第35話「できること」

「いい迷惑だよな。珂惟かいのヤツが山に籠もったお陰で、掃除区域が増えちゃったじゃないか」

 本堂の周りで行者たちが箒を動かしながら、額を突き合わせていた。

「でも何なんだあいつ、急にマジになって」

上座かみざの恩に報いるべく、一日も早く沙弥しゃみになるため行を行いたいってんだろ。寺主じしゅ大感激してたけど本気かね? いくら夏が近いからって、あんな山奥、水は冷たいのに」

「一体どこ行ったんだ?」

「終南山の方って聞いたけど」

 終南山は京城みやこの南六十里(約三十キロメートル)にあり、一世紀ほど前の北周廃仏の折には多くの僧侶が逃げ込んだという仏教の聖地である。

「おいあれ」

 低められた声に、皆一斉に同じ方を向く。

 彼らの目線の先、琅惺ろうせいがまっしぐらにある建物を目指し、やがてその中に消える。気づかなかったのか、行者こちらには目もくれなかった。

「あちらもまあ。宿敵に触発されたんかね」

 琅惺が消えた先は蔵経楼。寺院の経典が収められている場所である。

 皆いつしか手を止めていた。呆けたように蔵経楼に目を遣っている。

「何なんだろうな、最近」

「ホント……」



「違う」

 琅惺は呟くと、紐解いたばかりの書を再び巻いて棚に戻し、新たな書を手にとる。ずっとその繰り返しである。

 何故こんなことをしているかといえば――。

 確かに、行を積めば珂惟の力は上がるかもしれない。しかし相手は道士、同じ手でやり合うとすれば、どう考えても本職でない珂惟の方が不利である。ならば、坊主は坊主のやり方で、と役立ちそうな経を探しているのだ。

 仏教には「密呪」というものがある。又の名を「真言タントラ」とも言うそれは、仏の本願を示すといわれる秘密の言葉だ。その羅列自体に意味を持たないながら威力は甚大で、ただ唱えるだけで大変な効力を得ると言われている。それを琅惺は探していた。

 しかし道教は土着宗教でありながら、宗教集団の形式を整えるため仏教の教理や組織を真似た部分があり、名が知れている経典のものでは、相手も知っている可能性がある。なので仏教徒でさえ忘れているような、片隅に埋もれた「密呪」を探しているのだ。

 とは言え、存在するかどうかも不確かなそれを探すのは容易なことではない。無謀だ――何度思ったかしれない。だけど、それ以上に無謀なことを、たった一人でやっているのだ、彼は。

 じゃあ自分ができることはなんだろう――考えて考えて思い至ってのが「これ」である。

 ――だから、あれこれ言わないで、決めたことをやるまでた。

 何の成果も得られなかった、すでに紐解いた相当数の書を眺めて気落ちする自分にそう言い聞かせて、琅惺は自らを奮い立たせる。そうして新たな書に手を伸ばす――ひたすらその繰り返し。


 しかし琅惺には、当然ながら沙弥としての勤めもある。

 結局その日も何の成果も得られないまま、蔵経楼を後にすることになった。

「どこに行ってたんだ」

 回廊を急いでいると、先輩沙弥に止められた。その視線は明らかに咎めるものである。

 聞かされる小言と嫌みに素直に詫びを入れ、琅惺は上座の部屋へと向かった。

 いつものように部屋の入り口に立つ衛士に会釈すると、琅惺は小さく叩扉し、中へと入る。

「琅惺か」

 扉を開けると上座がこちらを見ていた。

「申し訳ございません。起こしてしまいましたか」

「いや、もう充分眠った」

「それはよろしゅうございました。着替えられますか?」

「そうしよう。起こしてくれ」

「その前にお体をお拭きしても?」

「それは有り難い」

「では湯を貰って参ります」

 琅惺は牀頭に置かれた鉢を取り、再び部屋を後にした。

 食堂で貰った熱湯に水を混ぜ、手を入れ温度を確かめてから、来た道を戻る。

 食堂、そして道すがら、何人かに声をかけられた。「和上の世話はお付きの沙弥の務めではあるが、さすがであるな」と。

 言われる度、居たたまれない気持ちになって、無言のまま軽い会釈をし、その場を離れた。


 称賛も敬服も、本来は自分に向けられるものではない――そんな思いが胸に突き上げる。


 部屋に戻ると、琅惺は上座の背後に回り込み、上半身を起こした。病身であるのに、上座は重みをかけまいとしている。あの日、珂惟とここに運び込んだ時の重さと、まるで違っている。

 なのに。

「すまないな」

 面倒かけまいと気遣っているのに、なぜそんなことを言うのだろう。感謝の言葉を向けられるような、そんな自分ではないのに。

 上座に背を向けると、鉢に張った湯に布を浸し、大袈裟な水音を立て、何度も何度も濯いだ。やがて湯が温んで来たことに気づいて、慌ててそれを絞る。そして心底に澱む思いに唇を噛みながら、一心に上座の体を拭いた。

 着替えを終えるころには、琅惺の心持ちも漸く落ち着いた。そこへ頃合いよく、先程食堂で頼んでおいた桃漿ピーチジュースを持って、行者の一人がやって来た。

 斎(正午)を過ぎてしまった今、上座がすんなり手をつけてくれるものといったら、漿(果汁は斎過ぎでも口にしてよいとされた)くらいしかない。薬を飲む前に何か口に入れて欲しかったのだ。

 本当なら粥でも食して欲しいところだが、僧侶の食事は午前一回かのみと決められており、たとえ病身であろうと上座がその規則を曲げることはあるはずもない。頑ななほど、己を律する方なのだ、と。


 そう思っていた。それは多分間違いではない。

 でもそんな御方が戒律を捨て、破戒僧の誹りも恐れず、仏道を捨てる覚悟さえして女犯を――それは、それはつまり――。


 脇を行者が通り過ぎたのを契機に、傍らの上座からさりげなく面を逸らし、瞑目する。

「うん、美味いな」

 上座は壷漿を手に傍らに立つ行者に、そんな言葉をかけながら何度か桃漿を注がせていた。逃れるように部屋の片隅で薬を煎じる琅惺だったが、その様子には密かに安堵する。美味い不味いを語れるようになるとは、数日前には考えられなかった。

 あれから十日余り。腕の傷もすっかり塞がり、上座は順調な回復ぶりを見せている。あの言葉通り、例の道士も姿を見せない。


 あの男の狙いは一体何なのだろう――思わないではいられない。

 あの男、確かこう言っていた。「私に思うところはない。だが、あの方が望まれるなら、神も仏も除くだけ。たとえそれが――老君であっても」では「あの方が望まれるなら」まだ次がある、ということか。でも次は、上座ではないかもしれないと考えるのは余りに楽観的過ぎるだろうか。だけど次も狙うくらいなら、最初にとどめを刺しておくはずだ。天雄ではなく附子を使いさえしていれば、なんら難しいことではない。


 もしくは警告か――だけど、一体何の?


 行者は去った。琅惺は用意した薬湯を注いだ椀を上座に差し出した。それを一息に飲み干し、一言。

「苦いな」

 それに返された椀を受け取りながら、琅惺は応える。

「なれば良薬にございます」

「確かに」

 いずれにしても、次に道士がどういう行動を起こすかで、その方向性がきっと見えてくる。今後がまったく読めない今、一日も早く上座には元気になっていただかないと。

「――他に御用はございませんでしょうか」

 琅惺は室内を見回しながら、訊く。上座は首を振り、

「いや。もう十分だ。ありがとう」

「……。とんでもないことにございます。ではお休みなさいませ。失礼致します」

 口早に、そんなことを言うと、琅惺は上座の着替えた衣を手に、急ぎ部屋を後にした。

 謝辞をかけられるほど、身の置き所がなくなる。私は以前と同じように振る舞えているだろうか、こんなにも、心乱れたままで。

 目を下ろした先、白砂が敷き詰められた院子は、日に日に色彩鮮やかになっていく。

 白の杜鵑花、紫紅の 瑰、つい先日まで白や薄紅色の花を咲かせていた忍冬は、そのほとんどを黄色に変えていた。院子内に配されたそれぞれが彩めき、芳香を放っている。牡丹の大輪が姿を消したとはいえ、院子は初夏の日差しの中、華やぎを見せていた。

 だが琅惺の足を止めたのは、回廊の角、院子の片隅に聳えるあの栴檀。

 廂の上で枝を張る堂々たる佇まいに似ず、翠に見え隠れするのは薄紫の小さな花。ささやかな風にも揺れ、見上げる琅惺に清雅な香りを運ぶ。あの日と変わらない、清雅な……。

 去って行く後ろ姿が、脳裏に過った。

 今頃珂惟は、苦行に身を痛めているだろうに。だのに自分は――。

「何をやっている」

 思わず吐き出していた。決めたではないか、自分にできることをしようと。自分にできること、今やるべきこと、それは。

「蔵経楼に行こう」

 一人なのにもかかわらず、口にしたのは、寧ろ自らを奮い立たせるため。

 その前にこの寝衣を洗ってしまおうと思い至ったその時。

「琅惺様」

 声に振り返ると、行者の一人が小走りによって来た。つい最近寺に入ったのか、覚えのない顔だ。

「中門に珂惟さんに会いたいというご婦人が見えてますが、どうすればよろしいですか? 何でも往来で困ったところを助けて頂いたお礼にとのことなんですが……」

 ここに来るまでに他の沙弥も比丘もいたはずなのに、わざわざ自分を探しに来たことに苦笑したくなったが、今は好都合である。努めて平静に答えた。

「分かりました、私が会いましょう」

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