の悲劇は止めようもなく起こるはずだった。
だが奇跡は起こる。
ぎりぎりで。
『子供に何をしている』
無感情な言葉で、いつの間にか気配も感じさせずに真横に現れた
ぎりぎりで男の手も口もリコには触れていない。
『大丈夫か?』
リコを見て一瞬驚いた表情を浮かべた
だがリコに日本語が理解できるはずも無い。
自分でも通じるはずが無いと思っていた祈りが通じた事に、リコもその美しい顔をぽかんとさせている。
「あ、ありがとうございます」
それでも服をはだけさせられている自分を見る目が、『子供を見る優しいもの』である事を本能的に理解して、リコは泣きながら
『怖かったな……』
何を言っているかはわからないが、優しく頭をぽんぽんとしてくれる
危機的状況を救われたことによる、刷り込みでも構わない。
賢いリコは自分の感情を冷静に分析している部分もある。
それでもついさっき自分が全身全霊をかけて祈った事を叶えてくれたこの人にしがみ付いて泣く事しか、今のリコにはできることは無かった。
「てめえ……何もんだ」
蹴り飛ばされていないもう一人が距離を取り、口から血を流しながら立ち上がる、蹴り飛ばされたほうの肩を支える。
「いいや、何もんでもかまわねえ。見たとこ
蹴り飛ばされたほうが、視線に殺意をみなぎらせて
まだ何も終わっては居ない。
リコとライは首輪の為に戦力にはならない。
不意打ちゆえにもろに蹴りを喰らった『管理官』も、魔力展開をした後はただの力押しではなんともなら無いはずだ。
リコの目から見ても『魔力』を全く感じない、自分を助けてくれた
だけどなぜかリコには、自分を助けてくれた
それは
そもそも『魔力持ち』は、通常でも無意識に小規模な魔法障壁を展開しているものだ。
それだけに魔法障壁を展開さえしていれば、
それなのに、さっきの一蹴りで屑の片割れはすっ飛んでいった。
――なんのアクションも無く、魔法障壁を無効化している?
『何を言っているかはわからんが、向けられる殺意はわかる』
そういって、軽々と右手一本で抱え上げていたリコを地上に降ろし、己の背後、護るべき人の位置へリコを置く
そのさりげない動きが、リコには物凄く嬉しい。
首をコキコキと鳴らして
『子供に悪さするやつには容赦するなと、爺様から言われてるんでな』
ゆっくりと、『
『――ぶん殴る』
それなりの距離があり、魔力展開を始めている男二人の懐へ、一瞬で距離をつめて
勝負は一瞬でついた。
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