「高く付くよ、この代償はね」

幻死蝶

 地底湖の水面に突き立った巨大な水晶の剣が、大小さまざまな切り子の面を輝き見せつつ映り込んでいる。

 風もない湖面に向かって遙か上から一筋、二筋、細い蜘蛛の糸のような光砂の滝がこぼれおちている。永遠の静謐が支配する世界。どこまでも続く怜悧なきらめき。

 しんとして、つめたく。昏く。

 アリストラムは水晶の砂に埋もれた身体をむりやり引きずり起こした。

 天井を見上げる。

 何も見えなかった。

 いったいどれほどの高さから落ちたのか――

 周辺の景色がまるで変わっている。おそらく洞窟の最下層まで落ちたに違いない。

「ラウ」

 おぼつかぬ声で呼んだ。声だけがうつろに反響してゆく。

 誰もいない。生きている物の気配すらない。

 アリストラムは無意識に地面の砂を掴み、ふと手に触れた固い感触に気付いた。砂を掻き分ける。

 ぞっとする白い色が見えた。

 朽ちた骨。アリストラムは息を呑み、砂ごと骨を投げやった。

「ここは……」

 死の世界だ。

 ぞっとする気持ちを押さえきれないまま、アリストラムはよろめき、立ち上がった。

 漆黒の湖はどこまでも広がっている。もし、気を失ったまま湖に落ちていたら。

 アリストラムはかぶりを振った。

 ざらつく杞憂を払い落とす。

 かなりの距離を飛び降りたとはいえ、二人ともほぼ同じ地点に落下するはずだ。だが、もし。

 記憶が鈍い閃光のようによみがえる。もし、ラウがレオニスの十文字槍の直撃を受けていたら──

 遠くに光が見えた。

 赤、黒、青、翡翠の色。小さな光の点が無数に寄り集まり、地底湖のほとりで乱舞している。

 アリストラムは砂を踏んで歩き出した。

 黒ずんだが水辺に落ちている。

 暗黒の虹めいた光の群れが周辺によどんでいる。

 ゆらめき舞い散る闇の蝶。まるで、浜辺に打ち上げられた死をあざ笑ってでもいるかのようだった。

 蝶が舞う、その下に、ぐっしょりと濡れた何かが横たわっている。

 アリストラムは駆け寄ろうとした。

 だが、次の刹那。

 蝶の背後に銀の影が浮かび上がった。光はみるみる凝り固まって、冷たく光り輝く槍を手にした人の姿へと変わった。

「レオニス」

 アリストラムは声を押し殺した。身構える。

「そんなに大切か、このゴミが」

 レオニスは作り物の憫笑を浮かべた。

 アリストラムと似て非なる鋼色の髪。血の色の瞳。大理石のごとく冴え冴えとした美貌は怜悧を極めている。

 だが、その声は深淵で煮え立つ溶岩に似て、自ら茹だる熱に熔けゆがんでいた。

「こんな魔妖一匹。何の役に立つというのだ?」

 銀の十文字槍が、ぐらりと炎を巻き立てて旋回する。

「今なら許す。この狼を殺して、俺の下へ戻ってこい」

 レオニスのブーツが、瀕死の狼を残忍に踏みにじった。

 狼が血を吐く。

「足を退けろ、レオニス。警告だ」

 アリストラムは紫紅の瞳を細め、声を低めた。

 レオニスは表情をかき消した。

「そうまでして欠落者としての生き恥を晒したいか、アリストラム。誇り高き聖銀の使徒ともあろうものが」

「そうさせてきたのは、貴方だ」

 ぞっとする低い声がアリストラムのくちびるから滑り出る。

 レオニスの表情が、ふと、戯れの嘲弄へと変わった。

「俺が?」

 アリストラムはレオニスを、そしてその足元に意識なく横たわる狼を見やった。

「その答えは、貴方自身が一番よく知っているはずです」

「愚答だな」

「私が、私自身の過去を知らずにいたのに、貴方はそれを知っていた。それが、答えだ」

 アリストラムは押し殺した声で言った。

 レオニスは、ふと肩の力を抜いた。

 冷ややかに嗤う。

「面白いことを言う」

 笑い声が次第にうわずってゆく。やがて笑いは狂気の哄笑へと変わった。

「貴様如きに、欠落者であること以上の価値があるとでも思っているのか」

 レオニスはぴたりと笑い止んだ。

「この俺の奴隷となるより他に、貴様を生き長らえさせる理由など欠片もない、ということをな」

 聖銀の槍を高々と振りかざす。

 飛び散る銀色の炎が、幾筋もの狂乱の尾を引いて地面に突き刺さった。その顔は、踊り狂う陰影に照らし出されて、まるで髑髏のように見えた。

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