無気力になったときに

 久しぶりの投稿になる。何から書いていけばいいか、分からない。とか書くと、兼好法師になった気分になれる……わけでもない。

 初め、自己紹介みたいなところで書いたけれども、僕は何か特別な生活をしているわけではない。離婚、という経験は、まぁ珍しいかもしれないが、三分の一が離婚すると言われているこの社会において、今後ももっと増えていくだろうことを考えると、さほど特別とはいえないだろう。

 仕事もしている。サラリーマンだ。お金は、何となく散財しているから、減ってきている。が、生活するには困っていない。


 はたから見れば、否、僕自身でさえ、幸せ絶頂最高ハッピーマグナムグレート究極人生生活ではないか、と、思う。


 ……本当か?


 いや、無駄な、修飾語は省いたとしても、それほど悪いとは言えないだろう。


 だが。何でこう、精神力が減退するのか。無気力になってしまうのか。





◇未来への信仰心


 先が、ないのだ。


 というのは、トラウマ的なものとか、難しいことはおいておいて、100年後を考えたとき、真っ暗だ。当たり前だ、100年たつと、誰でも死んでいる。

 何をくだらないことを、と、理解が難しいことだろう。だが、重要なことなのだ。


 分かりやすく、10年後を想像してみる。そのとき、僕は、どうなっていたら楽しく幸せに生きているのか。


 まったく、イメージがつかない。

 それは、夢があればいい。ミュージシャンになるとか、政治家になるとか、実現性が乏しくても、こうなったら幸せだろうというイメージがあれば、例え直接的成功が厳しくても、代替欲求充足が可能だ。野球選手に成れなければ、スポーツトレーナになるとか、子供を育てて夢を託すとか。


 しかし、10年後というから、上のような例えになるが、それだけで困ってるわけではない。


 50年後。死ぬとき。どうあれば、我が人生に一片の悔い無し、といえるのか。



◇なだらかな死


 そういう意味だと、明日死んでも、特に、悔いはない。


 なんだかんだ、平凡であり、悲劇的であり、ドラマチックであり、よい人生だったと思う。それは今でもだ。


 満足しているのだ。


 ただ、未来を問うたとき、僕は、なんだか不思議な、不快な気分に陥るのだ。


 そんな感じで誰かに相談すれば、まぁ、かけられる言葉は、「じゃあ死ねば?」となるだろう。もしくは、黙って友人たちが離れていくか。

 貧しい人たちからは、呪詛の言葉をかけられ、石を投げられそうだ。


 しかし、貧しい人は幸いである。


 それは、裕福になるという夢がもてるからだ。


 いやいや、くだらないことを書いておけば、別に自分はそれほど裕福ではない。もっとお金持ちはたくさんいる。それどころか、中央値的には下の方かもしれない。

 ただ、間違いなく、地球規模でいけば、僕はとても恵まれている。

 ……この比較性の無意味さ。これは、前の記事などでも書いてきたことだ。上をみても下をみてもきりがない。


 確かに、美味しいお酒飲んだり、お風呂入ったり、ぐっすり寝たり。

 それは、生理的に気持ちよいものだ。

 でも、それを際限なく続けていくのが人生ってことでいいの?

 もしくは、誰かから、「すごいね」「頑張ってるね」「助かるよ」「ありがとう!」と、言われ続けるのが人生?


 それはとてもとても幸せなことだ、楽しいことだ。


 ……でも、だから、どうしたっていうのだ。


 今が苦しくても、未来がよくなると信じられれば、頑張れる。

 逆に、未来がいずれ「真っ暗」なのだとしたら、今が幸せであったとしても、それは、どんどん鮮やかな色を失っていくのである。



◇夢


 無意識、夢の中で、「生きるのであれば、こんな生活変えてやる!」と言った。

 未来がないのだ。だから今が幸せだろうが、不満や不安でしかないのだ、と言った。


 ――ならば、未来を、創ればいい。



 ジョルジュ・バタイユというフランスの思想家の方の、「内的体験」という本を読んだ。

 別に、新しく買った本ではない。かなり前に購入し、読み始め、「うわ、なんだこれ、分かりづらい、難しい、やめよう」と、本棚に埋まっていた。


 ある日、時折行う本棚の整理の際に、当然ブックオフ候補となった。


 しかし、意外やに、今の現時点においても、アマゾンでは評価が高く、中古の値段も下落していない。

 難解なのが面白いというわけではない、ただ、何か人を惹きつける何かはあるのだろう。そう思って、残しておいたのだった。


 最近になって、ちょっと開いてみた。特に、理由はなかった。ただ、息をするとか、鼻水をかむとか、そんな程度に、手に取った。


 なんか、ちょっと「わかる」って感じになった。


《もし私が思いきって「神を見た」と言うとしよう。すると、私の見るものは質を変えてしまうだろう。想像もできない未知のものの代わりに死んだ客体が、神学者の持ち物が顔を出すことになる。そして未知のものはそうした客体に従属させられてしまうだろう。なぜなら、神ということになれば、恍惚が啓いてくれるおぼろな未知のものは、私を隷属させるべく隷属させられてしまうからだ。》


 例えば、上のような表現が、なんとなく、わかったのだ。


 ……この本、そもそも、何について書かれたものなのか、実は未だに分からない。

 ただ、「内的体験」というタイトルの通り、人間の内面の存在を表現する試みなのだろうと推測する。

 それはおそらく、心理学的なものではなく、まさに、瞑想したような状態、法悦の、恍惚の、感動の状態を表そうとしたものなのだろう。


 解説のあとがきにあるように、きっと、全部の文章、一文一文を理解する必要がないのだと思う。

 つまり、神をも恐れず言いのければ、僕のこのエッセイ(?)のようなものなのだと(おい、天罰がくだるぞ!)。


 もっというと、自己啓発本などとは違い、きっと、結論だけ読んでも、何も分からないだろう。

 いやむしろ、結論めいたものが書かれているのかどうかすら怪しい(おい、フランス思想の研究者たちに石を投げられるぞ!)。


 ただ、表現として、面白そうだと、今は思う。


 昔は思えなかった。これは、読書力があがったとか、そういう問題ではないと思う。

 おそらく、「思考」がかわったのだ。そして、「文字」に対しての考え方が変わったのだ。



◇無気力さの取り扱い


「何もしたくねぇ」

 と、本気で思う。

 最近特にその傾向が高い。


 その、何もしたくないというのが意味するのが、非常に曖昧模糊であり、ただ単に、何かに集中できないような状況であるともいえる。「こんなことして、なんになるのか」とか。これら、なんでも「意味」を求めようとする呪い、というか悪癖というか。ただ、意味を捨て、家畜のように生きることは、恐らく、一度呪いにかかった者はできないだろう。

 

 しかし、よくよく、休んで時間をつくってみれば、

・ゲームオブスローンズという洋画ドラマは面白い。

・進撃の巨人は面白い。

・アイアムアヒーローは面白い。今20巻だが、面白さが衰えない。スピンオフ作品? オメーはダメだ(いや、そんなダメじゃないかもしれない。でも、1話だけ読んでみて、あまり続きを読もうとは思わなかった)。

・モノガタリを創るのは面白い。


 そう、意外やに、やりたいことは、あるのだ。

 それにも関わらず、無気力の野郎は、本当に身近になっている。

 うーむ、これは冗談ではなく、本当に無気力さんとお友達になった方がいいのかもしれないな。



◇未来がないなら創ればよい


「僕」

 という存在に、未来はないのかもしれない。

 でも、モノガタリは、創ることができる。


 自己を投影した主人公は、きっと面白くないだろう。

 ただ、想像しうる、人間存在や、自然、科学、事象、因果、宇宙、物理法則、社会、集団、思想、価値観……それら諸々について創造することにより、本来的自己の「何か」片鱗をみることができるのかもしれない。


 先日、書いたかどうかは忘れてしまったが、


「生きる意味を考える」


 というと、「キモーイ」と言われるが、


「自分の価値観を磨いていく」


 といえば、なんか自己啓発本的な「できる男」みたいで、かっこいいと思われるかもしれない。


 そう、所詮、思考のほとんどは、「表現」でしかない。



◇表現という世界


 最近、新しい書物にあたるのが億劫になったのは、歳をとったから、というよりも、「表現性」の問題に気づいたことが、大きいかもしれない。


 いくら回りくどく、小難しく、難解なテクニカルタームを用いたとしても、「平易な言葉で理解できる範囲に展開すること」ができなければ、所詮それは「理解」ではなく「暗記」である。


 いやもちろん、暗記が悪いことではなく、むしろ、暗記というか、記憶の積み上げが、人格を形作っている、というのが、現在の僕の考えである。


 先般、「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」という本を読んだが、そこで「こころ」とは、「他者のこころをシミュレートする機能」である、といった表現があった。けれども僕は、こころ=人格=自己とは、「記憶である」と言った方が、今のところすっきりする。


 固有名詞の記憶というのは重要なのだけれど(たとえそれが、因果を知らない暗記であったとしても)、記憶力の程度は、その人の頭の良さによるし、反復がなければ忘却は避けられないし、老いは記憶を徐々に奪っていくだろう。


 であれば、僕が思うに、重要なのは、「概念記憶」だと思うのだ。



◇概念記憶


 概念記憶とは、固有名詞を一切用いずに、事象を説明できること(アウトプットできる記憶)である。


 何だろう、ここで、かっこいい例えが言えたらいいけれども……、残念ながら思いつかない。例えば、「重力」といったとき、英語でグラビティとか他の言語による表現などたくさんあるのだろうけれども、「重さをもった物同士が引き付けあう力」とアウトプットすれば、それは概念記憶といえる。

 いや単に、高いところから物を落とすと、下に向かって落ちる現象を引き起こす力、といってもいいし、いろんな表現がある。

 とにかく、概念記憶とは、限りなく平易な言葉で表現するために必要な記憶(情報構成能力)のことである。


 次に気になるのは、その「限りなく平易な言葉」ってなんだよ、と。

 これが、養老さんの仰る「バカの壁」の話につながる。

 つまり、人のインプット能力(記憶の多寡)によるコミュニケーションの限界性である(「つまり」とかいって、全然要約できていない)。


 ええと、つまり、「限りなく平易な言葉」が、人によって異なるというわけだ。

 またしても、バカげた例えをすれば、「異なる」といっても通じない人がいるかもしれない。「違う」と言ってあげなきゃいけないかもしれない。

 話し合えば人は誰とでも理解しあえるなんて幻想だ、というわけだ。


 とはいいつつも、「違う」と「異なる」の違いなんて、ほとんどの人は気に留めていないだろう。そんな特に差異を気にせず用いている表現、それを記憶して、なんになるというのか。

 それが、「通常記憶よりも概念記憶の方が重要なんじゃないか」と、先に書きたかったことである。


 では、そういった、概念記憶は、どうやってつくっていけばいいのか。



◇体験・経験・感動


 心に刻まれること。

 潜在的な意識に刻み込まれ、無意識下で行動の源泉となるもの。

 それが、概念記憶を作り出す。


 そういった意味で、先の、ジョルジュ・バタイユさんの、「内的体験」という本は、その「体験」とは何かを表現する試みなんだろうと思えて、今、僕はとても興味がある。


 この「興味」。

 これは大事だ。

 これは、言い換えれば、「未来」だ。

 良い作品の、続きを「読みたい」。これは「欲求」という。欲求も。非常に重要だ。


 そして、僕は、そんな良い作品を創りたいと、今はそう思う。

 これは、もしかして、無味乾燥な僕の人生に、少しばかり潤いを、「未来」をもたらしてくれるのではないだろうか。




 ――と、たまには前向きな終わり方にする。


<了>

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