生きる意味を徹底して考える(3)

◆前回までのあらすじ


 先日僕は、「生きる意味がないなら、結婚して子どもをつくって育てればよいのだ」という意見を聞いた。

「やっぱり……そうなのかなぁ、究極、人間だって生物なのだから、子孫繁栄が第一命題なのかなぁ」と思った。


 そうなのかもしれない。

 でも、僕の、ワクワクして、それをやってるだけで満足感がえられて、自由な感じがする活動ってのは、本当にそれなのだろうか。


 2回の連載で、

・生きる意味はあろうがなかろうが、そこが問題じゃない

・考えなければ生きていけない

・人生の意味には、役割ベース、モチベーションベース、インスピレーションベースの3つがある

・役割ベースの生き方はつまらない

・モチベーションベースの生き方は重要だがそれも万能ではない

・だから次のインスピレーションベースという生き方について考えてみたい

 と書いてきた。


 今回は、その「インスピレーションベース」とか、そんな横文字について、もう少し自分に引き付けて考えを整理していきたい。

 と、その前に、もう少し復習をしておきたい。

 上のあらすじを「よく覚えている」という人は、次の小見出しまでジャンプしていただきたい。

 以下、対話形式で、前回までの流れを再度整理する。



◆何故生きる意味を考える必要があるのか


「生きる意味を徹底して考える必要がある」

 ――何故か?


「生きる意味があろうがなかろうが、考えることから逃れられないからである」

「補足すれば、『生きる意味を考えるのは無駄だ』と主張する人であっても、『その他のもっと重要なことを考えるべきだ』という主張をもっているからだ(※)」

 ――では、その他のもっと重要なことを考えるべきであり、生きる意味など考えない方がよいのではないか?


「仮に、生きる意味を考えずに、『今・ここで、目の前にあることに注力する』としたとき、それは本当に人間としての生き方であるのか。人間としての生き方は、3つあるという。(1)役割ベース、(2)動機ベース、(3)インスピレーションベースだ。単に考えることをやめて、ただ目の前のことに一生懸命になるというのは、(1)の役割ベースの生き方ではないか」

 ――役割ベースの生き方ではダメなのか?


「ダメではない。ただし、役割ベースとは、その役割なるもの――すなわち「使命」が、外部から与えられている。常に新しい「使命」に心身を捧げ、考える余地なく行動し続けることができれば、それは一つの人間としての在り方であろう。しかし、動機無き行動は、長くは続かない。その人はいずれ摩耗し果てるだろう」

 ――何故か?


「外部から使命が与えられているからだ。人間が本来力を発揮できるのは、内発的な動機が必要である。それに従って生きるのが、動機ベースの生き方だ。動機ベースの生き方とは、「やらなきゃ」というより「やりたい」と思うことを続けていくことだ。それは仕事ではなく遊びかもしれないが、それでもよい。遊び(趣味)のために仕事を頑張れるという人も少なくないだろう。また、仕事が楽しいという人だっていることだろう。とにかく、「面白い」「楽しい」と思えることを続けていくのが動機ベースの生き方だ」

 ――では動機ベースの生き方を目指せばよいのか?

「動機ベースの生き方も万能ではない。理由は、以下に、前回の記事の一部引用により示す」


・一つは、上に書いたけれども、「現実と、自分の動機との整合性」をとる必要があることだ。

・もう一つは、その動機も、必ずしも長続きするとは限らないということである。

・人生の困難・障害ってのは、なっかなか激しいものだから

・確かに、一時的な快楽を得る方法はたくさんあるだろう。しかし、それらが、今後も続くであろう人生の艱難辛苦とシーソーゲームを繰り返すとしたら、十分に希望を見出すことができるのだろうか? ――生きる意味を徹底して考える(2)


 ――ではどうしたらよいか。



 ……ということで、ようやっと、本記事の、インスピレーションベース云々の話につながる。


※本当の意味で「考えることを放棄すべきだ」という主張も存在する。ただしそれは、神に一身を捧げることであったり、坐禅により心身脱落することであったり、特殊な生き方の部類である。この考え方・生き方については、一考および選択の余地があると思っているが、本記事の主旨からはずれるため触れない。



◆何故インスピレーションベースの生き方が必要か


 何故、動機ベースの生き方は不十分だったのか。

 それは、いくら自分の人生であっても、誰も、未来のことなど分からないからである。そして、人は誰もが、有限の存在だからだ。


 今手にしているお金も、愛も、健康も、この先どうなるか分からない。いや、物質的なものや精神的なもの、すべては時間とともすり減っていく。まぁ、「なんでもかんでも減っていく」と書いてしまうと言い過ぎで、投資家としては「お金」はお金によって増やし続けられるかもしれないし、愛に生きる恋人たちは永遠を信じて疑わないかもしれない。

 だが、健康はいずれ損なわれていく。老化、そして死は避けられない。歴史上の人物、偉大な指導者は、書物に残り、として残るかもしれない。けれども、人々のには残らない。覚えていてくれる人もいずれは皆死んでしまうのだから……(そういう意味で、子孫繁栄を第一に考えるというのは、人として合理的に思える。血の繋がり……「祖先があったから今の自分がある」というわけで、それを脈々と繋げていくということが自分の使命なのだというのは考え方としてありだろう。冒頭の、「生きる意味など考えている場合じゃなくて、さっさと子どもを作れ」という意見は抗えない脅迫感を与えてくる。が、そういった内容も今後考える必要はあるが、本記事では保留としておく)。


 例えば。

・美味しいものを食べるのが幸せだ、生きがいだ、だから私はそれが生きる動機なのだ。

・ゲームするのがとにかく楽しい。これをやっていられたら他に何もいらない。

・人とかかわるのが、おしゃべりするのがワクワクする。ずっとこうやって生きていきたい。


 それらはとても大事なことだ。


 だが、長期的に人生というものを考えたとき、環境の変化や、趣味嗜好の変化があったとき、それは永続する動機となりえるのか? そして、いつか必ず訪れる最後の日において、絶対的自信をもって、「ああ、俺(私)の人生は最高だった」といえるのか?



 つまり、動機ベースの生き方は、それ自体が悪いわけではない。その継続性、強度が不十分ではないのか、と僕は考えているのである。いや、というよりも、そう「思ってしまった」のだ。


 だから、インスピレーションベースが必要だ、――となるが、ここは、もう一つ小見出しで補足しておこう。



◆動機ベースとインスピベースの生き方の違い


 ここまでは、動機ベースの生き方についての否定であるが、そもそもインスピレーションベースとは何ぞや。

 というか、この「インスピレーションベース」というのが、どうにも落ち着きの良くない言葉だ。そもそも、インスピレーションとは、「突発的に降ってきたアイディア」的な意味である(アイディアとは、よくよく考えた結果であることが多い)。霊的な……という意味も入ってくると、どうにもうさん臭さを感じたりもする。他の言葉で何とか、ピンとくる表現にできないだろうか、と少し考えてみる。


 ナチスの強制収容所を生き延びた精神医学者V.E.フランクル氏は、「唯一性・一回性」が人生を価値あるものにしていると述べている(『人間とは何か――実存的精神療法』参照)。唯一性とは、「私が、私以外の何者でもないこと」であり、一回性とは、「人生がリセットボタンでやり直しのきかないものであること」である。フランクルさんは、僕らの生きる現代社会では、精神医学の分野において新しい潮流があるという。新しいタイプの神経症……すなわち、実存的な欲求不満を訴える人が増えてきているということだ。ヨーロッパやアメリカの学生への調査では、「底知れない無意味感」を経験していたり、したことがあると半数近くが答えたという。フランクルさんはそれを、「実存的空虚感」と呼んでいる。


 デンマークの哲学者キルケゴールは、絶望の三形態を、

・自己自身があることに気づいていないこと

・本来的な自己自身になろうとしないこと

・非本来的な自己自身になろうとすること

 と述べている(『死に至る病』参照)。


 僕は、この一連の連載を、「3.個人としての生きる意味」を前提に書くと決めた(『生きる意味を徹底して考える(1)』参照)。

 だから、このインスピレーションベースの生き方というのを、キルケゴール氏の言葉をかりて、「自己自身ベースの生き方」というのはどうか。あるいは、「実存ベースの生き方」というのはどうか。


 ただ、横文字を漢字にしただけでは、結局何を意味するかよく分からない場合がある。

 実存ベース……っていっても、実存ってなんだよ、という人もいるだろう。

 実存とは、フランクル氏がいうところの、「唯一性・一回性」をもった人間として、人生をまっとうすることである。本来的な自己であるということだ。

 ――といっても、まだ分かりにくいだろう。



 ここでもう一度、役割ベースと、動機ベースと、「実存ベース」の生き方の違いについて、その行動の源泉になるモノ、「やらなきゃ」「やりたい」が与えられるのかを考えてみよう。

 

 役割ベースは、「外部」からであった。親であること、社会人であること、学生であること、とある政治団体の一員であること、宗教団体の一員であること……など。その所属するカテゴリーから、「こうあるべき」という行動指針が与えられる。それに対して邁進するのが、この役割ベースの生き方であった。


 動機ベースは、「内部」からであった。自発的に、自分自身で「やりたい!」「楽しい!」「面白い!」と思えるもの。その気持ちに基づいて行為行動するというのが、動機ベースの生き方であった。


 実存ベースは、どこから与えられるのか?

 それは、動機ベースと同じく、「内部」である。自分自身の中からであることは、動機ベースと同じなのだ。

 しかし、動機ベースと違うのは、その根拠、強度、継続性である。


 僕は、その実存ベースの生き方を求めて、今さまよっている。

 まぁ、30代にもなってお恥ずかしい限り。

 

 ……が、逆に、問う。

 果たして、どこまで多くの人が、本当に、唯一・一回性の人生において、「自分にしかできない」「自分はこれをやるために生まれてきた」といえるような、に出会えて、そしてその生き方を選択できているのだろうか。

 ライフワークとは、それをするだけで心の底から満足感を得られて、そのために生きているのだと実感できるような行為行動のことである。このために自分は生まれてきたのだと、そう自信をもって言えるような、使命感といってもいいかもしれない(※)。


 意識高い系みたいなことを書いている? 否、断じて。

 僕は単に必要性に迫られているに過ぎない。深い森の中に迷ったとき、生存本能から恐怖を感じ、そこから抜け出さんと足掻くのと変わらない。


※きっと、結婚して、子どもがいる人たちは、我が子の成長を見ることがそれなのだろうが……。



◆ライフワークに出会えている例


 本当は、この記事においては、具体的にライフワークを見つけるためにはといった方法論にまでいきたかったが、ここまでで相当長くなってしまった。

 今回は、一つ、ライフワークの例を書いて終わりにしよう。


 いきなりアニメーション作品の例で恐縮であるが、最近過日、「Re:CREATORS(リ:クリエーターズ)」という作品を全話視聴した。

 この作品、序盤はあまり引き込まれず、1~3話ぐらいみてしばらく放置していたが、途中、「築城院真鍳ちくじょういん・まがね」というキャラクターが登場した、6話から面白くなっていった。というより、マガネちゃんがとても好きになったのだ。一気に見てしまったため、若干寝不足になった(かっこわらい)。


 彼女は、悪役である。

 彼女は、無辜の住民を面白半分に殺害する。

 主人公陣営と、敵側の陣営に分かれているが、当初、マガネちゃんは敵側陣営に加わるように説得される。ところが彼女はその申し出を断る。かといって、主人公陣営にもくみしない。面白い方につくと。世界がどうだろうが関係ないと。

 彼女は完全サイコパスである。「憎しみ」とか「正義」とか、そういった主義主張も存在しなければそういった感情もない。言説弁舌巧みで、人の弱みを握ったり、おとしめたり、絶望させることが得意で、そういうのがとても面白いと思っている。


 登場のしょっぱなから、悪い奴だなぁと思ったし、顔つきも邪悪である。まぁ、ずーっと笑顔で楽しそうにお話ししているが、ものすごい胡散臭い。「そうだよ? マガネちゃんは嘘しかつかないので~す」とか、クレタ人もびっくりしちゃうぐらい(かっこわらい)(※)。


 これだけ書けば、単に頭の狂った悪い奴、なのであるが、何故か憎めないのである。

 その理由について、マガネちゃんの登場回を重ねるごとに、分かった。彼女は、どこまでも真っすぐなのである。マガネちゃんは、「面白いこと」をただ、ただずっと求めているだけなのだ。そこに善悪の基準はない。ただそれだけで、ただそのためだけに生きている。マガネちゃんは友達いないだろうかもしれないが、彼女にとってそんなことどうでもいいことなのだ。



 ――それだ。

 唐突である。思い出そう、これは何の小見出しだったか? ライフワークの例を挙げようというのが目的だ。つまり、マガネちゃんが、住民惨殺したり、面白半分に主人公陣営にも敵側にもつかずワイルドカード的な立場でふらふらしたりしている時点では、それが、動機ベースの行為なのか、実存ベースの行為なのか分からなかったが、登場する場面ごとにその置かれた立場や条件は違うのに、ただ一つの自己自身の目的……「面白いこと」をどこまでも求めてやまなかったのである。そんな一貫性みたいなものが、実存ベースの生き方……ライフワークの実践だと思う。

(その結果として、最後には物語にとってとても重要で良い方向の働きをする。ただ、マガネちゃんにとってそれが「良いこと」なのか「悪いこと」なのかは、結局どうでもいいことなのである)



 インスピレーションベース、実存ベース、ライフワークと、様々な表現で書いてきたけれども、もう一つ、「信念」という言葉を付け加えてもいいかもしれない。


 次回は、もうちょっと、このライフワーク的なみたいなものについて、掘り下げたり、広げて例をあげたりしつつ、「じゃあ俺はどうしたいんだ? どうすればいいんだ?」ということに突っ込んでいきたい。

 結局今回の記事は、「実存」的じゃなくて、自分の中ではあまり面白くなかった。――のだけれども、書かなければいけない、書いておかなければいけない、そんな気はした。


※自己言及のパラドックス。知っている方も多いと思うけれども、「クレタ人はいつも嘘をつく」というアレ。それが偽であれば真であり(いつも嘘つきなら本当のことを言っている!)、真であれば偽である(本当のことを言っているならそれは嘘だ!)……と無限遡及に陥る。



◆蛇足


 Re:CREATORS、アマゾンプライムのウォッチリストに登録してから数か月過ぎてたけど、意外に面白かった。上から目線な書き方をすると、「よくまとまっていた」と思った。なんか、アマゾンレビューで、「主人公のうだうだ感が嫌」「人物描写が足りず、2クール(22話)では全然短かった。もうちょっと丁寧につくったらよかったのに」とか、「製作者側の自慰」といった意見もあった。「主人公のうだうだ感」は僕も思ったけど、「人物描写をもっと詳細にすべき」というのにはむしろ、もっとコンパクトにしてもよいと思った。なんというか、今作においてキャラクターは、むしろ「テンプレ的」であることが求められていたと思う(何せ各物語の主人公なのだから)。だから、なんとなくこのキャラはこういうキャラだと、脳内補完できるレベルで描かれていれば十分だと思ったのだ。

 それと、製作者側の自己満作品だ、というのは、その面もあるかもしれないが、創作物があくまでも消費者側の「承認力」を必要とするという設定は面白かったし、小説家とか漫画家とか、その創作者たちが、自身の作品に対してぶつける熱い思いが凄くよかった。

 この作品を異種能力バトル的なものを期待してみるとちょっと肩透かしかもしれない。いやまぁ映像はとてもきれいだったけれど、もうちょっと戦闘シーンとか全体的にカットしてまとめてもいいんじゃないかな、ってのが僕個人的な感想。ただまぁ、そういうのもあったからか、ブリッツさん(娘をなくしてちょっと虚無になってしまったハードボイルドのおっさん)と駿河さん(女性漫画家。ブリッツ・トーカーが登場する作品を描く)のやりとりとか、めちゃくちゃ痺れた。その二人のシーンと、マガネちゃんをみれただけでこの作品にとても満足だった。

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