第42話「支えるもの」

 翌朝早く、笠を被り錫杖を持った琅惺が京城を出た。

 城外に出ると、城内では馴染みの鮮やかな丹青は全く見かけない。白く煙る道端に浮かぶのは草木の緑と、点在する白や黄、紅の花。そして眼前どこまでも続く白茶けた道。

 霞がかった人気のない道を、琅惺は黙々と歩く。やがて霧が晴れ、少しずつ姿を現した太陽が緑に光を与えても、蝶が飛んでいても、花が美しく咲いていても、琅惺は目もくれずにひたすら歩を進めた。

 田を耕す地元の農民らに声をかけながら、寺主に告げられた、ある山麓の寺にたどり着いたのは夕刻前であった。京城から終南山までの道筋からは外れたところにあったが、寺主は珂惟にもここに立ち寄っていくよう言い付けたという。そして珂惟はこの寺に着くと、すぐさま山中に足を運び、自らが修行するだろう場をきちんと言い置いていた。だからここで一夜の宿を借り、明朝、珂惟を迎えに行き、そのまま京城に戻ることにした。

 そこは老いた比丘と、身の回りの世話をする行者のただ二人がいる小さな寺である。

「お疲れであろう、今宵は早めに休まれるとよい」との勧めで案内されたのは、広くはないが、よく掃除された宿坊。

 荘露、と名乗る幼い行者は、手早く座具を用意した後、足を洗う水を持ち、琅惺が洗い終わるのを見て取ると、拭くための布を渡す。彼は戸惑う琅惺をよそに、突然の来訪にも嫌な顔せず、それは愛想よく動き回る。そして鄙びた寺のものとは思えない上質な衾を運び込むと、

「御用がありましたら、いつでもお呼び下さいね、琅惺様」

 それどころか笑顔で『様』づけされた時には、琅惺は言葉を失ってしまった。

 さすがに恐れ入って翌早朝、境内の清掃を手伝うことにする。

 共に地を掃き、床を拭う。初めは恐縮し切った荘露だったが、次第に言葉をかけてくるようになった。話は専ら度のこと。そして、

「琅惺様のご高名はかねてより伺っていました。私も五年の後、受験資格を得た暁には、必ずや後に続きたいと思っているのです」

 興奮しきった口調でそんなことを言う。それでこの好待遇か――納得がいった。

 ――だけど。

 これまで最年少合格者の一人ということで、向けられた目は、上座や寺主といった年も身分も随分上の方は別にして、決して好意的なものではなかった。それが当然と思っていた。だけど、こんなふうに見る者もいるのか――とても意外で、少しくすぐったい。

 そして、手際よく休まず動き続ける手、この寺をただ一人でここまで磨き上げてきた、感動さえ覚えるこの健気な姿が、自分を目指すと言う言葉に、身震いさえする。

 荘露は慣れた様子で斎(食事)を整え、食し終えた琅惺が立つ折には、珂惟が居るであろう山の道筋を、それは丁寧に教えてくれた。

「お近くにお寄りの際には、きっとまたおいで下さいませ、きっとですよ」

 いつの間に用意したのか水を入れた竹筒と麸餅(小麦を練って焼いたパン)を差し出す。「ありがとう」

 敬慕の光を湛えた目で見られることに、気恥ずかしさがあり、嬉しさもある。

 そして思いもする。自分より先ん出た者に、これほどまでに素直に、称賛を表せるだろうか。そして、この目を向けられるような自分であるだろうか――そうでありたい、いや、あらねばならぬ。

 澄み渡った早朝の気に、錫杖の金環の音が、涼やかに溶けていく。



 言われた道を辿ると、やがて山に差しかかった。蔓が人を寄せ付けないよう絡み付いていたが、そこを抜ければ杉林になる。薄い暗がりの中、真っすぐ伸びる幹の、頭上遥かに生い茂る葉の間を縫って、斜めに差し込む陽光が透き通った輝きを見せていた。涼気が、身に絡む熱気を払って行く。心地よい。

 緩やかな傾斜、確かに歩きやすい道である。だが、平坦な長安の街並しか歩いていなかった琅惺にはやや難儀なもので、自然息が上がっていく。最初は周囲を眺め、草木の名を思いながら歩く余裕もあったが、次第にただ辿る道筋のみを見つめ行く自分がいた。あの少年はここを内院のように歩いてるだろうに、情けない話だ。昔は自分も、こういう中で生きていたというのに。もう十年近く前――。

 にわかに蘇った記憶が、清雅な風景に癒されていた心を波立てる。振り切るように何度も頭を振った。顎を、汗が伝う。

 ――だけど。

 初めて、あの生活が役に立った、のかもしれない。

 あの、おぞましいとしか思えなかった、あの村での生活が。

 無駄ではなかった――のかもしれない。消し去りたいとしか思えなかった、あの日々も。 

 錫杖を杖代わりに、時によろめいたのを幹に支えられながら、少しずつ上っていく。

 やがて林が途切れた。言われたまま、微かについた道筋を外れると、傾斜がゆるみ、金鳳花や菖蒲など、水湿地に生える植物が目立ち始めた。心なしか気が一層潤ったように思い、耳をすます。

 すると、微かに水音が聞こえて来た。自然鈍っていた足に力が入る。道は下りになり、歩を進めるにつれ、水の落ちていく音が次第に大きく、激しくなっていった。

 ほどなく。

 耳に轟音が絶え間なく流れ、目にはっきりと映る水。現れたのは大きな滝。そして水しぶきの中、朧に浮かぶのは白い影。

 思わず足を止めた。そして蔓を絡ませる木の陰から、滝の様子を窺った。

 人影は、合掌したまま動く様子がない。激しく、止むことなく打ち付ける水にもまるで怯んでいない。

 その様子を、琅惺はただ黙って見ていた。

 どれくらいそうしていたのか。

 ふと、足元の影が、少し短くなったことに気づく。余り遅くなると、城門が閉まってしまう――そう思い、その場を離れようとした時、人影が動いた。水しぶきから抜けると、頭を振りながら岸へと歩いてくる。


「あれ」


 髪の水を絞っていた珂惟が声を上げた。

「琅惺じゃないか、何でこんな所に」

 水辺に寄る琅惺に、珂惟は驚きの声を上げた。派手な水音を立てながら、大股で近づいてくる。山に籠もって半月ほど、もともとそう大きくはない体が一回り小さくなり、しかし肉が削げ落ちた顔の中で、目だけが大きく輝き、澄み渡っていた。

 知らず口元が上がる。

「今日は、君を迎えに来た」

 そして次の言葉をかけようとした瞬間、

「何か、逞しくなったなあ、お前」

 言おうとした言葉そのままを、先に言われてしまった。

「何言ってるんだ。それを言うなら君だろ」

「そりゃ俺はそうさ、滝に打たれて断食してんだ。これで逞しくならなかったら、おめおめ帰れねえじゃねえか。お前はなんつーか、顔付きが変わった」

「……。化度寺の上座にも似たようなこと言われた」

「えっ、あの爺いに会ったの? 何でまた。で、何て言われたんだ」

「――顔が、柔らかくなったって」

「あーそー、そりゃまさしく俺のお陰でしょう。お前堅物だったもんなー。今じゃすっかり崩れちゃって、そこがまたかわいいけど」

 言いながら珂惟は岸に置かれた衣の山から一枚を取り、顔や髪やらを拭いている。

「ヤツが、また現れたんだ。今度は化度寺の上座が狙われた」

「――何だって」

 にわかに珂惟の表情が険しくなる。対する琅惺は、

「ヤツの正体が分かった。それでこの件について仮説があるんだが、聞いてくれないか」

 と、穏やかな表情でそう言った。



「――つまり、『道僧格』にその一条が入るのを阻止するため、五通観のヤツが『道僧格』の製作に携わってるうちの上座や化度寺の上座を狙ったってことか――確かにそんなん入ったら大っぴらに占いとかできなくなって金稼げなくなるもんなって、俺も困るけど」

「そういうこと。無言の圧力ってヤツかな」

 乾いた服に着替えた珂惟は、水辺近くの大岩に腰を掛け相変わらず髪を拭いている。琅惺はその岩の根元に凭れるように座っていた。

「で、何? あいつに対抗できる術って」

 頭上から声が掛けられた。琅惺は背負った包みを解きながら、

「そもそも仏教徒の君が道士に彼らのやり方で対抗しようというのが無理なんだ。仏教徒なら仏教徒のやりかたでってことで、効きそうな経を見つけたんだ」

 そう、一巻の書を手渡した。珂惟はそれを紐解く。

「『摩訶般若波羅蜜大明呪経』? 聞いたことねえな。何か『般若経』っぽいけど、何これ羅什三蔵の訳なの? 凄え。でもこんな短い経で、本当にあいつに対抗できるのか?」

「その経の効果のほどは上座も認めてる。何でも、かの玄奘法師がお持ちだったそうだ」

「玄奘法師の?」

 琅惺の言葉に、珂惟はしばし経文を目で追っていたが、やがて琅惺に目を投げた。その視線を受け止めた琅惺は、少し笑みを見せると、

「上座はすっかりよくなられた。今月中には床払いされるはずだ」

 その言葉に、珂惟の表情に笑みが浮かぶ。

「お前がよくしてくれたんだろ? 何たって医術に心得があるんだし」

「もういいって、それは」

 珂惟の言葉に、琅惺は苦笑を浮かべる。

「それにしても」

 声に顔を上げると、珂惟が不思議な表情で自分を見下ろしていて、

「どうやってこれを手に入れたんだ。誰かに聞いたのか」

「いや。蔵経楼を探した」

「一人で! あそこ半端じゃない経典があるだろ」

「――私にできるのはそれくらいだったし」

「沙弥の務めも上座の世話もあるのにか? よくそんな、下手したら無駄に終わりそうなことやるな。クソ真面目というか、何というか……。面倒くさいとか、徒労になるかもとか思わなかったの? そんな重労働、俺にはできん。よくやったよ」

「――こんな所に来るような君にだけは、言われたくない」

 自然、琅惺の口元が歪む。それには珂惟も苦笑して、

「それもそうか」

 そして立ち上がると、

「――恐らくまだ狙われる人間がいるはず。一刻も早く山を下り、今後の手を考えよう」

「そうだな」

 珂惟はひらりと岩上から飛び降りる。

「あ、でもその前に」

 琅惺は荘露から渡された麸餅を差し出し、

「下山するには体力いるだろ? 日が昇る前に、これ食べろよ」

「俺、出家者じゃないから、いつ食おうと関係ないし――にしても、随分用意がいいな」

「用意してくれたんだ。下の寺の、荘露という行者が」

「荘露? ああ、あの愛想のない小生意気なガキ。何だよ、俺が寺を出るときは何もくれなかったぜ、ひっでえ差別」

 忌ま忌ましげにそんなことを言う。琅惺は「意外だ」といった顔をして、「同族嫌悪か?」

 対する珂惟は「心外だ」と言わんばかりに、「俺とあのガキの、どこが似てるっていうんだよ! ――ま、いっか。腹減ってたから丁度いいや」

 珂惟はそう言って一つを口に入れると、

「時間勿体ないから、行こうぜ」

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