巻の五「役割」

第34話「無謀」

琅惺ろうせい

 翌日、廂廊を渡って上座の部屋に向かう途中、院子にわを走って珂惟かいが近づいて来た。琅惺は足を止め、欄干に手をかけて身を乗り出すと、

「どうしたんだ、一体?」

 珂惟はその問いかけには答えず、

「上座はまだ寝てるのか?」

「そうみたいだ」

「なら寺主は?」

「確か本堂におみえのはずだけど――だからどうしたんだ、その格好は」

 言われるその格好――背に笠と包みを負い、錫杖を持ち、首には数珠。まるで旅装束である。

 琅惺の目が、爪先から頭のてっぺんまで行き着き再び戻って来た時、珂惟は、

「俺、行に行って来る」

 珂惟は、力強い目で、そう言い切った。行とは山に籠もって滝に打たれたり、断食したりして修行することである。

「――何、どういう事だよ」

 琅惺はしばし呆気にとられていたが――慌ててその場にしゃがみこみ、欄干の上から珂惟に目線を合わせて、訊く。

「昨日あれから考えたんだ。このまま手を拱いていてもあいつには勝てない。あいつの正体が分からない今、行をして、もっと力を磨くのが一番いいんじゃないかって」

「あいつの言うことを信じるのか?」

「……信じるしかない」

 珂惟の声が低くなった。

 たとえ信じなかったとしても、他にやれることはない――。

 琅惺は一つため息をつき、

「でもまあ、それは信じてもいいのかもしれない。――上座の中毒症状を見て附子だと思ったけれど、妙に症状が軽いと思っていた。いくらかすり傷で、処置が早かったからって。だけど天雄なら――納得がいく」

「そういやヤツがそんなこと言ってたな。何なんだ、天雄って?」

「附子というのは本来、ある植物の子根部分の名称だった。傷口からわずかに染みただけでも生物は絶命する恐ろしい猛毒をもっていて、だからその植物自体の名にまでなったんだけど。天雄は、子根が出ないまま成長した根のことで、幾分毒性が弱いんだ」

「……昨日も思ったんだけど、何でお前そんなことに詳しいんだ?」

「私の村では、食用の二輪草と附子が誤って食されてしまうことが度々あったんだ。だから自然と覚えた。詳しい人間がきちんと処理をすれば薬にもなる植物だから、身近といえば身近な植物だった」

「村? お前が生まれたのって、どっかの山村なの?」

「えっ、ああ、まあ……」

 滑らかだった琅惺の言葉が、突如滞る。琅惺は一つ大きく咳をして、

「それはともかく――昨日、彼が言っていた老君は太上老君――道教の神だ。それに『坊主が九字を使えるとは』とも言っていた。つまり、彼にとって九字は親しいものである、ということだ。九字について書いているのは『抱朴子』、道教の経典ともいえる書物だ。つまり彼は、十中八九『道士』だ。特徴から考えても、杏香さんからの情報に何らかの関係があると思っていいだろう。この情報を衛士に提供して、手を打ってもらえばいいだろう?」

「だったらますます言えないだろ。ただでさえ坊主と道士は仲悪ぃんだ。確証のないまま訴え出たりなんかしてみろ。ここぞとばかり大喜びで仏徒は道士の悪行を並べ立て、道士は道士で言い掛かりだと騒ぎ立て――揉めるばかりで何の解決にもなりゃしない。それに、衛士に入られると俺の商売に差し障る。今は、それを避けたい」


 国産の道教と外来の仏教――、二大宗教としてそれぞれが数多の信者を持っていた。故に両者は政治利用されることもままあって、当然のように仲が悪い。その上王朝が唐に変わってからは、道教の始祖と唐王朝が同じ李姓であるという理由で、いかなる儀式においても「道前仏後」という道教を上とする政策がとられた為、仏教関係者は何とか国内第一の地位を取り戻そうと日夜心を悩ませ、道教関係者はその地位を守ろうと必死なのである。


「そうかもしれないけど……でも何だよ商売って、だいたい何でそんなに金が要るんだ」

 琅惺は辺りに気を配りながら、いくぶん声をひそめた。珂惟も回廊の欄干にピッタリ背をつけ、肩越し琅惺を振り仰ぎ、言う。

「だってあそこ行くの金かかんだぜ、しかも二人分だろ? も、精出して稼がなきゃで」

 薄笑いを浮かべる珂惟に、琅惺は思わず口ごもる。しかしそれもほんの僅かのこと。

「でも、いつまでも通う訳にはいかないんじゃないか? 君だっていつかは出家するんだろう? それとも――まさか、本当に『一番客』とやらになるつもりか?」

 突如低まった声に、珂惟は声を張り上げ、

「誰が! 冗談じゃねえよ」

「じゃあ――どうするんだ」

「――そうだなあ」

 呟くように言うと、珂惟は欄干に手をかけ院子の隅に聳える栴檀せんだんに目を遣った。

 袖がなびく。

 柔らかな香りが鼻孔を擽った。風に舞う花片が、やがて院子の白砂に薄紫の色を重ねていく。

「とにかく。俺は今、自分にできる最善を尽くすだけだ。それで力をつけるのがいいと思ったんだ。だから行に行く」

 きっぱりと、そう言い切った。

 考えが短絡的――と思わないでもなかった。今、少しばかりの行を積んだからと言って、あの男に敵うわけは――だけどそんなことは声にならなかった。そんなことが分からないはずがない。


 ――敵わない。


「まあ、今日から衛士が寺内にも入ってくれるっていうし、何とかなるだろ。じゃあ私は、あの道士が何者か、調べてみることにしよう」

 努めて平静に、琅惺はそう言った。笑顔さえ浮かべて。

「さっすが、頼りにしてるぜ沙弥しゃみさま」

 珂惟は軽やかに口笛を鳴らすとこちらに向き直り、屈託ない笑顔を見せてきた。

「ああ、まかせとけ」

 珂惟の一生懸命さに憂いを残させたくない――ただその気持ちだけが、琅惺の言葉になった。

 すると珂惟は――突然表情を改めた。

「頼むな、上座のこと」

 琅惺はただ無言で頷いた。

「さて、と。じゃ寺主に許可もらって行くわ。――じゃあな」

 その手が欄干から離れた。力強く踏み出された一歩、離れて行く背には迷いも、恐れも感じられない。ただ一心に「護ろう」とそれだけを思っている、それ以外にない。


「珂惟!」


 思わず呼び止めていた。声にただならぬものを感じたか、振り返った珂惟は驚きの様子を見せていた。


「ごめん――殴って」


 珂惟の面から表情が消えた。だがそれはほんの一瞬のこと。すぐ口の端を上げ、

「あれはまあ――。俺も言いたい放題だったし、お互い、痛み分けってことで」

 そう言い、珂惟は再び背を向けた。軽く振った右手の錫杖が、澄んだ音を辺りに響かせ、それは次第に遠ざかっていく。

 胸渦巻く思いは、決して消えたわけではない。しかし小さくなる後ろ姿が、それが余りに下らないことなのだとはっきりと告げた。

 ――ならば私も

 琅惺は立ち上がった。

 ――自分ができるだけのことをしよう。

 琅惺は胸前で手を合わせると瞑目し、小さく唱えた。

「南無観世音菩薩、どうか彼をお護り下さい」 

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