第43話「輝ける場所」

 そして。


 あれほど難儀した登りが嘘のように、あっという間に下山してしまった。

 琅惺が一人急いで来た道を、今度は二人で帰る。

「何お前五通観に乗り込んだの? また思い切ったことを――やっぱ性格変わったよな」

 琅惺からこれまでの顛末を聞かされた珂惟は、驚きの余り手にした麸餅を取り落としそうになった。琅惺はというと「歩きながら食べるなよ」とばかりに非難がましい視線を珂惟に向けながら、

「そうでもしないと事が明らかにならないじゃないか。君が体を傷めて行を行ってるのに、一人のんびり経なんか読んでられない」

「なんかって……。ヤバいだろそれ。お前がそんなこと言ったら、俺のせいだって上座にまた怒られるじゃねえか」

「また?」

「覚えてねえのかよ。お前、上座に俺を殴ったから罰してくれって言ったんだろ? 『琅惺に何をした』って詰問されたよ。まずは『大丈夫だったか』って心配するのが普通だろうが。まったく、上座はお前には本当に甘いんだから」

 すねたように残った麸餅を口に放りこむ様が何ともかわいらしい。

「何だよ、何がおかしい」

 その言葉に、琅惺は自分が笑っているのに気づく。慌てて、

「いや。風が気持ちいいから、つい……」

 その言葉に、珂惟は竹筒の水を飲みながら辺りを見回すと、

「そういや、もう夏だもんな」

 そう言う珂惟の目は、沿道沿いに立ち並ぶ棗に向けられている。小さな黄白色の花が、開き始めていた。

「のどかだよなー。城内(京城)は色彩がケバいけど、城外はどこも穏やかだ。洛陽もそんなんだった」

「洛陽、君の故郷だっけ」

「そ。そーいやお前ってどこなの? 上座が連れて来たって話は噂に聞いたけど。俺の六年も古いけど、下手な比丘よりよっぽど長く寺にいるもんな、お前」

 頭上で囀りながら旋回する雲雀に目を移しながら、珂惟は何気にそんなことを訊く。爽やかな日差しの中、琅惺の表情には全く気づいていないようだ。

「京城城外」

 ぶっきらぼうに吐かれた言葉に、

「え、もしかしてここら辺? じゃあ、いい機会じゃん。親御さんとか知り合いとか、会いに行く? なんなら一緒に行ってご挨拶してやろうか?」

 陽気に誘われたのか、妙に嬉しそうな珂惟の言葉に、琅惺はただ一言。


「――死んでればいい」


「……。は?」

 僅かな沈黙の後こちらを振り返った珂惟の目をかわすように伏せた琅惺の口元に自然、冷えた笑みが浮かぶ。顔を上げなくても視線が注がれていることは、分かった。


「そんな――なワケ? 親、が?」


 琅惺は目を伏せたまま小さく頷き、

「――父は……、働きもせず酒ばかり飲んで、金がなくなれば其処此処から勝手に借りて、気に入らないことがあればすぐ暴れる。道理なんてそんなもの、どこにもなかった。母は、そんな生活に嫌気がさして、私を置いて出ていってしまった――まあ、ありがちな話だ」

 二人の上で、雲雀が変わらず鳴いている、軽やかに。

「母が居なくなって、全ては私に被せられた。家のこともやり、僅かな手間代を取るために近所に手伝いにも行った。みんな同情し、哀れんではくれた。だけど、貧しい村だ。飢えて山菜を貪り、時に誤って附子に手を出してしまうくらい、みんな自分たちの生活で手一杯だった。そんな中で、父親は酒を浴びるように飲んだ。私の僅かな働きも全て、酒代に消えて行く――呑まれると分かっていて、砂に撒く僅かな水を得ることに心を砕くような、やるせない日々が続いて……ある日気づいたら、私は酔って寝ているあいつの背後に立っていた。手に、鎌を持って――」


「……。それで?」


 沈黙に耐え切れないように、珂惟が聞く。すると琅惺の表情が、ふと緩んだ。

「普段は酔い潰れたら起きもしないくせに、その時ばかりは、ガバっと起き上がってきた。人殺しに、なりそこねた」

 棗の枝が、柔らかにさやぐ。

「その翌日だった。あいつが、私を、借金の形に人買いに売り渡したのは。――怒りも、悲しみももう感じなかった。きっとこうやって、物みたいに扱われて私のつまらない一生は終わる――思いながら、西市で売りに出された私を買ってくれたのは――上座だった。仏だと思った。絶望の日々しかなかった私に、未来の光を投げてくれた、あの方は」

「それが……三千文?」

「そう、子供の奴隷の相場だ」

 琅惺は小さく頷いて、静かに笑った。

「憎い? 今でも」

「昔のことだと思う。ただ時々、昔が急に思い出されては、どうしようもなく苦しくなる。私は、これからも自分を虐げる者に対して、鎌を握る人間なのかもしれない――上座に買われるような、そんな価値なんか、本当はどこにも、ありはしないのに」

「価値? もしかして――」

「そう。三千文の、ね」

「へえ」

 相槌を打つ珂惟の声が、いつになくぶっきらぼうだった。

 しばらく、ただ二人の足音と錫丈の金環の揺れる音だけが辺りに響いた。


「あー」


 それを破ったのは珂惟の唸り声、であった。

 「うー」唸りながら珂惟は髪をかきむしり、

「お前さあ、今の話、絶対! 上座の前でするなよ。確実に怒るからあの人。ってか、俺も腹立たしいけど」

「え?」

 不機嫌さが露な珂惟の声。彼は尚も苛立ちを隠そうともしないまま、

「昔三千文だからって、それが何なんだよ。言っとくけど、上座は三千文はもちろん、その十倍、いや、いくらだってお前のこと売っぱらったりしないから。つまらないことを言うなよ頼むから。つまらなすぎて、ムカついて、泣けてくる」

「――軽蔑、しないのか」

 呟くような問いかけ。

 「何で!?」珂惟は苛立った声を上げ、

「どこにそんな必要があるってんだ。俺だって『こいつ殺す』って思ったことあるヤツいるし。そいつ俺より格段に強かったから、逆に殺られるの確実されそうだったから、やめといたけどさ」

「……」

 琅惺が思い浮かべたのは、杏香から聞いた珂惟の洛陽での生活。

「……。聞いたんだな。俺が寺に入る前のこと」

「――!」

 絶句する琅惺。それを見た珂惟は「やっぱり」と呟くと、

「お前は嘘つけないし、杏香は気を許したヤツには口が軽い。自明の理だ」

 そう言って盛大にため息をついた。

「まあいいや、昔の話だし。――でも、お前はやっぱ凄いって。だってそれだけ悩みまくっても、度は最年少合格しちゃうんだからさ。だから――もう、いいじゃんか」

 珂惟は、琅惺の目を捉えると、

「変わらない昔のことも、ありもしない将来のことも、もう、いいだろ? 才能ムダにすんなよ。その分他に回せば、俺なんかと双璧だなんて間違っても言われなくなるのにさ。上座だって――」

 そこで少し口ごもり、

「上座だって、安いとか高いじゃなく、お前のこと見てて、頼りにしてる。そういうのは、俺じゃ無理なんだよなー。悔しいけど」

 僅かな悔しさが顔に表れるのを、珂惟は隠そうともしなかった。

「――何でそんなにさらっとしてるかな」

 しばしの沈黙の後、琅惺は無表情にそんなことを言う。それに対して珂惟は大仰な声で、

「何それ! それって俺が単純とか悩みなさそうとか、そーゆーこと?」

「ちょっと違う気もするけど、まあ、そういうこと」

「何だよそれ」

 口を尖らせる珂惟に、

「褒めてるんだよ」

 琅惺は、ふと口角を上げてそう言うと、にわかに足を早めた。

「急ごう、上座が君の帰りを待ってる」

「お前が俺を連れてくるのをだろ?」

 肩越しに振り返った琅惺の目は、優しげに細められていた。珂惟は天を仰ぎ、一つ、ため息をつくと、

「しょーがねえ。爺ぃの早期回復に手ぇ貸してやるか」

「上座を爺ぃとは――って何で走るんだよ!」

「急ごうって言ったのはお前だろ」

 二人の少年の笑い声に、畑で腰を屈めている老夫婦が揃って体を起こした。道行く親子連れも、何事かとばかりに振り向く。

 天上を越えた日が、揺れる草木に、開く花に、全ての風景に白い輝きを与える。南風が景色をなびかせ、錫杖の涼やかな音を辺りに響き渡らせていった。


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