不透明な時代を生きる

 記念すべき第2話目。やっぱり緊張する。しかし、まさか、第1話目で読者から反応を頂けるとは思っていなかった。半年ぐらい書いていて、ようやく一人ぐらい反応をくださる方がいるかいないか、ぐらいに思っていた。嬉しい誤算とは、まさにこのことか、と実感した。

 この、「実感」という言葉、今後も折々でキーワードになる気がする。しかしそれより今書いておくべきは、「いいこと書かなきゃ症候群」である。


◇期待に応えたいという気持ち


 人の本質は、「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」という、3つの脳機能であると、ある脳外科医が仰っていた。このうち3つめの、仲間になりたいという本能、これによって僕たちは集団、社会をつくって生活しているともいえる。

 その所属集団において、承認を得たいと思う心性もまた、有名なマズローさんの5段階欲求説で述べられていることだ。

 そして僕もまた、多くの人と同じように、褒められて、期待されたら、「よーっし、がんばっちゃうぞ!」と思うのである。

 そしてその、SNS(ミクシィとかフェイスブック)とか、小説とか、ブログとか、何か文章を書く際に起こる感覚及び傾向を、「いいこと書かなきゃ症候群」と呼んでいる。


 これは危険なことだ。

 本当は、自分の思考を深めていこう、明らかにしていこうと思っていたにも関わらず、徐々に、読者が求めるものは何だろうかと、他者思考に寄っていくのである。


 すぐさま書いておくべきは、それは決して悪いことではない。

 それを嫌って、小説投稿サイトで長期連載をされている方の中には、敢えて感想を一切読まない、というストイックな方もいるが、読者の感想、意見、批評、非難、そういったものを感じ取り、作品の昇華や自分の成長につなげることは大切なように思う。


 ただ、今回、この作品においては、気を付けなければいけない。むしろ、通底した重要なポイントになるだろうことは、現実世界と「自己」との距離感である。

 このことが即ち、不透明な、生きづらさの原因の一つではないかと、今後考えていくわけであるが、そもそも「自己」とは何か、現実世界とは何か、と、前提として書くべきことが山積している。これは、まず今回の記事においては触れることができないだろう。


 と、こうした記述となり、中々話しが始まらないことに、やっぱり、面白くないな、と読むのをやめてしまった方も多いことだろう(などと、やっぱり読者を意識し始めている、かっこわらい)。

 しかし、焦ることはない。むしろ、焦ってはいけない。作品のタイトルにあるように、徹底して、深く、自己に向き合っていく必要があるのだ。


 ――とか言いつつも、今後も、激辛批評大歓迎である。といった、語りかけみたいなものは、ブログでやれ、などと批判されるのだろう。しかし、ちょうど、「いいこと書かなきゃ症候群」、即ち、誰かの期待に応えなければという強迫観念というものは、いずれ表現しなければと思っていたから、取りあえず今回はお許し頂きたい。


 さてさて、前置きがかなり長くなってしまった。タイトルをもう一度復唱し、頭を切り替えてみよう。



◇人の本質は光であるか我執であるか


 中国の戦国時代を描く漫画『キングダム』を、40巻まで読む機会があった。その際に、後の始皇帝となる青年と、現政権の実権を握る大臣との対話シーンがある。


 大臣は、人の本質は我執であり、天下とは金(貨幣制度)であるという。そして、戦争はなくならず、国を豊かにすることが大事だという。自国が豊かになれば、周りの国からも人が流れてきて、富を循環させる仕組みを作るという。


 一方、始皇帝は、人の本質は「光」であり、戦争はなくならないというのは人間への諦めだという。人は光をもっているから、よりよい世界に変えていく力がある。だから俺の時代で戦争は終わらせる。その方法は武力でだ、と。


 結局、二人の弁舌は、お互いのもつ「前提(人に対しての理解、考え方)」があまりにも違うため、これ以上対話をしてもお互いが納得することはないだろうと、終わりになる。


 戦争はなくならないというのと、戦争は終わらせることができるという考えとか、そういった考えの違いという点も面白いと思ったけれども、僕が強く感じたのは、その、「終わらなさ」であった。



◇真実の不在性


 僕自身、二人の対話には、感動を覚えた。上のは、僕の言葉に置き換わってしまったから陳腐なのだけれども、画力も伴って、非常に重厚なシーンであったと思う。ただ単に戦争している漫画ではない点が、面白い作品である。


 王と大臣、その二人が僕の目の前に現れて、それぞれが自分の目指す政治、人の本質を語ったとしたら、僕はそれぞれに対して感動して、忠誠を誓うだろう。


 ……つまり、カリスマ性をもってして、納得できる自分だけの「エピソード」と、ロジックがあれば、大抵の人を納得させ、従わせることができるのである。特に凡人へは明らかだ。


 ということは、結局のところ、「真実なんてない」と僕が最近ぼやいている、嘆いている、言い聞かせていることの示唆なのではないかと、思うのだ。

 戦争の云々、貨幣制度の云々、人の温かい心(光)、それらは戦国時代から現代にいたっても、結局分からないのである。


 太平洋戦争後に、今に至るまで日本で戦争は起きていないが、世界中で戦争は起こっていて、なくなる気配がない。

 しかし、戦前日本でも、江戸時代とか、数百年平和だった時代もあるし、今戦争・紛争が続く地域でも、ローマ帝国のパクス・ロマーナとか、平和な時代もあったわけだ(きっとこう書くと、歴史好きの方とか、学者たちは、「いや実はこんなことがあった」と反例を挙げて頂けるのである。……と、まさにこのことが、これから書こうとすることを示しているのだけれども、今はとりまず先を進める)。


 歴史は繰り返す。流転する。今僕たちが平和を享受できているのは事実。しかしこれからどうなるのか。

 明らかになることはない、何せ、明日は何があるか分からないのだから。


 だから、学ぶべきことは、「真実なんてない」という自明なことである。でも、だとしたら、何を目指して生きていけばいいのか。とりあえず、自分の命だけを長らえることを目指せばいいのか。周囲の人、身近な人、会社のため、日本のため、何のためなのか。



 この考え方、昔は重要だったのかもしれない。戦争がない平和な世界をつくるため、武力をもって中国全土(天下)を統一する、という理屈が成り立ったのは、現に人が人を殺す、恐怖の世界が身近にあったからだ。

 だから、戦争はよくない、人を殺すことはよくないことだ、と現代人は分かっている。ただし、小規模な殺人事件はなくならないし、じゃあ死刑制度はなんなのか、というのもある。死刑制度は人が人を殺すのではなく、権力が人を殺すのであるから大丈夫だ、とか、その制度をめぐっての議論も尽きることはない。もちろん、この記事でどっちが賛成かを書くつもりはないし、そもそもよく分からない、むしろ、答えなんてないとすら思っているのが正しいぐらいだ。

 とりあえず、好きな人を殺されたら、殺してやりたいと思う、かもしれない、実際に起こったことがないから分からない。が、そういった出来事を描いた作品を読むと、犯人を憎いと思うことがあるから、そうなのだと思う、そういった意味で、エンターテイメント(作品)は重要だと思う。


 話がちょっとズレている、死刑制度が云々でなく、いやそもそも、戦争がどうこう、というのも同じぐらい僕はよく分からない。じゃあ、経済戦争はいいのか、ということもある。直接的に命の奪い合いをしなくても、経済的に追い詰めることによって間接的に殺すことはできる。第一次世界大戦とか第二次世界大戦における原因の一つ、帝国主義(植民地支配)とそれに乗り遅れた国々といった構図は、歴史的事実としてあるわけだ。だからといって、侵略していいか、というとそうではないのだし、この手の議論も尽きることはない。



 結局、学校の勉強というか、歴史というのは、人間ってこういったこともするのだという、「エンターテイメント」なのだ――と書くと不適切だが、利用の仕方は何ら変わらない。そこから分かることは、「何が正しいかは分からない」ということだ。


「だから、これから社会を担う若い皆さんが、一人ひとり考えていきましょうね」


 というセリフ、結構よく聞いたことがあるのではないだろうか。


「知るか!」と、本を叩き付けたい。


 保育園が少ないから日本の政治はダメだ、とあるブログで話題になっているという。

 保育園が少ないことがなぜダメなのか。保育園がないと、女性が働けないから。

 女性が働けないのは何故ダメなのか。男性も女性も、高齢者も、みんながみんな活躍しないといけないからだ。

 なんでみんな活躍しないといけないのか。えっと……日本の経済がよくないから?

 なんでみんな働くと経済がよくなるのか、外国人労働者を受け入れるのではだめなのか。

 外国人ばかりになると治安が悪くなるから……? でも国内需要が増えるから景気も良くなるのでは?


 段々ハテナ、が多くなっていく。

 だから、結局、大王と大臣の対話じゃないが、どんな社会にするのか、どんな日本にするのか、そのビジョンが、まったくもって不透明であって、民主主義だから対論は必ずあるし、そもそも、2000年前とも違い高度化複雑化した社会においては、一つのビジョンからすべてを敷衍して考えられるというのは、非常に難しかったり、穴があったり、危険だったりする。

 だからこそ、反転して、カリスマ性をもって、周りをできるだけ多く納得させられたら、それが真実であって、進めるべき道であって、ビジョンであって、「正論」であって。



◇お金を稼げる人


 人は、「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」という本能がある。社会は変わる、世界は変わる、自然は変わる。変化があれば、それに順応する言動、行動が発生する、結果として、少数派だったことが主流になっていく、という流れもある。


 そして、その主流を操る人が、お金を多く稼ぐことができる、そういう世界構造である。

 そんな世界の中で、僕はどんな生き方を目指そうというのか。

 別に最先端を生きていこうとは思わない……いや、思ったところでできないから、はなから諦めているだけなのだろうか。


「物語」は、確かに、先端モードをいく作品が、「○○賞」を受賞したりするのだけれども、同時に、現代風潮を的確に表す作品も評価される場合がある。後者は、娯楽小説と呼ばれて、前者は「文学」とか大そうな名前がつく場合がある。


 僕は、娯楽を嗜みながら、たらたらと生きていくので満足なのだろうか?


「いやいやそんなはずはない! 人はみな、生まれてきた意味があるんだ! 自分の使命を必死に果たさなきゃいけないんだ!」


 現代社会、どこにでもそういった「煽り」が存在する。商品を売るための手法として、不安を煽って、消費意欲を発生させるということもある。

 もちろん、「煽って」という言葉も、扇動的であって、正しくはない。しかし「不安」というのが、科学的根拠に基づいて正しい、なんて、今の世の中で立証しながら、一つずつ積み重ねていく、というそんな時代はとうの昔に終わった(科学が全盛期だった17世紀~18世紀の科学革命だって、思想として成り立っていただけであって、実情は違った可能性だってある)。



◇真理が見えにくい時代


 僕は、今僕たちが生きる時代を、「不透明な時代」という言葉をもって、表現している。別に僕の造語ではなくて、よく言われていることだ。何が不透明か、という感覚は、昔と今とで、僕自身の中ですら異なっていると思うけれど、「何をしたら正解か」というのが分からない時代、といえる。


「明日に何があるか分からないから不安なのだ、不透明なのだ」のようなことを先ほど書いたが、それは今も昔も同じだったろうし、そのこと自体は重要ではない。未来予知なんて、誰もできやしない。できるのは一つ、「信じること」だ。


 問題は、価値の多様化とか、IT革命とか、グローバリズムとかで、いよいよもって、超越的な規定が衰退していったことである。


 人の幸福とは何か、という疑義自体が、イデオロギーがあった時代には、発生する余地がなかった。共産主義だろうが、資本主義だろうが、どっちかは正しい、と信じられていた。

 でも、「資本主義ってのも、結構大変だね」となって、修正論にあふれて、ちぐはぐすぎて、もうよく分からなくなっている。社会保障制度も同じだ。政治的な話になると、「利権」ってやつも絡むのだろうけど、誰だって楽をしたい、利益を得たい、そう考える。公共の精神なんて嘘っぱちである。



 情報の価値が完全に一変した世界に私たちは生きている。

 知識というものが、確かに価値をもっていた時代があった。例えば、雑学でも、生活の知恵でも、それは料理のコツだとか、日曜大工のやり方だとか、お盆における法事のやり方とか、ちょっとしたことでも、人と人との関係の中で受け継がれていくことがあった。


 その知識のあるなしが、人との関係の意義だったし、主従というときついが、関係性を成り立たせる触媒になっていた。


 デファクトスタンダードになった、TCP/IPの技術、いわゆるインターネット技術は、情報の均質化をもたらした。


 とか、かっこつけて書くことはできるが、こういった言葉の重さが失われる、ということである。上に書いたようなことは、確かに、今は何も参照せずに、自分の言葉で書いてみたものだが、「インターネットが個々人のもつ情報の均質化を促した」とか、別に新しい考え方でも何でもないだろう。


 僕がよく勘違いしてしまう(この勘違いは、知識的にではなく、感覚的、実感的であることを注記しておく必要がある)のは、新しい知識的な価値が生み出されなくなったとか、そういったことではない。とんと聞かなくなってしまったが、万物に重さを与えるヒッグス粒子とか、新しい知識体系は、日々更新されていっていることだろう。


 ここで、問題となるのは、その新しい知識、保持されるべき、語られるべき知識というものが、相当に専門化されてしまっていることである。


 一般人として、たどり着くのは、到底困難なようなもの。もちろん、すぐさま書いておく必要があるのは、努力が無駄だとか、頑張ってもどうせたかがしれているとか、そんな諦めとか堕落とか、そういうものではない。そもそも、人の限界なんて、誰にも分らないのだから、限界を勝手に引いてしまう必要はどこにもない。


 それでも。

 それでもなお、到達できない領域はある。次元はある。


 オリンピック、甲子園、スポーツの世界に限らずとも、そうだ。

 すぐに書いておく必要があるのは、斜に構えて、世界の法則がわかっていますみたいな、上から目線とする気は全くないということだ。あくまでも主体は自分であって、思考は実存のためしかない。


 それでも、だ。現実世界と、思考(ここでは理想的な自己)との乖離は発生するのだから、その調整を、時に行う必要があるということだ。



 答えなんてないから、好きにしなよ、あとは時間にまかせなよ、というのが、いつもの結論であった。

 しかし、精神的に非常に不安定というか、具合が悪くなったとき、ただ耐えるだけというのは、もう自分にはできない。だから、少し元気な時に、いろいろと考えておく必要があると、思うのだ。「いろいろ」という言葉を使ってしまった。「いろいろ」という言葉は、「まぁ」という言葉と同じく、何も考えていないときに、当座しのぎに使う逃げの言葉だ、よくない。


 まぁ、こうやって書いているのは、その貯金のようなものだ。一度、一切愚痴を言わずに行動を続ける、と決めてしまえば、その通りに実行することができる。

 いま、しばらくは、ここ数年分に思っていること、感じたことを、くだらないかどうか判断することなく、書き連ねていくことにする。

 書きながらでなければ考えられないというのは、どうやら僕にとって真実のようだからな。


 次回はもう少し、自己、というものに触れてみたいと思う。

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